CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< December 2017 >>
本家STORY FACTサイト
NEW ENTRIES
CATEGORIES
RECENT COMMENTS
  • GB解析 -NG- 邪聖剣ネクロマンサー イシュメリアの悪夢 やったことあるんだよね・・・
    hikali (11/24)
  • GB解析 -NG- 邪聖剣ネクロマンサー イシュメリアの悪夢 やったことあるんだよね・・・
    マイケル村田 (11/21)
  • GB解析 -NG- 新・鬼ヶ島 暗黒の化身を討て! 成功した理由が良く分かりました。
    hikali (06/27)
  • GB解析 -NG- 新・鬼ヶ島 暗黒の化身を討て! 成功した理由が良く分かりました。
    マイケル村田 (06/24)
  • GB解析 -NG- ルパン三世/灼熱の監獄島 なかなかドラマチックなはなしなのだが・・・。
    hikali (06/23)
  • GB解析 -NG- ルパン三世/灼熱の監獄島 なかなかドラマチックなはなしなのだが・・・。
    マイケル村田 (06/20)
  • GB解析 -NG- トップをねらえ! 燃えろ! 国際マシーン兵器大会!! 戦闘大会・・・。
    hikali (05/21)
  • GB解析 -NG- トップをねらえ! 燃えろ! 国際マシーン兵器大会!! 戦闘大会・・・。
    マイケル村田 (05/17)
  •  『あらしにあこがれて』15
    hikali (05/02)
  •  『あらしにあこがれて』15
    hikali (05/02)
RECENT TRACKBACK
ARCHIVES
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
管理人hikaliの開発の日々の備忘録です。
本家はこちら。
http://plaza.rakuten.co.jp/hikali/
 『三顧の礼』(1/4?)

 最近入院をしていて、積読本の解消をしていた。
 無限の書庫であるキンドルに居座っていたのは吉川英治の『宮本武蔵』で、著作権の存続期間を経過した(吉川英治の死後50年)ので買った。読むと、あっという間に消化してしまう。
 それで吉川英治作『三国志』を買う。
 実は小説として三国志を通しで読むのは人生初めてで、おおまかな歴史の流れや、個別のエピソードの断片ぐらいは知ってるけど、三顧の礼のシーンを読んで感じ入ってしまったのだから、その程度にしか三国志を知らなかった。ゲームでしか向き合ったことがなかったのだ。
 ぶっちゃけて言うと、わたしは西洋史はともかく東洋史は入試試験で使うかどうかぐらいのレベルしか知らず、周瑜が死ぬシーンを読んで、あれ、ここで死ぬの? なんかの間違いじゃない? と、吉村英二の勘違いか、などと思ってしまったほどである(それぐらい、はい? と思ってしまうぐらい唐突すぎる死にかたをする)。

 その代わりに西洋史の読み込みは、人物伝を中心に偏りながら、多いと言えば多い。
 例えて言うならば、ローマの共和制から帝政への移り変わりの時代は、カエサルの物語として小説が書けるぐらいには理解していて、クラックスは入れてもいいけどどうでもよくて、ポンペイウスは見どころが多いので小説が書ける(略)、アントニスは(略)、アウグストゥスは(略)、クレオパトラは(略)という感じで全部ばらばらで細かいエピソードまで覚えているわけである(あと、まあスッラも入れたいなあとか)。
 簡単に言うと、ギリシャ・ローマの人物伝は全部使っていいから、三国志風にその時代の物語を書いてみて、と言われたら、
 あ、まあ、締切と報酬はどんな感じになりますか?
 と、あんまり無茶な依頼でなければ受けてしまいそうになる。

 西洋史で三国志のような形式を取っているのはイーリアスぐらいで、そもそも歴史物語といえるような著作がほとんどない。「歴史」というタイトルのヘロドトスの著作はどう見ても「地誌」だし、「戦史」というタイトルのトゥキディティスの著作は「戦史論」とでも名付けたい学術書だし、「ガリア戦記」というカエサルの著作は自身の率いる華々しいガリア方面軍の戦いの報告書だ。
 こう言った著作を除くと残っているのは(と言っても、こっちがメインだと思われているのだが)、その時代時代に生きた偉人の伝記になる。その中でももっとも著名で頂点にあるのが「ブルタコス英雄伝」で、それにおまけのようにスヴェトニウスの「皇帝伝」のような作品が出てくる。
 三国志がこれと異質なのは、それが群像劇のかたちをした一種の叙事詩として高度に完成しているところであり、日本の物語に例えなければならないのが変な話なのだが、平家物語や忠臣蔵と同じような形式であると言うことができる気がする。
 何かふしぎな書き方だなと思ったのが、三国志に触れた初っ端の感想で、おそらく西洋史ではイーリアスぐらいしかこの書き方はしてない気がするからだ。
 多くの方は、そうかな? と思う気がするのだけど、ああ、この書き方って面白い書き方なんだと思ってほしいなと思いながら、そのへんは放置する。

                   ※

 吉川英治版三国志の描き方はとても新鮮で、非常に楽しく心踊るものだった(まだ読了前なのだが)。地誌として読んでも、歴史として読んでも、とても表情豊かに描かれており、さっぱりとした人物の浅い書き方と対照的な印象だった。
(皮肉なことに、吉川英治は従軍記者として中国の地誌と歴史に触れ、その体験を存分に本作に反映している。広大な中国の豊かな歴史と文化を理解していたのが、侵略者であった日本人だったというのが皮肉なところで、その刻印は永久に消すことのできない(著作権フリーになったので、誰も管理できない)情報になったのは、暗黒の未来しかやって来なそうな現状の大陸には良いことなのかもしれない)

 また漢文の小説形式は読んだことはなくそれが標準の記載方法なのかは分からないのだが、物語るときに前例(詩など)を引用しながら話を進める。とくに当時の文官の大半は四書五経を諳んじているような知的エリートばかりなので(それしかいないとも言う)、古典や古い故事の引用がばんばん飛んでくる。これは文化圏の違いからくるカルチャーショックで、ああ、大変ものを読み出してしまったな、あちこちつつき始めようとするときりないぞ、などとヒヤヒヤしながら読んだ。
(要するにいくらでも語るべき部分を発見し得るのである・・・)

 しかし、これほど贅沢で恰好の中国古代史のショーケースである三国志演義が、世界的な知名度を持っているであろう事を考えると、その物語が世界各国でどのように翻訳され、どのような著者によりどのように解釈されているのかを考えること、天の川銀河のことを調査しようとするぐらいには広大な話題であるはずだ、と気付く。
 ことに「三顧の礼」は三国志演義の大きな転換点で、その内容はあまりにも有名だ。
 概要を書けば、ほんの数行に収まるようなエピソードを、果たして世界はどう書いているのか。
 何とも楽しげではないか。
 はたして、吉川英治はどのような「三顧の礼」を描いたのであろうか?
 まずは、そこから読み進めてみるのも悪いことではない。


 ■吉川英治版「三顧の礼」概略

 「三顧の礼」は言うまでもなく、三国志演義の主人公である劉備玄徳の宰相となる諸葛孔明が、劉備の配下になるいきさつを描いた名シーンである。
(というか物語的には共同創業者ちっくな話になっている。孔明は流浪してきた劉備に、魏、呉に並ぶ、蜀を建国する天下三分の計を献策するので、まあ創業って言うのは間違っていない)
 吉川英治版は諸葛氏の家柄、孔明のこれまでの生き様、学んできた師のことなどに触れて、孔明の人となりが描かれる。キンドルで読んでいるのでページ数は分からないのだが、計算してみたところ、5節構成(本作は20〜30枚毎に「節」とでも呼ぶべき単位で区切られている)の100〜150枚程度の長さになっている。
 節には表題がついていて、それは順に並べると、
 1.諸葛氏一家
 2.臥龍の岡
 3.孔明を訪う(一顧目)
 4.雪千丈(二顧目)
 5.立春大吉(三顧目)
 となる。
 細かな内容は後に譲るが、孔明を尋ねる(3.)まで60枚近く費やしていることになる。
 わたしのような門外漢は、
「え? 三顧の礼って三回お願いして三回目で配下にしたって話でしょ(わざとかなり乱暴に書いている)? なんで150枚も必要なの?」
 と考えがちなのだが、この吉川英治版は、ああ、このエピソード全部必要だわ、というか他の三国志は「三顧の礼」をどう書いてるんだ? と、うっかり国会図書館に5年ぐらい閉じこもって研究し始めそうになるから困る。

 ■「三顧の礼」に至るまでの経緯

 えーと、4分割ぐらいになる気がするので、この辺で出してしまう。
 早めに出してしまうのは、てめー、続きちゃんと書けよ、と脅しを掛けるためで(^_^; 後続が整うまで待たないのは、待つと数ヶ月とか平気で過ぎてしまうから、です。
 原稿は500行ぐらいはあります(このエントリーが100行ぐらい)。

 続きをお楽しみに!
| 雑記 | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
『僕だけがいない街』を見た/読んだ(ネタバレなのは、アニメが原作の何巻までを描いているかだけ)

 正直、映画評カテゴリーに混ぜるのはどうかとは思った。
 これはアニメ版に対する評であって、ややこしいことにこの原作は映画化もされている。わたしはこの原作が2時間の映画に収まるとは到底思えないし、正直1クールで終わったアニメ版でさえ話数が足りていたとは、到底思えなかった。
 アニメ版では原作を省略しすぎていて、意味がわからなくなっている。
 その話をしようと思って、これを書いている。
 正直ミステリー物の作品ということで、wikipediaがネタバレの編集合戦になっていたりなど、非常に正確な(そしてまったくネタバレしてない)情報にたどり着くのは、この作品に限っては恐ろしいほどに困難だ。それでいて、ネタバレとはまったく関係のない部分にこの作品のキラ星の

ても不幸だ。
 そこで、たった一つだけネタバレをする、ということにして、書いてみたいと思うのだ。
 この『僕だけがいない街』は一体何なのか、ということを。

 冒頭から、アニメ版が原作の何巻までを描いているのかに触れるのは、これがとても重要だから、だったりする。
 わたしはアニメ版から入って、いろいろと腑に落ちなくて、原作を読んだ人だ。
 腑に落ちなかったのは、なぜこの犯人はこんなことをしたのだろう、ということだった。これは原作を読んで腑に落ちたし、アニメ版がそれをカットした理由も痛いほどわかった。
 アニメ版は原作の6巻か7巻の冒頭までしか描いていない。
 原作は全8巻なので、ほぼ丸々2巻が抜けていることになる。
 コミックスのアニメ化の場合、だいたい5巻から6巻で1クールとなる(経験則上)。
 8巻となると2クールに足りないし、おそらく2クールもやる資金がなかったのだろう。
 あとは原作を読んでくれというのが、製作委員会に入っている出版社的にも都合が良いだろうし、アニメ製作会社も余計なリスクを背負いたくない。ならば、微妙に中途半端だけれども、ここまでにしましょうというはとても分かる。
 だが、これで残念ながら抜け落ちてしまったのは、わたしが疑問に思った、なぜこの人はこんなことをしたのだろう、ということだった。

 この『僕だけがいない街』は、小学生の連続誘拐殺人事件が起こり、28才の悟(主人公)が過去の惨劇を防ぐために小学生としてリバイバル(この作品の専門用語、タイムスリップだと思うと分かりやすい)して、過去に起こってしまった惨劇を回避する物語だ。
 犯人として主人公と親しかったユウキさんが有罪になるのだが、当然に真犯人がいる。
 とてもスリリングな本格サスペンスなんだけれども、ただひとつ腑に落ちないのは、これまでも書いたとおり、動機は? というところだったりする(アニメ版の印象をベースに話している)。
 原作では執拗なほどにその動機を書き連ねており、原作をご存じの方には信じられないかもしれないが、アニメ版にはハムスターとカンダタのエピソードぐらいしか動機らしい動機が出てこない。犯人の家族関係も出てこないし、犯人が結局30人以上殺しているエピソードも出てこない。
 たぶんと予測で書くのであるが、これはここに踏み込むと、7巻・8巻の内容を描くしかなくなるからじゃないだろうか。
 そうなると2クールだ。
 無理だ。うん、それは痛いほど分かる。
(映画がどうしたかは知らない。まあ無理だろうなとしか)

 一方で、アニメ版はこの『僕だけがいない街』の光の部分に、たぶんにスポットライトを当てている。このアニメ版を企画した人は、原作のショッキングな事件の全容に心酔したのではなく、その過酷さの中に散りばめられる、宝石のような輝きたちを愛おしいと思ったのではないか、と思ってしまうほどだ。
 一番好きなのは、ケンヤ(主人公の盟友になる弁護士の息子)が、悟と雛月を守ろうということで協力し、ああ、決定的なセリフを言ってしまうとネタバレすぎて、いやそれダメだろになるんですが、結構友情が感動的で、虐待を受けてきた雛月(ヒロイン)が普通の女の子として家庭に迎え入れられて泣くシーンとか、これも象徴的なシーンがあって、それから、どんどんと仲間が集ってアジトで雛月を匿うシーンとか、妖怪めと悟に思われるお母さんの頼もしさだったり、「したっけ!」(なんだっけ、じゃあね、だったっけ?)という方言の暖かさだったり、ああ、書き忘れていたけど、この『僕だけがいない街』は現代編が千葉、過去編が北海道(わたしは旭川あたりだと思ったのだけど、いろいろ矛盾があるなあとか思っている最中)で、しかし2月の北海道で氷点下ではないとはどうかとか思ったり(これは重要なシーンではっきりと気温が示されるので、それに対する疑問)。
 まあ、言及しようと思えばどこまでも言及できる物語です。
 正直、原作を繰る手が止まりませんでした。
 犯人はこんなことを考えていたのかと、本当に理解できるのは7巻・8巻です。

 うん、まあ、入り口はどこからでも良いですので、ぜひぜひ騙されたと思って触れてみてください。おそらく、損した、という気にはならないですよ!

| 映画評 | 18:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
 『消える月』


 メモ魔だと言われるようになったのは心外で、最近つとめてそうなったつもりは、さらさらない。
 ただただ突如に発生した長期プロジェクトにあわてて、まっさらなプロジェクトノートを下ろしてを前の方からスケジュール、後ろの方からメモ書き、または走り書きをはじめると、びっしりと埋まった「メモ」に両親や、看護士さんから、
 メモ魔だ。
 といわれるようになった。
 新品の、ダイソーで買ってストックしていた100円のモレスキン・クローン(通称ダイスキン)ノートは、たしかに記録帳というよりは、単なるメモ帳だ。

 40.5度の高熱で自転車を運転中、意識を失って救急車搬送された。
 何らかの理由で血中に細菌が入り、手術で言うところの「感染」に近い症状になったことで、わたしは高熱を発した。原因は不明の高熱。以前同じような症状に経験豊かな開業医は為す術もなく、わたしは数日の高熱の後に大学病院に救急搬送された。搬送されたのは、高熱の末に細菌がわたしの心臓弁を食い破ったからで、その血栓が脳に飛び火して、誰にでも明らかに救急車送りと理解できる、脳梗塞で意識を失ったからだ。
 今回も症状はほぼ同じで、まだ発熱しただけで悪化はしてないので、手術の必要なしと判断できるまでは集中治療室預かり、その危険がないと判断されてからは病室で延々と抗生剤の点滴をうつだけという閑散とした日々が続く。
 その当時は入院中の自分には出きることなどない、選択肢はおそろしく少ないと思っていたのだが、振り返ってみると、あれができたじゃないかと気づくことが多すぎて、ぼうぜんとする。
 入院がお盆前で、退院が10月中旬であるから8週間は、わたしの40歳から消えた。
 9月という月はわたしの今年にはなかったのか?
 プロジェクトノートをひらくと、空白を必死に埋めようとする文字が、お前にこれをまとめられるのか? という顔をして何十ページにもわたって連なっている。
 きっと、それをあきらめたら、わたしの9月は消える。

 モレスキンノートというのは、為替にもよるのだが1800円ぐらいの変形A6サイズ(90×140ミリ)のノートで、とてもハンディーな黒皮(モレスキンはもぐらの皮膚の意味)の大容量(196ページ)であることで有名である(綴じ方が特殊とされる)。おおきく無地と罫線の2種があるが、わたしが使うのは罫入りの方。
 わたしは日々の大切な事柄は、母艦である本家モレスキンノートに書くのだが、今回のように突破的な事態では、半ば使い捨ての100円ノートを用意して、メモ書きとしてそのノートを利用する。
 おおよそ19世紀、20世紀の文化人たちが愛用していたとのふれこみなのだが、なるほど忙しくヨーロッパ中を駆け回りながらふと気づいたことを記すのに適したノートで、もちろん入院先でも思いのほか重宝するのだが、いかんせん片手サイズのノートなので記載がいちいち細かくなる。
 わたしは目の前で開いて書いているので、ちょうどいいサイズなのだが、脇から見ると、信じられないぐらい細かい文字でぎっしり書かれているようにみえるらしい。わたしとモレスキンの付き合いも長く、小さいスペースにびっしりと書くことに慣れてしまっている。
「○○(わたしの名前)って、こんなに細かい性格だったんだね?」
 いまさら言われて心外なのだが、デザインの仕事とか、プログラムの仕事とか、法律の仕事とか、細かいことができない人にはできないから、などといっても分かってくれそうにない。

 産業革命に起こった「だれもが旅しながら創造した時代」をモレスキンは象徴するのだろうけど、情報革命に起こった「だれもが日常的に創造し続ける時代」、つまりいま現在にも、似たような象徴がある。スマートフォンがそれで、モレスキンのキャッチコピーである、パスポートよりも失ってはならないもの、はまさにスマートフォンにもあてはまる。

 創造し続けるなどというと、何を大げさなと思うかも知れないが、著作権法上の視点からみると、現在ほどホイホイと著作権が発生している時代はない。「だれかがつぶやくたびに」、「写真をアップするたびに」、そこに新たな著作権が発生し、その扱いを不法にすると裁判沙汰になる恐れがある。
 現状をみてしまうと、その光景があまりにもカジュアルすぎてピンとこないのだけど、一昔前にはこれを実感できる環境が広がっていた。
 つまり発信することがカジュアルじゃなかった時代。
 そして、アンダーグラウンドぽい界隈に。

 ■モバイラーたちの時代

 iPhoneをみて、
「あれって、ソニークリエのパクリだよね?」(国内厨)
「パームの方が近くねえ?」(王道派)
「おれはハンドスプリング持ってたよ」(おしゃれ派)
 と言い出す、古のガジェットヲタたちが騒ぎ出す界隈がある。これはパームトップ(パームOSと呼ばれるOSを積んだスマホ(ただし電話機能はない))だけだが、これとは別にクラムシェル(ミニワープロ)という界隈があり、それらを総称してハンドヘルド、または単にガジェットと呼んでいた。
 これらのガジェットを使いこなす人たちはモバイラーと呼ばれ、NTTドコモのピーイン・コンパクトと言う商品名のPHS回線にどこからでもつなげる契約をして(当時64kbpsだったなあ・・・)、パソコン通信をしたり、メールを受けたりしていた。
 何を隠そう、わたしはかなり最古参に近いモバイラーで、現在でもこの文章はシャープのnetwalkerというガチガチのモバイラー仕様のクラムシェルで書かれている。
 netwalkerをみると分かるのだが、この機種は両手で持ち上げるように持って、右の親指がオプティカル・ポイントがマウスポインター、左の親指が右クリック・左クリックを押すようになっていて、立って操作することが前提になっている。満員電車の中というのはスマホがでるまでは非生産的なだけな空間でモバイラーがガジェットを持つ理由の真っ先が、この満員電車だった。
 わたし中古でnetwalkerを買ったのはこのサイズのハンドヘルドが必要だったからで、別に立って操作できないと困るなどと思ったことはないし、そもそもわたしはそんな設計がされていない歴代シグマリオンを満員電車で何の問題もなく使っていた。
 それでもおそらく当時の設計思想にやられてしまった人が設計したのだろう。
 当然のようにnetwalkerは、満員電車仕様になっている。
 それでそのモバイラーたちが何をやっていたのかというと、時代によって違うので一概にはいえないのだが、わたしが書いていたメールマガジン『物語解析』は2週間に1回ぐらいのペースで原稿用紙30枚分書いていたけれど、それはすべて行き帰りの通勤電車で書いていた。
 
 ■完成稿に至るまでに必要な工程

 『物語解析』を書いていたときは、平気で素のテキストを何の構成も考えずに、いきなり本番原稿を生で書いていたりしたのですが(いや・・・、若いって怖い・・・)、さすがに最近はメモをとってからまとめたりするようになってきた。
 ここのところ小説ぐらいしか長い文章を書いていないので、補助的に書いていたのはプロットぐらいしかなかったのですが、今回プロジェクトノートを書いてみて、ああ、こういうやりかたもけっこう面白いかも、と思ったりしました。ただまあ、複数人数で関わっていないと複雑なメモ書きをするメリットがないので、今回の入院はともかく、一人でコツコツ作っている以上は、あんまり必要ないかもしれないと思いはします。

 ハンドヘルド(HH)で作業ができないケースとしては、
 1.広い画面が必要
 2.複数アプリケーションを立ち上げる必要がある
 3.入力が主となるので、キーボードの選択ができないHHは向かない
 4.特殊な環境を導入できないとできない
 5.単数もしくは複数の書籍をみながらでないとできない
 といったものがある。
 これらの具体例を細かく説明すると蛇足になるので避けるのだが、わたしの皮膚感覚として自分が作業工程として作る流れのだいたい半分ぐらいは、これらに該当する。アバウトな感覚なのだがわたしにとってはこれらは「重い仕事」という分類になる。
(まあいまになって思えば、物語解析の一回分を書く創造的な作業が「軽い仕事」で、ゲームブック解析の機械的なゲームブックの項番入力作業が「重い仕事」なわけがないのだが)

 これは得てして、作業工程を重い塊のまま放置しているから、起こってしまうボトルネックで、作業を見直して軽い環境でもこの工程をこなせるように、この塊を小さく砕いていく努力をしてこなければならなかった。
 入院中にもできる、電車移動中にもできる、映画の上映を待っているほんの10分ぐらいの間でもできる。
 追求していくとキリはないし、わたしも人間なので疲れるのだが、どっさと積み残っている「やれていないこと」の山をみるたびに、作業工程をもっと軽くしないとなあ、などと思うのだ。ただこれらの作業を重くしているのの一番は気持ちの問題で、気づかないうちに避けて通っていたり、見て見ぬふりをしていることがしばしばある。
 実は今回、のちのちになって振り返った時に、とても重いはずだった重要な仕事を、
「すごい軽い環境で出きるようになるまで、細かく砕いていた」
 ことに気づいたのだ。
 あれ? これって、この手順踏めば問題なくできたんじゃね? 
 もうねw これは気持ちの問題ですw
 せっかく努力してたのにねえwww あー、そんなにやりたくなかったんだwww

 ■カレンダーの違い

 退院が近づいたころ、わたしはいつもつけているスケジュール帳、というか備忘録をぺらぺらとめくって愕然とした。
 正直、5月から8月のわたしは褒められたものではなく、本業方面は堅実にやっているが、とくにいそがしいわけでもないにそれ以外はまるでダメ、という状態だった。まあ、ちゃんとやっているからとは言い訳はつくのだけど、あまりにも何もしていなくて、じりじりとした焦りを感じてはいたのは事実。
 しかしぽつりぽつりとしか書いてないその「何もしていなかった月日」は、びっしりと書き込まれた入院中のプロジェクトノートのスケジュールより多くのことをしているのである。
 つまりわたしは入院中は、退院に向けて必要なことはしているが、そこから出るともう関係なくなることに一生懸命になっているのである。適切な例を挙げるのが難しいので、悩んだ末に、とても抽象化して一般化した例を挙げるのだが、
 ある組織の特殊な儀式を一つずつ丹念に行っているだけ
 なのである。
 わたしは技術職だったのでよくあったのだが、派遣で現場に放り込まれて、デスマーチぎみになって職場をとりあえず派遣期間終了まで生き残る、経験にだいぶ近い。死なない程度に頑張るのがとりあえずの任務で、実際にはそうではないのだけど、文章で見える範囲を汲んでいる限りは、派遣期間終了ですっぱり手を切るので、次の派遣先の業務と一切関わることはない。なので、お金だけもらってさようなら、なのだけど、こういう期間を実のあるものにするのは、けっこうたいへんだ。
 一方、自分の自由になる部分は、全部自分の次の日以降に向かって積み上げることができるので、やっていることの意味も明確だし、じゃっかんひどかった過去数ヶ月をうらめしく反省する。
 
 さてさて、積み上がっていることたちはリストアップしたので、作業を細かく砕く作業に勤しみましょうかねえ・・・、などと思う。
 いや、そのまえに「消えなかった月」にしなければ。




| 雑記 | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
 祝カズオ・イシグロ、ノーベル文学賞受賞!!

 なにを言っても後付ぽくなってしまった言い訳になるのと、現在が入院先から一時帰宅を許された三連休の最終日、朝午前5時、という状況なので、たいへんに手短に。
 きっと、カズオ・イシグロが、ノーベル文学賞を受賞という報を聞いて、真っ先にメモをした自分のノートをそのまま抜書きするのが一番リアルな声だと思う。

 ・取り上げるつもりだったのに、ノーベル賞になってしまったって、なんて思い上がりなのだろう。
 →こうなった以上は、自分以上に精緻なよみができる人がいないと思えるぐらいにまで読み込んだ感想をしよう。

 ・カズオ・イシグロを理解する上で一番わかりやすいのは、小説を書くAI特集回(『ことばの未来 「自然言語」をめぐる冒険』)のwiredのインタビュー。感情の作家であるとする本人の談は非常に共感することが多く、感情のドラマとしての小説に自分ものめり込むというか、好き。
 彼のノーベル賞受賞を受けて、わたしもノーベル賞を目指したいなどというだいそれたことではなく(そもそも冒険小説系のエンターテインメント作品ズブズブな人なので、文学賞とか方向性が違いすぎる)、『感情の書き手』として、感情豊かで人間的な人たちを描いていきたい。

 というわけで、かなり久々のエントリー。
 実はけっこうかなり入院中原稿が溜まっているので、退院次第、どばーっと出て来る予定なんですが、すごい量なので、誰が読むんだろう・・・、とか思ったりしています・・・。

 ゲツマツマデニハナントカデタイ・・・。



| 雑記 | 09:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
 『メアリと魔女の花』を見た


 アニメってここまで動かしていいものなのだな・・・、観終わって場内の様子は「腰が抜けた」といったようすで、細かく見れば粗はありそうだけど(粗がなくなってしまったら、そこがそのクリエイターの成長の限界)、ラピュタ+千と千尋と言った感じの冒険活劇(ラピュタ)であり成長物語(千と千尋)といった映画に見えた。

 圧巻は冒頭からいきなり始まるアクションシーンから(このシーンの意味は最後の方でわかる)、まるでレールのないジェットコースターのように荒くれ回る精緻に組まれたストーリーの出来だ。
 もちろんそこは原作モノなので原作者の力量なのだろうが、そこに洪水のように溢れんばかりの、ハレーションを起こしそうなほどの膨大なイメージが流れ込んでくる。
 そしてそれが動く、動く。
 成熟した宮駿には到達できなそうなほど暴力的な(内容が暴力的なのではない)イメージの洪水、荒々しくもあり、若々しくもあり、成熟していないからこそ出てくる勢いのようなもの、それがこの映画にはある。

 まずヒロインのメアリがいい。
 なにをやっても危なっかしく、なにもうまくできない序盤の様子はなんでここまで描くんだ? とは思ってしまうのだが、ストーリーが荒れ狂い始めると途端に、ああ、これぐらいの子じゃないとこの冒険活劇のヒロインは務まらないのだ、と分かってくる。
 観ていて危なっかしいのだが、それでも進むのを決してやめない。
 その無謀さと、深慮のなさがなければ、こんなストーリーになったりするはずがない。それでいてメアリには芯の通った義理堅さがある。ネタバレは良くないのでぼかして書くが、ある事件からメアリはピーター(パズーだと思うと良い)を巻き込んでしまったことを悔いて、そこからひたすらに義理堅くピーターを助けようとする。
 男の子と女の子というと愛だの恋だのと穿った見方をするのが大人であるが、第二次性徴を迎えるまでは男女差というのはあんまりないと考えるのが普通だと思う(メアリは小学生高学年ぐらいだと思う。とくにピーターが赤毛のメアリを「赤猿」とよんで囃すのはどう見ても小学生だ)。つまり思春期前なのだから、愛だの恋だのをお話の前提にするのはおかしい。なので個人的な恋愛感情ではなく、巻き込んでしまったことに対する申し訳ないという感情からメアリはピーターを助けようとする。
 また、メアリは自分に関わるものたちに童話チックな愛情を注ぐ。
 メアリを導くことになる黒猫(これも後に理由がわかる)、偶然見つけた魔女の箒、そしてネタバレスレスレになるので難しいがラスト付近にやってくる者達。
 とくに箒に対して「箒くん」と言い続けるのは、愛馬を気遣う騎手に似ている。
 メアリを中心として愛情で繋がった者たちが、一緒になってメアリとピーターを助けていく。それを見ていてふしぎと温かい気持ちになる、ふしぎな愛情に包まれた映画になっていると思う。
 義理堅さと愛情。
 この2つがこの映画の芯となって、メアリの中に貫かれている。
 なんて美しいストーリーなんだろう(原作者を褒めてる)。
 たぶんこの原作がこれまで映画化できなかったのは、荒れ狂うストーリーを膨大なイメージのあらしで御さなければならないことが明白だったからだと思う。
 そしてそれは若くなければできない。

 宮駿信者はこういう。
 それは宮駿から盗んできたものだ、と。
 わたしはこういう。
 宮駿が宮駿に学んでいたら多分こういうものを初期に作るだろうと。
 宮駿に学んできた世代が出てきたのだ。
 わたしは昔、なぜ日本にはスタジオジブリ並みの成功した創作スタジオが10もないんだろう、と思ったことがある。それは今になって分かる。偉大な師匠が、もう10年もしたら死ぬかもしれない年令になるまで、次世代というのは生まれてこないのだと。
 それは天才が君臨してしまう呪縛だ。
 天才たちがもう口出しできなくなる予定が立つまでは、天才の影響下にある状況は続くのだ。米林監督(あえてマロと言わない)が、動きまくる最強のアニメーターとして登場してきたのを、次世代の誕生を祝福したい。
 正直腰が抜けた。
 劇場で、セカイノオワリの歌が流れる中で、退出する通路へ動く人はいなかった。
 わたしはトイレの心配で(心臓手術を何度も受け、人工心臓弁が入っているせいで利尿剤を処方されているから)、とにかく退出が容易な席を取る、つまり出口近くに座る。
 一番先にわたしが席を立ったほどで、それで見回してみても、感想がない、唖然としている、だった。

 まずこの作品は、アニメーションによる暴力だ。
 それは、これを見ろと言う迫力しかなくて、たぶんとてもロックだ。
 ステージになってギターを掻き鳴らすロックスターがそこにいるようで、アニメーションはここまでやっていいのだ、という次の金字塔のように見えた。
 宮駿にはこれができない。
 ここまで勢いだけで演奏する年齢ではないからだ。
 もし、宮駿が若かりし頃に宮駿にいちから鍛えられていれば、これをやるだろう。
 その地位にいたのは、米林さんだった。

 宮駿の育てた世代が出て来んだよ!
 ウィスキーを飲んで、乾杯しよう!
 これは宮駿を毀損する話ではなく、次世代をちゃんと育てていたじゃないか! おまえはどんだけ素晴らしいんだ! という話なのだと思う。

 一体次はなにをやるのだろうと、1ファンとして楽しみに思ってしまう。
 まだ、この天才師匠の弟子のキャリアは始まったばかりなのだ、嬉しいことに。

| 映画評 | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |