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管理人hikaliの開発の日々の備忘録です。
本家はこちら。
http://plaza.rakuten.co.jp/hikali/
1974年当時、SF作家は14人しかいなかったぽい件
『74年日本SFベスト集成』より
 1974年前半のSF界の話題は、前年からの「日本沈没」ブームが、小松左京の、同作品による日本推理作家協会賞受賞や、同じく彼が一億二千万円の収入で文壇長者番付五位にランクされるといった形で、まだ続いていた。後半では、半村良「不可視領域」の直木賞ノミネートがある。新聞社対テレビ局の超能力論争なども話題になったが、十年前ならいざ知らず、現在の日本SFとは本質的に無関係であろう。(中略)(注:中略は編集者。本管理人ではない)

 1974年のSF界を評して石川喬司は「表面は一応にぎやかだったが、内実は意外に空疎な一年だったといえそうだ」と書いている。しかし、本集成収録の短編群が発表されただけでも成果といわねばならないだろう。いかに世間的にSFがクローズアップされていようと、内実はSFを書き続けている作家が全部で十数人という日本SFの現状だ。あまり期待が大きすぎると、書いている側としては息切れしてしまうのである。
 (管理人注:本解説は筒井康孝が書いている。「時かけ」の筒井康隆ですよ!(笑))


 大御所の名前ばかり出てくるとけど、当時は貧素だったとのこと。
 わたしがなぜか持っている(入手経路は秘密)のは71年日本SFベスト集成で、わたしはその中にある広告からこれを抜き出した。
 ちなみに、この集成は、

 71年
 半村良     農閑期大作戦
 眉村卓     真昼の断層
 星真一     使者
 小松左京    保護鳥
 光瀬龍     多聞寺討伐
 藤子不二雄   ヒョンヒョロ
 広瀬正     二重人格
 河野典生    パストラル
 梶尾真治    美亜へ贈る真珠
 永井豪     ススムちゃん大ショック
 高斎 正    ニューブリングに陽は落ちて
 荒巻義雄    ある晴れた日のウィーンは森の中にたたずむ

 となっていって、小松左京と荒巻義雄が乾いた笑いで迎えたいほどの圧倒的な作品で他を凌駕している。解説によると小松左京は(念のために行っておくが、この集成の全責任者は「時かけ」の筒井康隆)圧倒的に良質な恐怖小説を量産していたらしい。
 わたしも小松左京自薦のホラー短編集を持っているのだが、そこに収録された傑作の数々が、この時期の解説にあげられている。
 まさに小松左京全盛期だったのだろう。
 日本に恐怖小説作家は、三人しかいない。
 小松左京、高橋克彦、夢野久作である。
 あとは、ダークファンタジーか怪奇小説だ。
 ホラーマニアだからこれは断言できるのであるが、直木賞ぐらいは取れそうなレベルまで、このジャンルをやりこんだ人間はこいつらだけである。
 あとは甘っちょろい。
 本選は、藤子不二雄と永井豪が入っているのも興味深い。
 両作とも別ルートですでに読んでいたのだが、こんなに評価が高かったのかと改めて驚く。

 72年
 星新一
 筒井康隆
 山野浩一
 松本零士
 豊田有恒
 河野典生
 荒巻義雄
 藤本泉
 小松左京

 73年
 北杜夫
 星新一
 河野典生
 眉村卓
 増村博
 半村良
 大伴昌司
 野田昌宏
 筒井康隆
 矢野徹
 諸星大二郎
 小松左京
 田中光二
 荒巻義雄

 74年
 眉村卓
 小松左京
 筒井康隆
 豊田有恒
 諸星大三郎
 真城昭
 星新一
 かんべむさし
 田中光二
 石川喬司
 亜羅叉の沙
 河野典生
 永井豪
 半村良

 である。

 ということは、この時代にまともにSFを書いていたのは、

 かんべむさし
 亜羅叉の沙
 河野典生
 梶尾真治
 光瀬龍
 広瀬正
 荒巻義雄
 高斎正
 山野浩一
 小松左京
 真城昭
 星新一
 石川喬司
 増村博
 大伴昌司
 田中光二
 筒井康隆
 藤本泉
 半村良
 眉村卓
 豊田有恒
 北杜夫
 野田昌宏
 矢野徹
 諸星大三郎

 ということになる。
 これは多いのか、少ないのか。
 小さなジャンルだったと認識した。
| 書評 | 01:00 | comments(0) | trackbacks(0) |
「タイム・リーパー」 シリーズ 大原まり子を考える
 本シリーズは、グーグル先生に本ブログの趣旨をご理解いただき、ハードカバーSFが本ブログのスポンサーになってくれるよう、気長に待ち続ける連載です。

 ずいぶん最近、大原まり子を読んでないなあと思いつつ、Wikipediaで調べてみると、どうもここ数年本を書いてないようだ。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/
 「デビュー以降、旺盛な執筆で女流のみならず日本のSF全体を牽引した。」
 と、ちょ! ちょっと!
 先生!
 大原センセイ!!
 殺されちゃってますよ!!
 牽引した、ですよ!
 確かに、眺めると、もう6年近く書いてない。
 って、SF作家協会会長なんてやってる場合じゃないですよ、センセ!
 センセ以外にまともなSF作家なんて、日本にはいないんですから、もうセンセ以外全部いなくなっちゃってもいいんデスヨ! グリーンデスヨ!

 これは非常に危機的なので、ファンとしてよいしょして、映画化でもされて、センセにばりばりと書いてもらうことを気長に待つ連載で取り上げるしかない! と思ったしだいである。
 ちなみにわたしの大原まり子好きは、本家の方でも取り上げており、その異様さは周知済みである。

 ■病気になる物語
  http://plaza.rakuten.co.jp/hikali/diary/200411090000/


 しかし、よく探してみても、あんまり深く、大原まり子について語ったことがないような気がしてきた。昔の文章は、タイトルを見るだけでも恥ずかしさでめまいがしてくるのだが、それでも探したりないと言うほど探していないわけではない。
 ってことは、もしかしてひょっとして、書いたことないんじゃないか、と思えてくる。
 しゃーないなぁと立ち上がって、本棚へ行く。
 SF棚にスペースが用意されている日本人は、大原まり子と野尻抱介だけ。
 野尻センセも最近お書きなられている姿を見ないので、ひょっとして・・・、まあ、よいよい、都合の悪い連想は放棄して、気長に復活を待つ連載を続けよう。


 ■大原まり子は腐女子だと思え

 いきなり豪快なところから始まるが、大原まり子は現在に言う腐女子を先取りした存在だったと言ってよいだろう。
 ・処女少女マンガ家の念力(1985年)
 ・オタクと三人の魔女(1995年)
 ・超・恋・愛(2001年)
 と、もうタイトルだけ見ているだけで、頭がおかしいんじゃないかと思えてくる作家であることは確かである。
 こういうのを避けて、ちょっと安全そうなタイトルのものを手にとって見ようとしても、実は中は腐女子ものであった、ということはしばしばあることなので、この大原まり子は腐女子以外の読み手にとっては、地雷満載の毒ガス地帯、と思えてしまうのは、仕方ないことなのである。
 なので、一般的な常識人にとっては避けるべき作家であり、あまり大きな声でファンであることを自慢できる作家でないことは自明だ。
 しかし、困るのだ。
 この大原まり子は腐女子のくせに才能があるのである。
 もう暴走気味になる場合もあるが、いくつかの金字塔を打ち立てており、それを読むと、そんじょそこらの売れてる海外SF作家も吹っ飛ばしてしまうほど強烈な作品を描く。
 だから、大原まり子を読む人間は、それを書いている人間が腐女子であることを諦めて、その部分に寛容になり、それ以外の部分からやってくるイメージのシャワーを味わうべきと、私は思うのだ。
 代表作となると、
 「戦争を演じた神々たち[全]」
 「アルカイック・ステイツ」
 「ハイブリッド・チャイル」
 あたりになるのだろうか?
 わたしはそんなせまっくるしい評価を重箱の隅をつつくような難解な議論でしているせまっくるしい人々のことをふんと鼻でせせら笑って、なぜ、この「タイム・リーパ」が超傑作であるかを語って、人々の大原まり子観をぶっ壊してやろう。

 アマゾンの書評を紹介しよう。
 べたなタイトルでべたなお話(過去でわかかりしパパに恋心とか)ではあります。が、そこは大原まりこならではの世界観、恋愛観で独自な世界を描ききっています。
 軽い読み物としてすらっと読める、でも本格SF。移動中などにぴったりの本なのでは?

 わたしが殺意を抱いてぶっ潰そうとしているのがなんであるかは非常に良く分かるであろう。というか、こいつは全部読んでない(これは間違いない)。
 面白い物語とはいったいなんであるか、という話をしよう。
 その前に正直な今の気持ちを大声にして、書いておこう。
 この世の中のSF業界人特に批評家、全員死ね!! クズども、いつかてめーらを、根こそぎ地獄へ送り込んでやる!
 さて、すっきりしたところで、タイムリーパの話をしよう。


 ■あらすじ −ハヤカワから読み解く

 本書はハヤカワから文庫が出ている。
 だから、裏には丁寧な分かりやすいあらすじがついているのだが、ハヤカワの編集は職人なので、残念ながら、ハヤカワフォーマットでないと心に刺さらないあらすじを書く。
 アマゾンに全く同じ文章が載っているのだがこれが全くいただけない。
 こんな感じ。

 平凡な銀行員の森坂徹は仕事で疲れた夏の日の帰り道、恋人の目の前で交通事故に遭った。瀕死の重傷を負った彼を収容したのは、なんと2018年の救急病院。しかも、その怪我のために首から下は機械の身体に換えられていた。彼は30年の時を超え、未来へとタイム・スリップしていたのだ。やがて時間跳躍能力を持つ森坂をめぐり、未来のタイム・パトロールと警察の特殊能力開発部隊との間で、凄絶な戦いが繰り広げられてゆく。

 なにこれ?
 ハヤカワ字詰めで行くとこう。

  平凡な銀行員の森坂徹は仕事で疲
  れた夏の日の帰り道、恋人の目の
  前で交通事故に遭った。瀕死の重
  傷を負った彼を収容したのは、な
  んと2018年の救急病院。しかも、
  その怪我のために首から下は機械
  の身体に換えられていた。彼は30
  年の時を超え、未来へとタイム・
  スリップしていたのだ。やがて時
  間跳躍能力を持つ森坂をめぐり、
  未来のタイム・パトロールと警察
  の特殊能力開発部隊との間で、凄
  絶な戦いが繰り広げられてゆく。

 文章の字詰めをこのフォーマットで考えているのが良く分かる。
 このあらすじは13行で書かれているが、実は、このペースで書くと1200行ぐらいになりそうなのが、本書である。
 はっきり行って、中で起こることが非常に多い。
 しかし、あらすじを見直してほしい。
 タイム・パトロールと特殊能力開発部隊との間で壮絶な戦いが繰り広げられるらしい。
 大筋はあっているのだが、その魅力を十分に伝えているとは思えない。
 ちなみに、本格的に面白くなってくるのは150ページ以降である。

 おおよそ、このお話は、確かに、このタイム・パトロールと特殊能力開発部隊の戦いであるのだが、そこを中心に読んで行くと、読みどころを見あまってしまう。
 わたしが言いたいのは、この話は4次元的な話であるというところなのである。
 タイム・パトロールには数多くの魅力的な登場人物がおり、この人物一人一人が、「それぞれの世紀」の常識で物事を判断する。
 この世紀ごとのレイヤーが、タイム・パトロールの人間すべてに適応されていて、フジオミどこか不良っぽく、キサラギは軍人のようで、アマカスは古式ゆかしい。主人公のトオルはまじめな銀行員で、こういった面々が時空を飛び越えていく。
 この、時空を飛び越えたチームが、あらゆるレイヤーを理解しながら、協力して21世紀を舞台に、事件を解決していくのである。
 想像力豊かな大原まり子は、キサラギの生きた30世紀をどのような世界にしたのだろうか?
 この21世紀を横軸に、タイム・パトロールの中にある世紀レイヤーを縦軸に、この物語は螺旋のように伸び上がっていく。
 リープするようであり、ループするようであり、ジャンプするようである。
 その姿の伸びやかなこと。
 そして、明確な姿を与えられた跳躍者たちは、無駄のない言葉で淡々と語られ、それが逆に生き生きとした生命感を持って、わたしの胸に迫る。
 わたしは枯れたように書いて、そこに色を足していくような書き方を良くするけれど、饒舌な大原まり子にしては珍しく、そういう書き方をしているのが本書だ。
 ちょっと引用をしてみよう。
 それは、呪いであり、叫び、悲鳴、むせび泣きであった。そのことはアガシにもわかった。わからなかったのは、それがいったい、なにに対する呪いなのか、という点だ。
 体はさらにまわった。ゴムがちぎれるように、ぱちん、とはじけた。
 マサミが叫んだ。
「ちくしょう!」
 ホースのような腸が大小とりまぜてたくさん床の上にこぼれ落ちた。
 チェス盤のよう紋様の冷たい床が、またたくまに汚れていった。
 それから血が……信じられないほどたくさんの血が、長々と吹きだした。

 シンプルな言葉というのは、とてつもなく強烈に脳みそにダイレクトに届く。
 よしもとばななは、シンプルな言葉を書くことが非常に上手だが、極彩色に塗りがちな大原まり子がある意味ストレートに徹した稀有な作品であったと、わたしは思ってしまう。だから、ズガンと脳髄に響く。
 物語の書き方というのは、本来はこういうものであるべきだと言ってしまうのは、ちょっと乱暴だが、わたしが書きたい文章というのは、たぶんこういう文章だと思う。
 シンプルに。
 そしてコテコテに。
 でも、深く。
 そして、跳ぶように。

 わたしが送りうる最大の賛辞として、この項を残す。
| 書評 | 21:28 | comments(0) | trackbacks(1) |
 「去年を待ちながら」 シリーズ(?) ディックを考える
 分館であることをいいことに適当に書き散らしている本ブログであるが、グーグル先生がなぜか、このブログをシステム開発系とお認識されているようで、非常に悔しいので、ハードカバーSFが当ブログのスポンサーになってくれるよう、書評を突っ込んでいこうと思う。


 ■マニア層と一般層で全く認識が違うディック

 フィリップ・k・ディックといえば、おそらく現段階で最も本が売れるSF作家であると思うのだが、マニアと一般人では全く頭に描いているディック像が違う。

 ディックが有名になったのはその作品が映画化されてからであり、それまでは全く売れず、生活に苦しんでいたようである。
 映画化されたのは次の作品。
 ・アンドロイドは電気羊の夢を見るか?(ブレードランナー)
 ・追憶売ります(トータルリコール)
 ・マイノリティーリポート(マイノリティーリポート)
 といった感じ。
 ディックマニアからしてみれば、重要な作品がぜんぜん出てないじゃないか、という話になるのだが、本質的にディックの傑作作品は映画化しにくいのではと思える節がある。

 一般に認識される代表作は次のような作品になると思う。
 1.アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
 2.高い城の男
 3.パーマー・エルドリッチと三つの聖痕
 4.流れよわが涙、と警官は言った
 5.暗闇のスキャナー

 1.と5.は映画化されているのだが、中位は非常に映画化が難しそうである。
 しかしと、ディックマニアは思う。
 ディックの傑作は、この辺じゃないんだよね、と。
 どっちかというと、ここに並んでいるのは分かりやすい作品であるのだ。


 ■マニア層は別にオタッキーな話をしたいわけではない

 一般の人とディックマニアが、ディックの作品を語ると、必ずといってよいほど、その見識が全く違ってしまう。
 これはとても不思議なようであるが、この原因を探ると次のようになる。

 ・ディックマニアになるまでの典型的な流れ

 1.映画を見て、超代表作を読み始める。
 2.超代表作を読み終わって、代表作を読み始める。
 3.この辺りで、映画を見直してみて、あらあら、わかってないんじゃないの? と思う。
 4.代表作を読み終え、この辺りから短編もあさり始める。
 5.短編と平行して、市販されている本を読み始める。
 6.この辺りで代表作を見直してみて、あらあら、わかってないんじゃないの? と思う。
 7.市販本を読み終え、今度は絶版本に手を出し始める。
 8.古書店に行き、一冊5000円とか暴利な値段がついているのをなんのためらいもなく買い始める。
 9.この辺りで市販本を見直してみて、あらあら、わかってないんじゃないの? と思う。
 10.ついに邦訳本を全部読みきり、仕方ないので、もう一回代表作を読み始める。
 11.読みきったオタッキーな知識で読み始めると、全く違う本のように感じてくる。
 12.そのさらに磨きがかかった知識で読み始めると、全部の本が全く違うように思えてくる。
 13.そして、さらに・・・以下略

 わたしはガンダムオタクであるが、別にわたしは、ガンキャノン量産型のジェネレータ出力のおかしさについてしたいと思うことはない。ギラドーガの系譜的な話は非常に楽しい話なのだが、各年代ごとのスラスターの出力向上曲線をグラフ化して、そのおかしさについて語りたいと思ったことは一度もない。

 しかし、ギラドーガの話をしてしまうと、どうしても、
「スラスターの形状から見ると、おそらくこの系譜は・・・」
 などと、一般人にどん引きされてしまうようなマニアックな部分に話が及んでしまう。これは単純に知識が枝葉まで及んでしまっているため自然に出てきてしまうことであり、別に、全モビルスーツのスラスター形状ぐらい分かっているよね? といいたいわけではない。
 第一、ガンダムのモビルスーツのデザインをしている人々が、全モビルスーツのスラスター形状を熟知の上で、デザインをしているわけではないことぐらい、分かっている。
 別に重箱の隅をつつきたいのではなく、そうやって理解しているため、一般的な話をしようとすると、自然に出てきてしまうのである。

 ディックの話もこれに類似するのだが、SFはモビルスーツとは違い、知れば知るほど見える世界が変わってくるから、厄介である。


 ■一般人とマニアの間に摩擦が起こるわけ

 こういう構造の中、一般人が高い城の男を語り始めてしまうと、マニアは苦々しく眉をひそめるしかない。マニアにしてみれば、高い城の男は非常に分かりやすい話ではあるのだけど、ディック度が薄く、よりディック度の高い作品を読んだ後に読み直すと、全く違う作品に読めるからである。
 そこで、マニアな人々は、つい、うっかりと、なぜそれが薄いのかを説明せずに、どう考えても一般人には濃すぎる本を渡してしまう。
 もしくは、もっと無思慮に、「去年を待ちながら」を読んでから、高い城の男は語ったほうがいいよなどと、どう考えても一般人いじめとしか思えない言葉を吐いてしまう。
 よく考えてほしい。
 目の前にνガンダムを語る初心者がいる。
 フィンファンネルについて、語るにはビグザムから話さなければならないのは明らかであり、エルメスから、キュベレイ、クインマンサにいたる系譜を話した後、αアジールに至り、ようやっと、ギュネイとのあの対決シーンを語れるようになるのだ。
 ましてや、ガンダム、Zガンダム、ZZ、Sと進んできた(いやー、凄いですね、さっぱり分からないだろうなあ。Sはスペリオールガンダムですね)ガンダムの系譜読み解き、その進化の構造を理解したうえでなければ、νガンダムに冠せられた、歴代ガンダムの最大公約数的ガンダムという言葉の理解は出来ないだろう。
「だから、νガンダム好きなんだよねぇ〜。」
 と、この言葉が出てくるまでの、膨大な情報があるのだ。
 なので、一般人に、
「フィンファンネルって、なんであんなに大きいんですか?」
 といわれると、ぐわー、と頭をかきむしり、とりあえずこれから見ろと、初代ガンダムのDVDボックスを渡してしまうのである。
 この典型的マニアが言いたいのは、ビグザムとエルメスを見てからだな、といいたいのである。

 この辺の話は、本家でちょっとだけ書いた。
 ■ 短編集と、オリジナルテープと、ソーシャルネット
 

 なんか凄い話が長くなってきた・・・。


 ■「去年を待ちながら」は本人的にも傑作

 ディックは、実は自分で自作の評をしているので、これが非常に参考になる。
 たとえば、酷評しているDr.FUTURITYの評はこんな感じだ。
 
 こいつはただのクズだ。金をかせぐためだけの小説だ。このころのSFなんて、みんなそういうものだったんだ。読者はごく限られていて、アイデアは使い古されたもの、技術は皆無。ほんとうにすぐれた作家は、こんなジャンルにはやってこなかった。新しい血はなかった。過去の偉大な作家たちは、死ぬか、でなければ過去の作品の再生産に堕していた。

 非常に耳が痛い。

 去年を待ちながらはディック自身も絶賛している。
 
 わたしはある意味で、ムッソリーニを尊敬している。この本に出てくるジーノ・モリナーリは、ムッソリーニがモデルになっているんだ。ムッソリーニはとても立派な男だと思う。彼の悲劇はヒットラーに影響されてしまったことだ。しかし、そういう人間はたくさんいるじゃないか。ムッソリーニだけを責めるわけにはいかない。『去年を待ちながら』はじつによく書けた小説だと思う。ほんとうに気に入っている作品だ。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』もそうだがね。


 ここまでこの文章を読んできた方は、おそらく気付くはずだ。
 電気羊は有名で読みやすいけど、去年は無名で読みにくくない?
 ちがうちがう!
 電気羊は読みやすく書かれているけれど、本当に書きたいところはすごい深いところにあるんだよ!
 代表作から無名作に移り、また代表作を読むと、全く違って見える理由はここにある。
 ディックは徐々にその濃さを増していきながら、濃すぎると、分かりやすくしたりと、行ったり帰ったりをしているのである。
 書いているテーマは、大枠ではほとんど変わらない。
 ただ、それがどんどん深化していくのである。
 しかし、読み手がいるので、表面上は難しくしないだけなのである。


 ■ディックの言葉にやられる理由

 ディックは映画がヒットするまで、貧乏で生活にも苦労していたようである。
 出版社に安く買い叩かれたりと、とにかく悲惨なのだが、その苦労の中で、人生をどこかであきらめ、そしてあきらめきれず、最後の最後は自業自得で身体を壊して死んでしまうのだが、その中で拾ってきた見識というのは、正直びびるところがある。

 たとえばわたしはローマ史が非常に好きなのだが、その中でもスベトニウスが大好きである。しかし、塩野七生にいわせれば、それよりも高尚なブルタークでさえ、迷信に振り回されると酷評し、スベトニウスなどはゴシップ作家でもあるかのように見ている節がある。
 そりゃ、現在の視点で見れば、スベトニウスのゴシップ大好きぶりは、全く無節操に思えてくるが、わたしはそこに描かれた、醜いこともある権力者の姿が、胸に迫るように思える。

 同じような理由で、わたしは毛沢東の私生活も好きなのだが、その清濁に飲み込まれた強欲な権力者が、度重なる危機に陥りながらも、ひらめきの輝きを見せ、克服していく姿を見ると、わたしは決して近寄りたくはないのだけど(巻き込まれて不幸になるので)、こういうものかと人間を見るようになる。

 翻って、ディックの去年を待ちながらには、同じような人間臭のする、権力者が登場する。モリナーリであるのだが、わたしはこの愛すべき人物が、ディックの妄想ではなく、ムッソリーニをモデルにしていることを知り、驚愕するのだ。
 ディックは、そういう人間はたくさんいるじゃないか、とさらりと言う。
 わたしがこれまで読んできた、人間観を、透かして見られているようで、少し背筋が冷えるのだ。
 ディックの作品に登場するヒーローは醜いこともある人間として登場する。
 その清濁に飲み込まれた一人の人間として、言葉をわたしに投げるので、わたしはそれに参ってしまうのだ。

 去年を待ちながらのタイトルになったセリフを引用しよう。
 
「自分のちっぽけな人生が、横やうしろではなく、前にあるんだということを忘れてしまっているのじゃないか? 去年が戻ってくるのでも待っているのかね?」
「おっしゃるとおりです。ずっと去年が戻ってくるのを待っていました。でも、どうやら戻ってはこないようです」


 ディックという人間はこの一言を言いたいがために、壮大な設定と大掛かりなアイデアを持ち出し、物語を作って見せるのである。


 追記:

 本エントリーは2007年2月付近に、勃発した、新参SF者と古参SF者のディックをめぐってのやり取りに触発されて書いたものです。

 この追記を書いている2008年7月においても同様のやりとりが発生しました。これはどうも構造的に、ディックの作品において発生しやすい問題のようです。ちなみに、1995年当時のniftyのSFフォーラム、FSFにても同様の騒ぎが起こったのを思い出しながら、これは書かれたものです。

 該当ページより、トラックバックをいただいたようなのですが、たぶんこのJUGEMの仕様上の問題で正常に受け取れていないようです。ですので、こちらにリンクをはっておきます。

 ■SFなめられますた - みねちんにっき
 http://d.hatena.ne.jp/minechi_n/20080703/1215100021


 ご紹介、ありがとう。

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