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<< 為替がすごいことになっているが・・・。 | main |  ゲームブック解析ツールのソースを晒しておく。 >>
ハーフライフをプレイして思ったこと。
 これは、どう書いたらいいかなと思っていたのだが、どうもまじめにまとめようとすると、どうもわたしの脳内のまとめ状況(つまり混沌としていて、現在形)と一致しないよう。
 なので、あえてぐだぐだ気味に書く。
 昔、わたしが感じたこととして、書ける事と言うのは、整理完了していて、自分としては終わってしまっていることだと思っていた。これは、自分にとって夢に出てくる登場人物たちが、自分にとっては関係終了した人々がほとんどだったという気付きに基づいている。
 非常に乱暴であるのだけど、文章として固定化できるのは、自分にとっては終了した体験だと思っている。
 なので、現在進行形のことを書くには、こうやってぐだぐだに、まとめも整理もない状況で書いていくというのが、わたしのある意味そのレジスタンスだと思っている。わたしはその書き方を、よくアイデア出しのために使う。これはこれで、成果があるので、そんなに意味がない書き方でないと思っているのだが・・・。
 全くまとまっていないなあ(笑)。
 何を書いているか、たぶん不明だろう。
 それでも読んでくれる人がいるのなら、わたしが感じている、今最新の、今日、この日、1月3日のわたしの脳みその中を書いてしまおう。

 ハーフライフの体験版をプレイして、どうももやもやしていたものが、収束して行く感じがした。
 この体験は、文章にはできない。
 このゲームは、文章で表現するのは不可能である、そう感じたのである。
 ハーフライフはFPSといって、ファーストパーソン・シューティングゲームに分類されるゲームである。くわしくはリンク先のwikipediaを参照して欲しいのだが、アメリカで流行っている、ゲーム体系である。

 体験して感じるのは、その圧倒的な緊張感。
 わたしは、ゲーム画面をキャプチャーして紹介しているが、それではあの緊張感を体験することはできない。音楽、操作、銃弾音、ゲームバランス。そのすべてが没入感を演出し、プレイヤーに緊張を促す。
 押井守のAvalonを三十分ぐらい見て、退屈すぎて我慢ならずに、見るのをやめてしまったのだが、今思えば、あれは正しい判断だったのかも知れない。押井守はハーフライフをやっていないのだろう。SFを書くべき人間が、現実にはるかに、追い抜かされているのである。それは見る価値がない。


 ■選択肢を提示するのは、実は結構有効だったりすること。

 ゲームブックを書いているとき、たぶん意識するのは、プレイヤーの自由感であると思う。
 プレイヤーがこんな選択をしてもいいのか、と思えるほど、度量を持って選択を提示しなければならないと思っているし、もしプレイヤーが、新たな提案をしてきたら、当然それに応えるのが、ゲームマスターであると思う。
 TRPGの欠点は、と、ここで、すさまじく拡散する話題を提供していいのかと思いつつ、書いてしまうのだが、プレイヤーに選択肢を提示できないことだと思う。
 たとえば、関が原を想像して欲しい。
 家康は、なかなか裏切らない小早川に対して、銃撃をして裏切りを促す。でも、これは実際にプレイヤーが関が原をプレイしていて、実際に取れる行動だろうかと考えると疑問符をつけなければならない。
 家康が戦場に熟知していたから起こったドラマだと思うのだ。
 ドラマというのは、すさまじく高度な判断をプレイヤーに求める。
 わたしは非常に高度なプレイヤーとのプレイをたくさんしてきたけど、それでも、いわゆる「小説的な」展開を判断させるのは無理であることを悟った。
 選択を強いるか、決断を強いる。
 これを積極的に行わなければ、ドラマは成立しない。
 これをプレイヤー側に渡してしまって、あとはこう着状態を提示し続けるのがわたしのマスタリング経験なのだが、どうもこれは不幸な気がしてきてしまっている。
 選択肢があれば、そういう選択肢があることに気付くのではないか。
 鋼の錬金術師の分析を見れば分かるように、結構、シナリオが動き出す状況を作るというのは難しいのである。マスターが提供したいのは物語経験であり、膠着ではない。その物語経験は決して後戻りができない決断によって支えられ、それをするのはプレイヤーである。マスターは、やっと動いたか、なげーよ、とため息をついてるのである。

 選択肢の提示はプレイの広がりを、プレイヤーに提示する。
 こんな選択肢もありかと、思わせる。
 これはTRPGにない欠陥である。
 プレイヤーが気付かない展開は、マスターは強要することができない。
 これがすさまじく不自由なのである。
 シアリオを作ったマスターはすべての可能性を把握している。しかし、それを全貌できないプレイヤーはどうしても不自由に陥る。
 これに対して、選択肢を提示できないのは、マスターの不自由だ。
 シナリオはすべての自由に対して、対処すべき事項をそろえているのだけど。
 
 なんか、話がずれた。


 えーと、なんの話だったけ?
 おっと、ハーフライフの話だった。


 ■CADでぽんと書けば1000メートルのタワーになるのはすごいという話。

 ハーフライフをプレイして思ったのは、高いという表現を、そのまま3Dポリゴンにすれば実現できるということにショックを受けたということだった。
 たとえば、高度1000メートルのタワーを表現するには、CADで1000メートルのタワーを書けばいいという事実に、呆然とするのだ。
 もう圧倒だ、どう考えても、そこに、高度1000メートルのビルがあるとしか思えない。しかし、小説で書くとすればどうすればいいだろうか。これは結構大変である。わたしが、今書いているゲームブックから引用してみよう。

 三騎の翼竜が岩棚に留められると、手馴れた動作で革紐の結わいをしていたリーダー格の少年が、兵器庫らしき小屋に掛かっていたランプに火を点し、長い石段を降りていく。
 それぞれの手に灯火を下げ、ソウと######は最後尾に続いた。
 ほんのひとりが通れるかどうかの階段が、絶壁の表面を螺旋を描くように掘られており、容赦なく吹雪が吹きすさぶ。二三本の皮縄だけが壁面に配されており、それが唯一捕まる手がかりだった。
 それでも案内人までもが慣れた様子で、しばしばソウに心配そうに振り返られるのは######である。
 いくら雪上靴をはいていても、吹雪の吹き曝しとなっている石段の表面は凍りついており、ときおりの強風が外套を奪い取ろうとするように吹き荒れる。そのたびにバランスを崩され、慌てて壁面の皮縄にしがみつく。
「だ、大丈夫?」
 何とか体勢を整えて、やっとのことで言う。
「ちょっとこれは、キツイ・・・」
 竜の山だからね、とソウはつぶやき、何事か思案する。
 見下ろすと、広大な吹雪の中に、ぽつりぽつりと集落のひかり。
 その場がとても高い場所にあることを再認識して、よけい怖気づく。
 おそらく、バルケ族は、部族の者でなければ決して登ることのできないようにしているのだ。きっと緊急時には導き手たちはこれを駆け上っていくのであろうと、想像する。
「つかまって」
 ソウの白い手が差し出される。
 それを必死に握る。
 ソウは、何事もなかったように先導し、時折バランスを崩しそうになる######を支えた。
「なあ、考えたんだが・・・」
 ######が口を開くと、ソウは首だけ振り返る。
「なに?」
「なんで、タイビはこの事態を知っていたんだ? レビが動くと、そしてアドレルが噛んでるなんて」



 かなり簡単に生み出しているように見えるかもなのだけど、これを書くのは非常に難しいのである。
 本人が見るだけでも、わたし独自のテクニックがあちこちにちりばめられている。これは「高い」ということを表現するために、ほかの事を描写する描写とコンビにして、あちこちでほのめかしているのである。この文章だけでも十個ぐらいの意図のストリームを混ぜ合わせながら、一本の表現にしているのである。実は簡単に書いているように見えるのだけど、わたしなりにかなり高度な書き方をしているのである。
(というか、わたしはこのイメージの縒り合わせを特徴とする書き手なのだが・・・。)
 しかし、ハーフライフの表現には負けるだろう。それはどう考えても勝てそうにない。
 会話が唯一のアドバンテージだが、いずれこれも超えるだろう。
 表現で負けているとどうしても思ってしまう。

 どうしたらいいのだろうね、と、投げっぱなしな感じで書いておこう。
 まあ、わたしがさぼりすぎて文章を書いているというのもあるのだけど。

 追記:


 ■FPSとゲームブックの話。戦闘シーンでFPSには勝てない。

 っと、戦闘シーンの話を書くのを忘れていた・・・。
 昔、アナログRPGは、コンピュータRPGに戦闘では絶対に勝てないと書いたことがある。これはコンピュータRPGが「戦闘だけ」に特化して進化していったため、戦闘部分に関しては、圧倒的な積み上げがあるため、そこで勝負しても意味がない、という意味で書いたのである。

 たとえばFPS、つまり、一人用コンピュータRPGでは、3人の敵との銃撃戦を10秒程度で描画できる。しかし、たとえばマンガでこれを書くと、このFPSでの体感を上回る戦闘シーンを描くのに、数ページかかってしまうのではと思うのだ。
 小説形態、つまり文章で書くと、たぶんそのシーンを読むのに5分ぐらい掛かるのではと思ってしまう。

 もちろん小説にも、FPSに勝るとも劣らない戦闘シーンを描いた小説もあることはある。たとえば、ジャック・ヒンギスの小説などを読めばそれが分かるだろうし、アリステア・マクリーンの女王陛下のユリシーズ号などを読めば、激しい激戦と、女王陛下万歳と叫びたくなっている自分がいることに気付くだろう。
(そういえば、FPSで海軍ものってないよね・・・)
 でもそういうリアリティはいつかFPSが越えていくだろうと、なんとなくわたしは分かってしまったのだ。文章でそれを書くことは、ユーザに多大な労力を強いるし、自由度や再現性はたぶんFPSにはかなわない。FPSではユリシーズ号を再現するために、ユリシーズ号の3Dモデルデータをインストールするだけで、大方済んでしまうのである(たぶんこれは模型用のデータがあるだろう)。
 本来であれば、小説家が設計図などから生きたユリシーズ号を想像するのだが、もう既にFPSは、設計図をインスコするだけで、自動的にリアルなモデルを再現してしまうところまで来てしまっている(注:テクスチャー張ったりの細かな作業はあるだろうけど)。
 想像する小説家はもう要らないのである。
 これがショックだった部分だ。

 となると、文字ベースのゲームで戦闘を売りにするのは、あんまり意味がないと感じてしまう。FPSで再現できない部分で勝負しないと、負けてしまうからであって、それはなんだろうとしばしば考える。
 ハーフライフではイキナリ主人公がどこだか分からない場所に漂着する。
 なぜそれをしなければならないのか、それに対してどう思っているのか、戦場は怖くないのか、断崖絶壁は怖くないのか、後から銃撃されたときの恐怖感はどうなのだろう。
 こういったことは一切描かれない。
 (よく考えてみれば映画もそうだ)
 小説の強みは内面の描写だというが、そういったセンシティブなところで勝負しないと、だめなのかなあと思うのだ。

 と、なんか、まとまっていないけど、この辺で再び放置しておく。
 また、なにか思いついたら追記します。


 追記2:


 ■「辺境の祭り」反省会

 「辺境の祭り」を自分でやってみる。
 やはり分かりにくい。
 わたしがゲームブック体裁に慣れていないせいもあるのだけど、何が起こっているのか把握しづらい。問題はいくつかの箇所にあるので、それは改善しなければならない気がしている。
 UIの問題(<全部読む前に選択肢が出てしまうのは問題)
 文体の問題(<ゲームブック文体を模索したが完全な失敗)
 情報の提示の問題(<シナリオ外情報が多すぎる)
 シナリオの問題(<あのシナリオはちょっとフリーすぎる)
 結局、小説文体に戻すことにしたのだけど、それでうまくいくかどうかは不明。あー、そうか、今のうちに旧来のUIに乗っけて、それでどんな感じになるかチェックしておかなければならないのか・・・。へぼいようにみえるかもだけど、あのActionScriptは実は合計で千行ぐらいあるのだ。結構難しいことを、実はやっていて、使う側からしてみると、結構便利だったりする。
 外から見ると何が起こっているのか、さっぱりわからないだろうけど・・・。
 あのコードとか、あとphpのゲームブック解析ツールとかをオープンソースにするにはどうしたらよいのだろう? 正直、わたしはコードを書くのが得意ではないので、もし誰かがブラッシュアップしてくれるのならば、それは本望なのだが。
 というか、画期的というかキチガイというか、へんてこコードなので、読んでくれる人がいるかどうか、疑問なのだが。
 なんか話がずれた。

 もう4000行書いている原稿を見る。
 そんなに書いたか、暇だなとは思うのだけど、これをどう始末をつけたらいいのか、分からなくて、困る。
 こんだけ書いて、まだ起承転結の起。
 ばーか、文字なんて、幾らでも書け、ばーかという声が聞こえる。
 そーだね。
 でも、この文字がいい文字なのかどうか、分からなくなるというのは、書き手がいつも抱える、苦しみなのだ。
 出してしまえば楽になる。
 その通りだ。
 でも、それはハーフライフをやった後ではきついなあ・・・。
 あんだけ、すぐれた体験を提供されると、じゃあ自分の書いているのはどのレベルだととわれると、きつくなる。
 まあ、でも、その辺は意図的な空気読めない人間になって、ぱっと出してしまおう。

 というわけで(笑)、リリースは近いので、もし楽しみにしてくれている人があるならば、楽しみにしてくれていれば、とてつもなく幸いです(^_^;

 いつでも、目の前にリリース原稿があるというのは結構つらい・・・。これを無駄にするのかという問いかけを常に受けているような状況なので。

 なんかぐだぐだだが、このぐだぐだ感が、このエントリーの目的なので、空気読まずに、このままにしておく。


 追記3:


 ■300を見て思ったこと。歴史そそままと歴史離れの話

 全くまとまっていなくて、たぶん読んでも面白くないだろうけど、わたしにはクリティカルなところなので、ぐだぐだに書く。

 DVDで300を見る。
 TSUTAYAのランキングではかなり上に来ていたので、どうもこれはウケているようだ。
 ストーリーは単純。
 これはテルモピュライの戦いを描いているのだけど、史実と実は大幅に食い違っている・・・。
 ■テルモピュライの戦い

 ほとんどの資料はヘロドトスから出ていると思われるのだけど、象兵がいたとは書いてないし、クセルクセスは、なんであんな格好してるんだろう、というか寒くないかと思ったり。
 結局、ペルシア戦争は、アテネのサラミスの海戦で、ペルシアの海軍兵力を根こそぎやっつけ、ペルシア軍が帰れなくなるので(ボスポラス海峡を押さえられると、どうしようもなくなる)、帰ったという歴史だったりする。
 300で出てきた、二度目の戦いがどこかも不明だ。
 たぶん、プラタイアの戦いだと思われるのだが、このときは、ペルシア軍30万対ギリシア軍11万。

ヘロドトスの叙述によれば,このときのギリシア軍の布陣は、スパルタ軍45,000、コリントス軍5,000、アテナイ軍8,000など11万人、対してペルシア軍は、主力部隊30万と、これに味方するギリシア兵5万で構成された。


 当時のスパルタが4万5千人も動員できるかどうかは疑問。


スパルタ市民は18歳以上の成年男子で構成され(人口8千〜1万人であったが家族を含めて5万人程度)、多数の被抑圧民を抱えたことから市民皆兵主義が導入され、日頃から厳しく訓練して反乱に備えた。ヘイロタイに反乱の兆しが見られると、クリュプキアと呼ばれる処刑部隊が夜陰に紛れてヘイロタイの集落を襲った。


 わたしは最大動員が1万人ぐらいの都市と思っていた。

 あと兵装もああじゃない。
 ファランクスは基本的に槍を投げない。投槍は投槍で別にある。というかスパルタ軍の槍は5mの槍。めちゃくちゃ長いのです。
 というかあの戦い方は危ないだろうと思ってしまった・・・。
 ファランクスが当時最強だったのには、それなりの理由があるのである。

 ちなみに、スパルタは2王制なので、王は実は2人いるんだよね・・・、なんで出てこなかったんだろう・・・、などとつっこみつつ、というかレオニダスはブルタークにあるんじゃないだろうかとおもいつつ、おっとないのか・・・、とびびってみた。ちなみにスパルタの2王制の話は、ブルタークのアギスとクレオメネスで読める。ここにもレオニダスが出てくるが、これは別のレオニダス。スパルタの様子が歴史書に書かれるのは実は結構めずらしく、読んでみたら、結構ここから拾っている設定が多々あることに気付いた。
 えーと、薀蓄が書きたいのではなく、非常にめちゃくちゃな史実無視の映画だといいたいのである。

 で、FPSって結構史実重視な思想な気がするするんですよね・・・。
 史実で固めておいて、どこかで、うそを巧みに混ぜる。
 この作り方を映画で初めてしたのはタイタニックだと思うのだけど、二百億円ぐらいかけて、実際のタイタニックの実寸セットを作ってしまった。これで映画もヒットさせちゃうところが、アメリカ人の真性っぷりなのだが、なんか沈めちゃうと、セットがぬれて使えなくなっちゃうので、一回しか沈められないとか、すさまじくばかなことを言っていたのを思い出す。
 なんかFPSっぽいでしょ?
 で、300はFPSっぽく見えながら、実は全く違う。
 あれはコミック出身なので、マーブルものと同じだと思えばいい。でも日本人はあれをFPSだと思ってみているんだよね・・・。
 完全なでっちあげなのに・・・。

 で、何が言いたいかというと、アメリカにもFPSじゃない信仰があるんだなあということ。あれを史実だなんて誰も思っていないのだけど、スーパーマンの一種だと思ってみている。
 でも、なんで、あんなに黒人が多いのだろう?
 クセルクセスもなんか黒人ぽかったし・・・。
 なんであのバランスにしているのかがよく分からないのである。
 まあ、いいか。
 何が言いたいのか分からなくなってきた(笑)。

 ああ、そうか。
 わたしが何の周りをぐるぐる回っているかというと、たぶん原作者は全部の歴史資料は読んでいると思われる。というか、ブルタークのアギスとクレオメネスは絶対に読んでいる。
 で、wikipediaぐらい読んでいるはずだし、それを全部読んで、なぜあの選択をしたのかというところを検証しているのである。
 たとえばセリフはなんか思わせぶりなセリフが多かったじゃないですか。あれは、一応古い歴史書から拾っているわけですが、ペルシアの使者の言葉が結構変だったりした。
 ヘロドトスに、ペルシア軍の進軍の様子が描かれるのですが、ここでの表現を使者は使うわけです。でも、なぜか、使っていない言葉がある。
 たとえば、進軍するたびに河の水が干上がったとか、そういう部分。なんで使わないのだろう、って思ってしまう。なんか理由はあるんだろうな、それはなんだろうと、そう考えているわけです。
 おっと、そうか。
 わたしは、実は300の話はどこから拾っているかを全部捕捉できるわけですね。で、あー、このネタはここからきていると確認しながら、なんで、これ使わなかったんだろう、と検証しているのです。そこに高度な判断があったことは分かるんだけど、どういう判断だったのかなあ、と。
 まあ、いいや、別の話題に。
 この辺は一応、わたしの中では地続きの話なのであります。

 しかし、長くなってきた・・・。
 ロリポップのブログシステムって、文字は何KBまでおっけーなのだろう?


 ■小説文体は実は修正が難しいという話

 あー、こうやって、章立てしたほうが分かりやすいかも。
 というわけで、前の文章にも入れておく。 

 というかすさまじくぐだぐだで、もう何を書いているのか分からない状況になっているなあ・・・。

 小説の書き方みたいなのを書いたので、その続きで。

 わたしの書き方は、イメージの束を用意して、それをちょこちょこ融合させたり、分離させたりしながら文章を書いているのだけど、このリズムの作り方が結構難しかったりする。
 これは書くほうの技術の話。
 たとえば、ある同行人がいて、そいつが死んじゃっているのと、生きているのでは、リズムの作り方が根本から変わってしまうわけです。
 小説って、ちょっとでもリズムが崩れちゃうと、そこで書いてあることが全くのうそというかフィクションになってしまうので、結構このリズムが崩れるのは痛い。

 FPSとかだと、そういうのはない。
 もう、目の前に1000メートルの塔を置けば、そこにあることになる。でも小説の場合は、かなり苦心して、それを描いてあげないとあるようには見えない。
 このときに、同行人がいるリズムで書くのと、いないリズムで書くのが全く違ってしまうのですよ。
 なので、ちょっとでも物語を変更してしまうと、完全に文章自体を書き換えないといけない。
 たとえば、途中で、ある人物を登場させたいと思ってシナリオを修正してしまうと、全文を書き直さなければいけない。
 この辺はFPSとの圧倒的な差。
 そこにその人がいる描写を差し込めばいいわけではないのですよね・・・。なんか、小説の文章はオーケストラみたいな書き方なのですが、ティンパニーを大太鼓に変えてしまうと、全体の構成をいじらなければならなくなってしまう。ブラスのセッションをいじったり、木琴を入れなくてはいけないことに気付いたり、バイオリンのメロディーを変えてみたり。
 これが難しい。
 全く別の曲になってしまう。
 たった一個の変更が物凄い大量の変更が必要になってくるんですよね。
 でも、FPSではそんな心配関係なし。
 別に博士が出したければ、ちょんと出すだけ。
 この辺の修正容易性は、FPSの強みなのかなあ・・・。

 あと、やっぱり文章ってリズムの作り方が、書き手によって違うから、一つの作品を別の人と一緒に書くというのが難しいという話もある。
 たとえば、絵なんかも、たとえば、お城一個丸ごとの絵を一人で担当するって無理じゃないですか。で、どうやって分担するかというと、狩野派みたいな感じで、同じ作風をマニュアル化してそれでやっていくわけです。ルネサンス期のレオナルド・ダ・ビンチなどの工房も一緒。というか、ダ・ビンチってほとんど自分で書いてないし・・・。

 で、小説ってあんまりそういうのないんですよね。
 これが不思議。
 たとえば、ラブクラフト周りでは、みんなでクトゥルフ神話を書いていたみたいな世界はあるのだけど、やっぱりラブクラフトが書いている小説と、クラーク・アシュトン・スミスの小説ではやっぱり全然違う。ちなみに、クラーク・アシュトン・スミスはラブクラフトが生前から絶賛していた作家仲間。
 マンガなんかでは、アシスタントなんかの仕組みがあるけど、諸説の分業はまだ見たことがない。
 メールマガジンの代筆とかはしたけどなあ。
 あれって、わたしは先輩の文章を真似て書くんだけど、どうしても自分の色が乗ってしまう。字面の問題ではなくて、たぶん視点の部分。どんなにがんばって字面を似せても、そこに自分が出てしまう。これが難しい・・・。
 起こっている事実のうちどこに自分が視線を向けてしまうかの問題で、そのチョイスにどうしても自分が出てしまう。

 物語がwikiではかけないのは、実はここの問題だったりする。
 わたしはオープンソース的な書き方で物語が書かれる光景を見てみたいと思いはするのだけど、たぶん無理だろと思っているのは、この辺の問題。
 やっぱり文章を固定化するのは、たぶん一人でないと難しいと思ってしまう。物語を作るのは可能だとは思うのだけど、それを文章に固定する段階で、問題が発生するとわたしは思っている。その辺を全く分かっていなくて全部ごっちゃにしているから、みんななにが起こっているか把握できないのだと思うのだけど・・・。

 というか、一人の書き手のなかでも、数週間とかで文章ってずれるからね・・・。それを必死に安定させようとした経験がないとこの辺は分からないかも。

 この辺のデリケートさが文章の欠点なのだよね・・・。
 ただ、やっぱり文章ってコストがかからないのはいいかなあ。

 塔の文章の描写なんて1時間もあれば書ける訳で、書き手の能力さえあれば、なんだってこの世の中に生み出せるという強みはあるかも・・・。
 でも、FPSはどっちかというと、一個作ると、あとはそれを何回でも使いまわせるというか、小説の場合は変更した場合、それまでのものを全部捨てないといけなくなってしまうという欠点があるんだけどFPSはそういうのがない。

 海外の小説家が、何年に一作しか作らないのは、じつはそういうことだったりする。第一稿を作って、それからそれを全部捨てて、第二稿を書くみたいな書き方をしているから、1冊の小説を書くために大量の原稿を捨てているんだよね、実は。
 逆にフィリップ・K・ディックのような作家は、もう小説のアイデアなんて捨てるもんだと、捨て気味に書いたりするので、数週間で一冊の長編を書いてしまったりする。

 うーん、なにが言いたかったんだろう・・・。
 長いなあ・・・。
 
 おっと、唐突にわかった。
 物語的保守の問題だ。
 そーか、それの周りをぐるぐると回っていたのか・・・。


 ■物語というのは実は保守的なのだという話
  その保守性の担保の方法の最新型が、FPSという信仰なのだという話

 なんか意味不明と思った方は説明するので、読んでくださいませ。もしこの文章で一撃で分かったのなら、おそらくあなたはわたしより鋭すぎる、しかもかなり最新型の物語ウォッチャーなので、誇ってよいと思う。5年ぐらい未来にいるはず。押井守とかはぶっちぎっているので、大いに自慢しよう。
 あなたは、わたしの文章など読む必要はない。
 と、書いてもあなたは確認のために読むかもだけど。
 だけど、たぶんあなたにとって新しいことは何も出てこないので、退屈でも、文句は言わないように。

 たぶん、この問題はよくリアリティの問題として出てくる気がする。
 この物語にはリアリティがない。
 わたしはもうすっかりその問題は無視するようになったのだが、実は無視できない近しい問題と微妙にリンクする。それが物語は保守的な部分が実は大切という部分。
 この議論は、たぶん「期待を裏切る、期待に応える」問題の派生系である。どこぞかで「期待に応える、予測を裏切る」と書き換えて論じるものがあったが内容は同じである。論旨を正確に書くには、たぶん「期待を裏切る、期待に応える」の方が数倍すぐれていると思うけど。

 この言葉は、読者の期待通りに物語を進めなければ読者は楽しめない、しかし、どこかで期待を裏切らないと、簡単に読者に飽きられる、という文脈で使われる。
 つまり物語は、読者の期待通りに進みながらも、どこかで裏切らないと飽きる、ということ。
 で、この期待に応える/裏切る比率はどれぐらいがよいのだろうか、という議論になるのである。
 なんども書くようだが、わたしは、期待に応える:期待を裏切るの比率が80:20ぐらいがよいと思っている。これは比率の問題なのでさじ加減の問題である。別に70:30にしてもいいし、40:60にしてもよい。ただ、わたしの体感的にたぶん、50:50の物語を読者は理解できないだろうと感じている。

 で、この問題は、実は物語は保守的なのでは? という問題にたどり着く。つまり、自分の予想のつかない展開よりも予想のつく展開が好まれるという意味で言っている。もちろん、物語のすべてが予想のつく展開でしめられていれば退屈だろう。だから比率が出てくる。99:1の物語はすぐに飽きられるだろう。

 で、この指標からもう一つの派生物が出てくる。
 たとえば、この物語は実話を元にかかれました、というような文言。たとえば、この物語は物理学的には正しいことを言っているというような文言。たとえば、この物語は歴史的に充分な考証をしているという文言。たとえば、このタイタニック号は、実際にセットを作って、当時のタイタニックを完全に再現したという文言。

 だんだんクリティカルなところへ書いているかもしれない。
 これは何なのだろうか?
 わたしは、これは物語は保守性を志向しているということなのだと思うのだ。
 物語は空想ごとではあるのだが、その中に真実味? 真実味ではないだろう、保守性を担保しなければ、受け入れられないということさしているというか、突き刺しているというか、串刺しにしているというか、わたしは、ついに物語の秘密の心臓を握っている気分になる。
 保守なのだ、物語は。
 そう書いて、そうかと思う。
 わたしは別に革新的な物語を否定はしないのだけど、それはハリウッド的ではない。
 その保守性をどこで担保するか。
 という問題だったと、気付くのである。
 それは、実寸大のセットかもしれない。
 史実に即した物語かもしれない。
 勘違いしないで欲しいのは、わたしは革新的な物語が好きだけど、理解できない物語は見たいと思わない。問題は比率の問題だ。さじ加減の問題だ。わたしは20%の革新で見たものの心を握り締め、その人生を変えてしまうほどの物語を書きたいと思っていても、わたしの書く80%は保守的な内容になるであろう。
 物語とは保守的でないと受け入れられない。
 それがハリウッドだ。
 保守的な内容が書けることが、革新的な部分を読んでもらうための担保なのである。

 なんかこの周りで書きたいことが大量にあるのだが、たぶん書き始めると100枚とか平気で行くなあ・・・。
 なので、核心的な話だけにとどめておこう。

 で、FPS的な思想というのは、アメリカ的には保守を意味するということ。つまりコンピュータシミュレータは立派な現実であることを担保する、つまり保守性を担保する思想であるということ。
 それに対して、300はアメリカンコミックの保守性で勝負している。
 そうか、全然ベースにしている部分が違うんだ。
 ここに気付く。
 史実はどっちかというと、FPS的な思想。
 対して300はアメリカンヒーロ的な保守性がベースなのだ。
 ハーフライフは、たぶん、FPS的な保守性を利用して、その革新的なシーンをたくさん書いている。
 ここまでこれた人はおめでとう。
 これがアメリカの全貌だ。

 ハーフライフはたぶん、軍事的にはおかしな描写もところどころでしているはずである。たとえば、ヘリのダメージコントロールは明らかにおかしいし、あれだけ銃弾を受ければもっとダメージを受けるはずである。
 でも、それを厳密に突き詰めると、たぶんゲーム性が崩壊する。
 なので、びみょうにさじ加減を調整している。
 では、どこを事実と変えているのか、この差分を把握することがハリウッドを把握することなのである。というかこれまでやっていたのはこれなのである。
 つまり、どの部分であれば許されるのか。
 どの部分であれば事実を曲げていいのか。
 これはアメリカの消費者の保守性を探っているのと同じなのである。
 それを把握すれば、ハリウッド作品が書ける。
 と、核心的な部分を書いてしまったので、もうちょっと周辺へ裾野へ視点を移すことにする。

 ずいぶん長く書いたなあ(笑)。
 わたし的にはここで終わらせてもいいのだけど・・・。
 この辺の議論は、たぶん大いにやったほうがいい世界なのだけど、たぶん日本のアニメ関係の人々はたぶん毛嫌いするだろうねえ・・・。まあ、いいんだ。そこは。でも革新を語るのであれば、保守的でなければならないという話なのだ。
 保守の再考はいい。
 たとえば、源氏物語の現代的解釈はいい。
 でも、源氏物語は見るべきところがないは間違っている。
 それを狡猾に、確信犯的に、保守性の担保として利用して行くぐらいのずるがしこさがなければならない気がする。それはハリウッドでもう食傷気味なぐらい展開されているのだけど。
 わたしがアリステア・マクリーンとFPSを結びつけるのも結構狡猾な気がするけどね・・・
 ただ、この辺は、たぶんFPSの議論をするときにかなりクリティカルな部分になる気がするので、チェックしておいて損はないはず。
「え? 女王陛下のユリシーズ号、読んでないんですか?」
 この問いは致命的な部分を抉り出してしまう。
 ジャック・ヒンギスや、マクリーンを読まずにFPSを語るのは間違っているだろう、どう考えても。
 たぶん、アメリカでFPSの議論をするとき、マクリーンを持ち出すと、物凄く盛り上がって、すさまじく生産的な議論になると思われる。
 この辺のブリッジとなる議論は見たことがないなあ・・・。
 一番本質的なところなんですよ、この辺が・・・。

 日本のアニメはいつまでオナニーしてんだろう?
 と書くと、なんとなく、この論考の立ち位置が分かるんではないかい?

 というわけでこの辺が、わたしの最新型だ。
 おつかれ、よく読んだね(^_^;

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