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吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 3/4?

 えっと、続きです。

 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196006


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 2/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196007


 ■原文はこちら ■吉本隆明の183講演 - 物語の現象論
 http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a063.html




 先週の進行が異様に速かったせいか、今週は土日だらだらと何もせず(あー、いや通院したり、部屋の整理で雑用したのですが)、平日に入って、あれ、なんにも進んでない、とぎくりとしたのですが、よく考えてみれば今日火曜日じゃね? 金曜日まで4日あるじゃんと、我に返ったりしてましたが(ちなみに金曜深夜にほぼほぼの完成稿がしあがっている)、いかがお過ごしでしょうか。
 この解読連載は、要はあり物の講演内容をわたしなりの理解でまとめ直すという、一種の学生のようなことをしているのですが、ほんとにこれでいいのだろうかとびくびくしつつも、こんなのをありがたがるのはわたし自身しかいないな、という自嘲に似た感慨を感じます。
 ただまあ、秘密の手帳はわたしだけが読めればそれでいいので、ほんとにこれはコクヨのノートだね、と思いながら書いています。そうでない人をほとんど考慮していないのは、ほんとすみません・・・。
 この講演自体に関するわたしの感想は、本編とは分離して、別立てでまとめたいと思います。


 7. 山川健一『さよならの挨拶を』における陰影

 主人公は僕というかたちで出てくるわけですけど、僕という主人公がトルエン中毒で、トルエンを吸って酩酊したときの状態の描写なのです。

 夏だというのに体は冷え切っていた、手のひらは凍えてしまいそうだ、何もかもがまだ始まったばかりだというのに凍えてしまう。ぼくの怒りや道を照らすカンテラの明りや、ささやかな希望が凍りつく肉体の中心に一点の、たとえば氷の破片のようなものがあるのだと思う。そいつが少しずつ大きくなる、少しずつ、しかし確実に肉体は熱を失っていく、すべてが凍えてしまわないうちに、もう一度やるのだ、たとえば、腐った林檎みたいな匂いのこもった家に火を放ったように、もう一度やるのだ。時間がない。時は信じられないほどの速さで過ぎていきつつある。一度立ち止まれば、もう二度と再び歩き始めることはできないだろう。やり直すことができないのだ。ぼくは台所へ立った。ヒロシの背中に、ヒロシっていうのは友達です、密かに呼びかける、ヒロシ、ぼくらは短い人生のほんの数秒しか訪れない輝かしいときを精一杯光り輝かすために毎日息を殺して生きているので、その瞬間がなければ、誰も長い砂漠を超えていくことはできないのだ。ミルクを飲む。ヒロシが用意してくれた熱いミルクを飲む、砂漠の中に火が見える、輝く太陽の下で炎が揺らめいていた。ぼくの家が、過去の時間がびっしりつまった家が燃えている。そして、炎のむこうにアラブの軍馬が見えた。その上に乗っている男が火を放った犯人だ。そう、この僕だ。最後まで始末することができずに手元に残ってしまったカード、ジョーカーだ。こうあります。
(これはどこまで正確に再現できているのかは不明です)

 ここでやはり、ぼくというかたちで作品を語っているように見える存在なんですけど、その語っているような存在と、それから作者と、登場人物としての僕と、それから、それを地の部分で語っている語り手と、その語り手がまったくそもそも分離していることがわかります。いつも別々なことを考え、別々なことを言っているという複雑なかたちというものが、いま読みました合計20行ぐらいだと思いますけど、20行ぐらいの中に、たいへんはっきりと、ある意味でたいへん見事に表現されています。
(おっと、朗読のようです)

 そうすると、ここでこの場合に何を読んだらいいのか、それはたとえばこうなんです。このなかに物語の筋の展開を読もうとしても、この20行で何も展開されていないと言っていいくらい展開がされていません。この割合はこの作品全体にいえるわけで、この作品全体で何百行か何千行あるか知りませんけど、何千行のなかで物語の展開として筋の展開として考えたらば、そんなにたくさんの展開はありません。だから、あきらかにこの作品は、筋の展開を面白おかしい物語が書かれているからそれを読んでくれと言っているのではないことがわかります。つまり、そういうものが作品のモチーフでないことがわかります。
(この辺の質が恐ろしく高いので、ママで続けます)

 何がモチーフなのだろうか、それはまず全体を読む以外にないのですけど、しかし、文芸批評的な根性から言わせてもらいますと、これは登場人物と語り手と、それから作者とのかかわり合いの陰影というものを読んでほしいのだっていうふうに思われます。
 モチーフというのもあるのです。倫理的なモチーフもあります。それはトルエン吸引者である、心弱くて、やさしくて、世間的に非難されているといいますか、そういうような、どうしようもないような、素面ではとてもこの社会に生きていけないようなふうになっている、そういう精神状態に存在する、ぼくというトルエン吸引者の一種のやさしい自己主張なんですけど、つまり、やさしくて弱々しい自己主張の倫理があるわけなのです。それは、それを知ってほしいというかたちでしか、それをわかってほしいんだと、しかし、誰もこれをわかってくれないならば、じぶんはそれをできるだけ説明しようじゃないかと、しかし、じぶんはそれを説明したとしても、トルエン吸引者の内面というものを誰も理解してくれないかもしれないし、それを評価もしてくれないかもしれない、しかし、もしこれをわからせることに意味があるとすれば、それはたとえばひとつの倫理でありうるというような、そういうふうに言ってしまうといけないのですけど、いってみれば、そういうモチーフというものは、微かに立ち上ってくるのですけど、本来的にいえば、ようするに、語り手というものと作者という者と、それから、登場人物という者とが、あるときに出会ってみたり、あるときに別れて、語り手が地の部分として説明しているかと思えば、ぼくはこれこれというふるまいをして、これこれのことを感じていると、作者のほうは、これこれという感じをしている僕というものを描きながら、こういう人物を描いているおれというのは、つまり、作者というのはいったい何なのだろうかっていうことを、自らじぶんで問いかけているというような、そういうある時には、そういうふうに作者も登場人物も語り手も全部分離してしまうと、それで、あるときには、ある場面ではそれら3つが一緒になってしまって、あることを消極的にですけど言おうとしていると、あるときにはまたそれが別れてきてしまう、そういう複雑な一種の起伏があるわけですけど、そのことをたぶん、この作者は、この作品で語りたいわけなのです。
 この作品は先ほど言いました、頂点と底辺といいましたけど、たぶん中間に挿入される作品というふうに言うことができると思います。ただ、作品としていえば、たぶん、この作品はいちばんいい作品だと思います。つまり、いちばんいい作品で、たぶん、昨年度に書かれた作品のなかで、いくつかのなかに入る優れた作品だと思いますけど、だけれども、いま言いました意味合いでいえば、つまり、物語というものの一種の構造みたいなものからいえば、その中間に属すると思います。中間に属するひとつの作品のあり方だっていうふうに思います。
(序文しか削ってないですが、理路整然として素晴らしい文章です)


 8.イメージの価値の深化と表現形式の変化

 さきほど頂点と底辺と言いましたけど、頂点と底辺の間にさまざまなバリュエーションで語り手と、それから登場人物と、そして作者との、さまざまなバリュエーションで、さまざまな形っていうものが、形態というものがとられるというのが、現在の文学作品を非常に本質的なところで捉えようとした場合に出てくる問題なわけです。
 これまでで、いちおう現在の物語のありうべき様々なかたちのある典型というものを抜き出せたことになるのですけど、たぶん、みなさんのほうでは若干、不満があるんじゃないかと思うんです。ぼくもちょっとこれだけだと不満があります。
 だから、もうひとつ問題を出していきたいわけですけど、それは言葉の表現の様式、様式の問題なのです。この様式の問題というものが無視することのできない現在の文学の大きな問題であるように思われるのです。
 先ほども触れましたけど、現在、テレビなんか見ますとよくわかるのですけど、実質的な、あるいは、物質的な、あるいは、物体的なといいますか、物体的な存在感というものに対して、イメージの存在感というものが大規模な意味あいをもってきているというのが、現在の文学の中で抜かしてはならない問題のように思われるのです。
 だから、非常に典型的にわかるのは、テレビの化粧品なら化粧品というもののCMをみればすぐにわかるのですけど、物質としての化粧品というのは、たぶん、それほど変わりがないように思うのです。つまり、どんなものをもってきてもたいして変わりはないと、あるいは、どこの社のどこの製品をもってきても、それほどの変わりはない。それに対して、イメージの価値といいますか、つまり、物体、物質性をもたない価値をこれに付け加えようということがあります。この付け加え方が容器の形になったり、容器の質になったり、あるいは、色彩になったり、あるいは、それを宣伝している女性の顔になったり、あるいは、人気度になったり、そういうふうなかたちで様々なイメージとしての価値が付加されるというようなことが、その規模が非常に大きく、かつ深い層をなして存在するようになっているということが非常に大きな問題、つまり、その問題が文学作品に対してどういう影響を与えるかってことが非常に大きな問題のように思われるのです。

 人々はそのように付加されるイメージというものを、イメージと同じように瞬間的に、たとえばスイッチをひねれば、瞬間的に感覚の中に、あるいは、視覚の中に入ってきて、瞬間的にわかっちゃう、次の瞬間にはもうそれは消えてしまう、そういうようなかたちで存在するイメージ、あるいは、映像のあり方に大規模に晒されていますから、文学作品といえども、やはりそのようなかたちでつくろうというモチーフというのが当然あらわれてきている。
 だから、その場合には言葉を映像と同じように使おうとするわけです。
 映像と同じように使おうという場合に、いちばん根本的なことは何かっていいますと、瞬間的にある中心に入っていって、そして、瞬間的に中心から出てきちゃうっていうような、そういう作品形成の仕方をやはり文学作品自体もやろうとするっていうことが、必然的に起こってくるだろう、あるいは、起こってきつつあるということです。これは、若い年代の作家のなかに非常に多くあらわれてきます。
 これは意識してそうされている場合もありますし、無意識のうちに、映像がいきなり中心にパッとあらわれ、そしてまた、パッと消えるっていうような、あるいは、次々移っていっちゃうっていうような、そういう映像のイメージに慣れているために、言葉もやはりそのように使いたい、あるいは、小説もそのように構成したいっていうような意識的な意図の場合と、それから無意識のうちにそうなってしまうという、両方の場合があり、それは若い年代の作家のなかに多くあらわれてきています。この問題は、ぼくは現在の文学作品を考える場合に無視することができない問題のように思われるわけです。
(語尾、重複表現を中心にスリム化している)


 9. 田中康夫『なんとなく、クリスタル』−イメージだけの生活概念

 たとえば、例をあげればいいでしょう。きっとみなさんが読んでおられる田中康夫って人の『なんとなくクリスタル』っていう作品があります。『なんとなくクリスタル』という作品は、いいと思う人もいるし、こんなものはダメだという人もいると思うのです。だけれども、そんなことは問題ではないのです。つまり、いいと思おうが、悪いと思おうが自由であるし、また、たいした問題じゃないのです。
 この作品の基本的な性格は何かっていいますと、これは意識して作者が書いているわけですけど、意識された一種の風俗的な道行小説です。この道行小説という概念は、やっぱり古典時代からある概念なのです。つまり、東海道五十三次をこういうふうに渡って、浜松では何があって、それと同じ意味合いで、現在存在する風俗を導くふうに、辿っていくということがこの作品を書く場合の作者の根本的なモチーフです。これはかなり意図的な、つまり、意識されたモチーフです。そういうものを描きたいわけです。
 これだけの作品かっていうと、そうじゃないのです。これは、みなさんがそのことは気がついておられると思うのですけど、この中にも微弱でありますけど、自己主張と自己限定があります。
 それは何かっていいますと、ひとつは先ほど言いました、実質的、あるいは物質的、あるいは物体的な価値概念、あるいは生活概念でもいいのですけど、そういう概念がまったく存在しない、つまり、イメージだけの生活概念というものに登場人物たちを限定しようとしているということです。
 つまり、登場人物たちは学生さんだったり、モデルをアルバイトにしている学生さんであったり、あるいはデザイナーであったりするわけですけど、それらはいずれの職種も実質的な、あるいは実体的な生活を営んでいるというよりも、ほぼイメージの生活を営んでいる、あるいは、イメージをつくりあげることを職業とする生活を営んでいるっていうようなところに登場人物たちを限定していることがわかります。つまり、この限定はなぜそうされるかというと、作者が登場人物たちをイメージの価値、つまり、イメージだけの価値のところで、登場人物たちを動かしたいということがこの作品の自己限定だと思います。
 これは作者が意識していたかどうか、半分ぐらいしか、たぶん意識していないと思うのです。半分は無意識のうちに、じぶんにとって最も描きやすい世界だったからそうしたということかもしれないのですけど、あきらかにそれは重要なことだと思います。
 つまり、実質的な生活とか、物体的な、あるいは物質的な生活を営んでいるというような次元で起こる様々な問題ではなくて、イメージの世界、あるいはイメージがつくられたイメージの中の世界で生活している、そういう人間が当面する様々な問題というようなところに、登場人物たちを限定しているということが、重要なことだと思います。この限定の仕方というものが非常に現代的なわけです。
 たとえば、みなさんがこの作品をある意味で非常に現代的だと思われるとおもうのです。その現代的だと思われることの理由は何かといいますと、現在の風俗が描かれているから現代的だとも言えるでしょうけど、それはたぶん、表面的なことにすぎない。
 この作品をほんとうに現代的だと思わせている根本的な理由のひとつは、登場人物たちをイメージの生活、あるいはイメージをつくることに加担するといいますか、つくることにたずさわっている、そういう職業の人物たちの当面する様々な問題というものを描いているというところを、そこが現代性を感じさせるところの大きな問題のように思えるのです。
 そのなかで、たとえば、作者のもうひとつ、その奥にひとつの自己主張があります。その自己主張は取りだしてしまえば身も蓋もないのですけど、自分たちはこうだと思います。自分たちというのは、作者の生の主張じゃなくて、登場人物に言わせる主張ですが、自分たちは拘束されて生きるのは嫌だと、だけれども、まったく自由に生きるっていうことも嫌なんだ、あるいは、できないんだと言ってもいい。
 つまり、自分たちは拘束されて、拘束されてという意味あいは様々ありますけど、ごく単純に親父さんからお前は誰それと見合いをして、結婚して、会社に就職してどうしろと、こういうふうに親から言われていると、それを嫌だと言えば、親との衝突が起こるという場合に、親のそういう意向を拘束と感ずるという、自分たちは拘束されないという次元で、自分たちは生きたいということ、生活していきたいということがあると、そうすると、今度は逆にまったく非拘束であったらば、自分たちは困るのだ。
 たとえば、主人公はバンドをつくっている男の子と同棲しているわけですけど、そうすると、まったく自由に男の子と同棲はしているけど、男の子は男の子で勝手自由に振るまえば、たちまちのうちに同棲生活というのは壊れてしまいます。主人公はあきらかにそういうふうに壊れてしまうのは嫌なのだと言わせています。そういうふうには壊れたくないのだと、しかし、さればといって、恋愛して同棲しているのだから、生活の隅から隅まで相手に拘束されるというのは、自分は嫌なのだと、そういう意味では、自分がほかの男の子と遊びにいって、また同棲している男の子のほうは、ほかの女の子と遊びに行ったりということはありうるのだと、それから、あるときにはお互いに背中合わせで別々のベッドで寝るということもありうるのだというふうに、そういう意味合いでは拘束されたくないのだと、恋愛し、結婚し、こうしたんだからというふうに、だから拘束されるとか、愛しているなら拘束するという意味あいで、きつく拘束されるのも嫌だと、だから、そういう意味では拘束されたくないのだけど、それじゃあ非拘束という原則にすれば、同棲なんてものは3日と続くわけはないので、これは普遍的な真理であって、時代にかかわりのないことなのです。つまり、そういうふうに振るまった場合には、かならず、それはすぐに壊れてしまう、主人公はやはり、そういうふうに壊れたくはないのだ。また、この生活は壊したくないのだっていうふうに、そういうふうに主人公に言わせています。
 その主人公に言わせていることのなかに、ある意味で作者の倫理的な主張というのは、あるいは、もしかすると世代的な主張なのですけど、そういうようなものは、そこに間接的ですけど、こめられていることがわかります。つまり、拘束と非拘束というものの間に自分たちが存在したいんだと、しかも、その間に存在したいということと、しかし、自分たちの生活はだいたいにおいて、イメージの中の生活といいましょうか、イメージ自体を生活と考える、あるいは、イメージ自体をひとつの価値と考える、そういうなかで自分たちは生活したいんだということが、この作品の、要約してしまいますと、大きな自己主張になるだろう、あるいはモチーフになるだろうというふうに思います。
 みなさんたちはこの作品を読んで反撥されようと、肯定されようと、それはたいしたことはないのですけど、しかし、いずれにせよ、反発されるところも、肯定されるところも、いま僕が申し上げました作者の自己主張、ないしはモチーフのところに、反撥ないしは肯定されるってことは、ぼくは相当はっきりしているんじゃないかっていうふうに、僕には思われます。
 だから、そういう意味あいでこの作品を読みますと、この作品がなぜ新しい意味合いをもつのかということと、なぜ新しい意味合いをもつにもかかわらず、ほんとはかなり特殊なものなんだっていうようなことの意味あいというものも、ある程度はっきりするんじゃないかっていうふうに思われます。
 しかし、この問題は無視することができないというふうに僕には思われます。つまり、様々な意味で、現在、文学というものは、このイメージ増出力といいましょうか、あるいは、イメージ価値といいましょうか、そういうものの規模の大きさというのが大規模になってしまった。また、だいたいすべての人が24時間を過ごせば、必ずその中の半分ぐらいはイメージの価値が猛烈に大規模に、それからある程度の深さをもって存在するそういう世界といいましょうか、地帯といいましょうか、そういう帯をくぐらなければ、やっぱり24時間のうち何時間かは、そこをくぐらなければ一日は終わらないというような、そういう場面にみなさんが当面しているとすれば、そのことは無視することはできないし、たとえば、現在の文学が、若い人ですけど、微弱な主張で、かつ風俗的な主張ですけれど、その問題を無意識のうちに、あるいは非常に受け身なかたちで、その問題を表現しつつあらわれてきているということの問題は、かなり大きな問題として考えなければいけないんじゃないかというふうに思われます。
 それは、たとえば、現在、言葉によって描かれる世界というもの、あるいは言葉によってつくられる物語、あるいは文学作品の世界を考える場合に、非常に大きな問題になるだろうというふうに思われます。
(えっと、がりがりスリム化したら、冗長さが消えましたねえ・・・)


 10.イメージの世界を枠組みにするエンターテイメント作品

 次回でおそらくラストです。



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