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吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 4/4

 えっと、続きです。

 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196006


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 2/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196007


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 3/4?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196007


 ■原文はこちら ■吉本隆明の183講演 - 物語の現象論
 http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a063.html





 えっと、今回で本連載は最終となりますが、いかがだったでしょうか。
 わたし個人の感想としては、入院中の暇つぶしの延長線上なのですが、掘ってみると案外面白かった、吉本隆明がだいたいどんな角度から攻めるのかがわかったから、良質の講演録音の目星の付け方がわかった、となるのですが、一番大きかったのは文系の人たちがどんな論理展開をするのかが分かったということでしょうか。
 理系の論理展開は、わたしを見ていればいいというか、まあわたしは法文の論理展開がかなりはいってるので、文系に片足突っ込んでるのですが、だいたい100%確実なこととして状況を語ります。
 ニュートン力学の世界では、世界はすべて計算され尽くしていて人間が運命に介入することはできない、という「ラプラスの悪魔」という迷信が流行ったのですが、その後、アインシュタインの相対性理論が登場してニュートン力学を否定して、すぐに量子力学が現れて、ニュートンとアインシュタインを葬り去る。
 その世界では、観測者が何を観測するかだよという話になるのですが、量子力学を加味すると、結局結論は観測を誰がするのかという、よくわからない結論になります。結論は出したくないので言いませんが、ああ、こういう見方もあったのか、というのが素直な感想です。前回、別建てで感想を書くと言っているので、それは年内に間に合うのかと思いつつ、まずは続きをお送りしましょう。


 10.イメージの世界を枠組みにするエンターテイメント作品

 この問題をいちばんよく体現しているのは、現在におけるエンターテイメントとその作者たちです。エンターテイメントの作者の、かなり質のいい部分をとってくれば、そのことがわかります。
 誰でもいいのですけど、さっきあげておられた筒井康隆でもいいのですけど、この人が野放図に娯楽作品を書いているときは、面白おかしいのですけど、純文学の作品みたいなのを書こうみたいにまじめになってくると、どうするかと考えればわかります。
 つまり、何もすることがないのです。
 2つしかないのです。

 ひとつは新しいパターンというものを考えることです。物語を構成としてでなくて、新しいパターンを考えるということです。この意味あいでは、たいへん労力と思考力を費やしていることがわかります。絶えず新しいパターンをつくろうとか、絶えず新しいパターンを中心に作品をつくっていこうというような、そういう努力はしのぎを削るくらいに、熾烈だっていうことがわかります。
 この熾烈さというのは純文学の作家にはないものです。
 純文学の作家というのは、そういう意味合いでいえば、たいへんのんきです。なので、エンターテイメントの作家の優秀な人のほうが絶えず新しいパターンをつくろうと絶えずよく勉強していますし、よく考えています。そういうことがわかります。
 しかし、エンターテイメントの作家たちのいる世界というのは、いま言いました、イメージ生活の世界というもののなかで、それがなされているということが、いちばん大きな問題を喚起するところなのです。
 だから、筒井さんでも、栗本さんでもいいのですけど、優秀なエンターテイメントの作家が絶えず考えている新しいパターン、それから、しのぎを削りあっている新しいパターンというものの努力というものは、幾分かですけど、資生堂とカネボウとはどういうふうに化粧品を売るかってことでしのぎを削っているでしょう、入れ物から、宣伝の場面から、しのぎを削っているでしょう、それと同じところがあります。宣伝のパターンの新しさでもって勝負をするといいましょうか、それと若干似ているところがあります。
 構造的には、同形なのです。同じなのです。
 つまり、そこが大きな問題なのです。つまり、それらの努力というものが、現在のエンターテイメントの作品を非常に質のいいものにしています。優れた作品にしています。
 しかし、それと同時に、エンターテイメントの作家たちが言葉を行使している世界というものは、いま言いましたイメージだけが存在する、あるいはイメージの生活世界というものに限定されると言っていいくらい限定されています。だから、そこが問題なのです。そこが問題であって、そこがまたエンターテイメントである所以なわけなのです。だから、この問題を本質的に考えられないかぎりはどうすることもできないです。

 筒井さんのもうひとつの努力は何かというと、言葉の努力です。あるいは、語り口の努力です。これが文学作品の努力になっています。これは筒井さんよりももう少し上等な、たとえば、田中小実昌なんて人をみればよくわかるのです。この人の努力も語り口の努力です。語り口を的確に端折ってといいましょうか、削り落として削り落として中身だけみたいな語り口、それで語り口の転換を見事にやれて、そこに文学作品としての努力を集中していることがわかります。

 どうしてそういうふうになるかといいますと、いま言いました、イメージ生活の世界というものを作品世界の全部というふうに、あるいは、物語の枠組みというふうに考えているから、そういうことになってくるわけです。また、そこ以外に努力のし場所がないわけです。


 11.文学の本質的な衝動

 ところが、もしも本質的な文学作品というものを考えようとするならば、もう少し違うことを考えなければならないということがわかります。すこし遠回りをしてその問題を説明します。お話してみたいと思うのですけど。
 つまり、どういうことかといいますと、
 この世界というものをつかまえるために、
(ぼくはかつて青年の時に、)
(いちばん有効なんだと、)
(このことを知らないために、)
(自分はたとえば戦争中ダメだったなっていうように、)
(つまり、ムードとか、情緒だけでいったからダメだったなって思って、)
 世界っていうものを把握するのに便利な方法として、経済学的な方法というのがあるのです。社会経済学的な方法というのがあるのです。
 この社会経済学的な方法というものは、これでもって世界が逆にわかっちゃうというふうに考えると、とんでもない簡略化みたいのが起こるわけですけど、逆に言いまして、そういう欠陥もあるがために、世界というのを把握するのに、それが一番把握しやすいって、いろんな質とか、差異というものを全部そぎ落としまして、非常に把握しやすいということがあるわけなんです。
(ここ、文章がわかりにくくつながってるので、うまく繋がっていないところを()で隔離しています。この辺はわたしが言っている、物語を要素に簡素化して、法学的に捉えるとすごくわかりやすくなると言っていたのと、近似したことを言っています)

 その概念を変えて言うと、なぜイメージの生活の世界というものが、大規模に大きな深さでもって存在するように現在なっているのかと考えますと、基本的な衝動はとても簡単なのです。
 たとえば、物体的な価値、あるいは物質的な価値というものは、先ほどの例でいいますと、どの化粧品会社の化粧品でもたいして変わりはないでしょう。しかし、これを売るとか、与えるとか、そういう場面になっていきますと、化粧品の中身でいくというよりも、中身以外にイメージの価値を付け加えまして、実質的な価値、プラス、イメージの価値でもって競争する以外にないわけです。その熾烈な競争のやりかたのなかで、イメージの生活世界というものが膨大になってきているということが言えるわけです。
 だからもし、みなさんの実質的な生活のなかで、実質的な生活と極めて飛び離れてしまったイメージの世界があったとしても、みなさんはそのイメージの世界に入ることができない。しかし、みなさんの実質的な生活の世界に対して、それよりも若干イメージが加わった世界というものを展開すると、みなさんはそのイメージの世界に入りたいと考え、入ろうとする。だから、絶えず、実質的な生活世界が要求する欲求、願望よりも、絶えず、若干だけ高い欲求、あるいは願望のところにイメージの世界を絶えず付け加えようという衝動というものは、生じてくるわけです。
 その問題は、膨大なイメージ生活の世界を現在大規模に展開させている大きな理由であって、私たちが24時間生活するならば絶えず、実質的な生活世界からそういうイメージの世界へいき、また、そこから降りてきて巡るということをやらなくちゃいけない。どうしても、そこを通過していかなくちゃいけない、必然の通路みたいなものとして、それは存在しています。
 その世界を通路として存在せしめている根本的な衝動は、いま言いましたように、物質的な価値とか、物体的な価値というものに対して、イメージの価値を付け加えたりというような、イメージの価値で競争したいという根本的な衝動というようなものが、そういう世界を膨らましているということは明瞭なわけです。

 もしも文学作品が、このイメージだけの世界というものも通過しながら、なおかつ、これでもって自己主張したいとか、個性をそこでつかまえたいとか、個性を表明したいとか、なお、ありあまる作品の価値をつくりあげたいというふうに考えるならば、文学というものの根本的な衝動というものが、いずれにしても、現在存在しているイメージの世界の厚さと規模というものを、いわば、くぐり抜けて、なおかつ個性的である、そういう世界というものは、なおかつ価値がある、そういう世界というものを実現したいというふうに考えるならば、その必須な条件というもののひとつに、いま言いましたイメージの世界というものを、とにかく、くぐり抜けて、その上に出るといいましょうか、その果てに出るといいましょうか、その端に出るといいましょうか、そういうことがどうしても必須の条件になるわけになります。
 つまり、文学作品にとって、文学作品をもし本質的に問おうとするならば、どうしても現在つくりだされているイメージの世界というものを、とにかく、くぐり抜けて、なおその果てに出るということが、どうしても必須の条件になります。

 もしもそうじゃなければ、そうじゃなくて、つくられている、できあがっているイメージの世界の中で操作するのが文学だというのならば、それは、現在のエンターテイメントの世界がかなりな程度良質な、つまり、優れた作品として、実現しているところがあります。
 だから、その世界でもっとそれを実現すればいいので、もしも、文学にとって本質的な衝動というものが、そうじゃないのであって、現に存在する膨大なイメージの世界、あるいは、イメージ生活の層といいますか、厚みといいますか、それをとにかく、くぐり抜けて、なおかつ、やっぱりひとつの個性ある作品としての自己主張をしたいということが、文学にとって本質的な問題だったとしたらば、どうしてもここをくぐり抜けて、なおかつ個性的でありうる、つまり、良識的に現実性をもちうるというような、そういう世界をどうしても実現する必要があると思われるのです。


 12.経済学的な方法から得られる世界像

 では、どうやってそれが実現可能なのだろうかっていうことが、最後に出てくる問題です。批評にとっても、想像にとっても、最後に出てくる問題のように思われるのです。これはもしここでどういう作品がそういう作品としての条件を備えているのかというようなことになっていくし、また、どういうふうにしてそれは可能なのかということが問題になってくると思うのです。
 つまり、どうしてそのような作品の実現が可能なのかということは、いわば問うこと自体が無意味なのであって、あるいは、可能にする人が可能にするだろうということにすぎないのかもしれないのです。ただ、それをまだ実現されていない作品とか、実現されていない物語とかいう意味で、その条件といいますか、いくつかの性格というものを言おうとすれば、何を考えればいいかということがあると思うのです。
 これは、経済学的な方法というものをもう1回、構造的に考えてみますと、現在、たとえば、実質的な、あるいは物質的な、生活世界にまつわる、つまり、生活世界のある部分を何時間か、8時間なら8時間のものを占めているものをつくっている世界とかは、いわば働きにいって、労働して、働いて、そして賃金を得て、帰ってきて生活してどうするというような、こういう片っぽじゃそういう世界の人であるし、片っぽじゃ賃労働からあり余ったものがあると、あり余ったものをどういうふうにこれを分けようかということを、現在でいえば、国家なら国家というものが単位をもってそれをやっている、そういう全体を持つ世界です。
 こういうふうに構造化しまいますと、こういう世界に対して、どういうふうに国家が、ある制御装置がどういうふうにそれをコントロールするかという形で平面化して考えて、図面化してしまいますと、そういう世界のひとつの姿が得られます。
 つまり、賃労働している人達の世界がある。そして、その賃労働から得られた余剰分というものをある装置が管理していて、その装置が管理した装置が、それを自分たちが適当に足りないところに補うとか、余ったところから取るとか、そういう形で管理している場合もあるし、また部分的にだけ管理している場合もありますけど、そういう管理している装置がある。

 そしてあとは賃労働しては一日を暮らしている人達の世界が増えているというような、グラフ化された世界像が得られるわけですけど、その世界像のなかで、たとえば、管理装置である国家が100%そういう賃労働者の世界を管理している、そういう世界から、またそうじゃなくて、日本のように十何パーセントだけ管理していると、そういう世界と、それから、ヨーロッパのように30%なら30%管理されている世界とか、それから100%管理されている世界とかというふうに、管理の度合いが違っていても、そういうふうに管理されている世界像の中に、賃金労働者みたいなものが、現在の非常に高度な資本主義国では、たとえば、90%ぐらいが賃労働者になっています。これはいまに100%みんな賃労働者になります。しかも、賃労働者になっておいて、賃労働者自体は自分を中産階級だと思っています。しかし、だいたい100%そういうふうになっていくと思います。
 つまり、もっとその度合いを、もっと極端に持っていきますと、100%が賃労働者であって、全部が自分たちは中産階級だっていうふうに思っていると、そういう世界に対して、たとえば、管理装置が30%の管理装置の、西欧のようにそういう世界もありますし、社会主義圏のように100%の管理世界であるところもあります。それでいまに西欧だったら30%がだんだん40%、50%というふうになっていくだろうというふうに思われます。
 いずれにせよ、そういうふうになっていって、管理世界では100%じゃちょっと無理なんじゃないかっていうので80%にしようじゃないかみたいな、ポーランドみたいな、そういうふうな世界に、多少修正が起こるみたいに、だいたいそういうイメージで図面化することができます。あとはぜんぶ賃労働者というふうにだんだんなっていくみたいな、そういう極端なイメージを浮かべますとだいたい世界像の平面図というものが得られるわけです。

(たぶん、ここ原文を読むとびっくりすると思うのですが、わたしが「図面化」とか「グラフ化」と意訳している部分は一様に「のしイカのようにのされる」と比喩されています。ここは生命であるイカが、スルメのようになって1枚2枚と物のように流通している、というようなニュアンスだと思うのですが、現代人にはかえって分かりにくいので、「グラフ化」「図面化」と意訳しています。わたしとしてもその言葉には「人を数字にしてしまって全体像が分かるとでも思っているんだろうか」というニュアンスを込めているところはありますので、わたしの中ではだいたい同じ用語なんですが、分かりにくいですかね・・・(^_^; )


 13.拡大する管理装置をどう考えるか

 ここでもって、たとえば、先ほどいま言いましたイメージの世界に文学作品、つまり、言語表現の手段というものをその世界に限定していく人達のそういう作品が一様にパターン化していく、あるいは、パターンの新しさを問題にする以外にないというふうになりつつあるし、純文学の作品というようなものは、そういう問題意識に耐えられないで、そこのイメージの世界を突き抜けていこうとするのだけど、突き抜ける力がなくて、失墜してしまうというものが、たぶん現在の純文学の作品の大部分だと思うのですけど、つまり、そこのところで、もし問題の意識を、そこのイメージの世界を突き抜けて、なおかつ存在しうる、存在感をもちうる作品というものが、文学にとって望ましいものであるとするならば、それはたぶん、ぼくの考えでは、いずれにせよ、管理装置というものをどういうふうに考えるかということが問題なような気がします。
 つまり、管理装置というものをどういうふうに考えるかという場合に、管理装置は少なくなり、そして、なくなってしまうということが、たぶん、イメージとして、範型としてといいましょうか、理想形として描きうる世界だっていうふうに考えられます。ぼくは考えます。
 しかし、現在のところではそうでないのであって、文学作品に基本的な無意識を規定している一種のシステムというものは、だんだん管理50%以上に近づこうとしているし、すでに100%だというところは、たぶん、管理80%以下60%にしようじゃないかというふうな、そういうふうなところの衝動に向かいつつあると思います。
 いずれにせよ、だいたい僕らの考えられるかぎりでの、現在の文学をたぶん無意識のうちで司っているシステムの世界というものは管理を拡大するというところにたぶん行きつつある、日本はもちろんそうですけど、つまり、管理を拡大するというところに行きつつあるように思われます。
 だけれども、ほんとうに描かれる範型というものは、世界イメージというものはそうじゃなくて、管理を減少させる方向というものが描かれる世界だというふうに考えます。つまり、この管理を減少させられるというような世界地図といいましょうか、世界地図というものを範型として描いたところで、いかにして作品が成り立つのかということが、たぶん、現在における文学の本質的な問題として残るんじゃないか、つまり、あるんじゃないかという気がします。
 しかし、現に行われつつある、移行しつつある場面はそうではありません。この場面は変わることはちょっと考えられないのですけど、ちょっと短い期間では考えられないのですけど、たぶん、そうじゃなくて、管理装置というものの拡大の方向に、とくに日本の文学というものを無意識のところで規定しているシステムというものは、たぶんそれを拡大する方向にいくだろうというふうに考えられます。だから、当分の間、管理イメージというのは拡大する方向に、そして、アトム化する方向に、そして、個性もパターンが問題なんだっていうような、そういう方向にたぶん当分の間は、文学というものは必然的にいってしまうんじゃないか、それに耐えようとする形の作品というものがどこまで耐えるかという場合に、その方向性といいましょうか、指向性といいましょうか、そういうことはたぶん、もう少し先のところに管理というものが減少されたときに何が起こるのかというような、そういう問題のところに、たぶん問題の本質的な部分があるんじゃないかというふうに考えられるということなのです。
 こんなことはいくら考えたってどうしようもないことで、具体的に作品をつくる人は具体的につくるのであり、また具体的に突破してしまう人は突破した優れた作品を書いてしまう人は書いてしまうのですけど、意識的であれ、無意識的であれ、書いてしまうのですけど、ただ、批評というものが、やはり批評固有の問題というものを抱えながら、しかしその固有の問題というものがどこを目指したらいいのか、あるいは、どこにひとつの究極的なといいましょうか、どこにイメージを、原型を描いたらいいのかということを考えた場合には、若干そういう点でいえるような、つまり、はっきりさせられるようなところがあるように思われるのです。
 つまり、そこの問題はたぶん現在における、どうやって物語がつくられるのか、あるいは、つくれないのか、どうしてそれが壊れてしまうのかというような、そういう問題にまつわる、非常に現在の根本的な問題のあり所だっていうふうに、ぼくには考えられます。いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

(ここは一切手を入れていません。大変わかりやすい)


 14.司会

 たいへん長時間にわたりましてお話しいただいたのですが、質問を少し受けてくださるそうでございますから、一人か二人ございましたら出してください。


 15.質疑応答

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)

 以下原文は質疑応答ですが、質問が聞き取れてなかったり、途中で切れていたりするので、省略します。


 さいごに

 以上、吉本隆明の講演録音『物語の現象論』から、意訳気味にお送りしましたがいかがだったでしょうか。わたしとしては、入院中に漁っていたポッドキャストから、吉本隆明氏の講演録音集を発見し、その中から面白そうに思えた『物語の現象論』を聞いてみたら、あまりにも話しが奔放に飛びすぎていて意味の理解が追いつかない、から、これは意訳して書き出してみるか、というところから始まったのですが、以外なところに着地しました。
 わたしとしては語り手の話と、語り手を通した物語の構造の話で十分面白かったのですが、タイトルである『物語の現象論』の話が出てくると、それは現代的マーケティング手法の影響を受けたエンターティナーが小説を書き始めたとという話になり、その手法で古典的文学作品に比類するものは書けるとしたら、どういうものになるのだろう、と話が進んでけっこうスリリングです。
 わたしの観測範囲では、実はそれは吉本隆明の娘である、よしもとばななが達成してしまっていて(この辺ドラマチックですねw)、女性作家に多いのですが、江國香織、角田光代と言ったあたりがわたしの観測範囲内です。男性作家では村上龍がまず上がって、あとは何人かのSF作家(山本弘、小川一水、野尻抱介、大原まり子、あたりでしょうか)がなんとなく達してるかな、という気がします(北村薫も忘れてはいけませんね)。
 まあ、こう言った雑談は別建てでわたしの感想回を設けることにしますとして、来週あたりにお送りしたいと思いますが、とりあえずのところは、これで終了です。

 長々とお疲れ様でした。


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