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吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 2/?

 えっと、続きです。

 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196006


 ■原文はこちら ■吉本隆明の183講演 - 物語の現象論
 http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a063.html



 つい最近、調べ物をしていて大学の哲学科の生徒と思わしき人の、哲学書の詳細な解読エントリーを読んでしまい、あれ、これってやっていること、わたしとまったく同じじゃないか? などと思ってしまいました。
 わたしの方から見ると、
 「わたし → 吉村隆明」
 あれ、吉本隆明ってわたしと同じことやってないか? から、
 「吉本隆明 → ハイデガー(たまたまそのエントリーがハイデガーだった)」
 あれ、ハイデガーって吉本隆明と同じことやってないか? であり、
 わたしは吉本隆明の読み解きに、法律の条文解釈の手法を用いているのですが、そのやりかたと哲学科のゼミの様子なんだろうか? がそっくりという事にびっくりしていたりします。
 わたしが使っている法学の解釈手法(法律系資格の論文試験用の勉強方法)というのが、おそらく法学部の条文解釈をそのまま持ってきたものだと思うので、そこが似てしまっているんだろうなあとか思います。
(法学部の手法というのは「逐条解説」という分野を見れば一目瞭然だと思う)

 吉本隆明のどの文章がどこにかかっているのか分かりにくい文章に慣れてしまったわたしからすると、なんてハイデガーって論理的で読みやすいんだろうと、最高裁判決文の捻くれた論旨に比べて哲学書ってなんて整理されているんだろう(これは判決文が法律に沿って現実を無理やり解釈しているので、本人の土壌で自由に整理して論旨展開している哲学書とは、まったく条件がちがうので、当然といえば当然なんですが)などと思ってしまうのですが(^_^;
 ただ、とてもきれいな論旨展開の哲学科の様子を見ていたら、あー、わたしもこれぐらい整理して物事を理解しなければ、などと思いました・・・。
 というわけで、吉本隆明の「物語の現象論」の解読ですが、続けます。


 4. 文学の本質から見た私小説−島村利正『佃島薄暮』

 私小説というのはいろいろな定義があるわけですけど、私小説というのは「作者」と「語り手」と「登場人物」がイコールということです。もちろん言葉の表現ですからイコールということはありえないのですが、虚構としてそう見せようとしているのが私小説の特徴です。
 例に挙げるのは、島村利正の『佃島薄暮』です。
(原文のここまでの構成が自由すぎて、まったく整理されてない。30行(全角40字詰め)を整理したら、5行になったレベルです。詳細は原文をどうぞ)

 主人公がゴウゾウっていう老人なのですが、姪に病気の世話やなんかをしているうちに関係して2号さんみたいにして同棲しているんですけど、だんだん姪のほうが嫌になっちゃって、どこか出ていっちゃう。それで寂しくなって探し求めているんですけど、東京の茶屋で女中さんをしているとわかって、密かに子どもたちには内緒で出かけようってところでゴウゾウは早かった。翌日10時ごろ朝飯を済ますと、銚子の病院に行くと言って、背広に着替えて出かけた。ひとりで銚子の病院に行く例はいままでにもあって、子どもたちも特別のこととは思わなかった。ゴウゾウはその日ほんとうに病院へ行った。心電図もとったり、いつもより綿密に診てもらった。待ち時間を入れて2時間くらいかかった。特別の異常は認められなかった。病院を出てから銀行へ回り、預金から50万円を下ろし、軽い昼食をやって、次に理髪店に行く、とあります。

 初めのゴウゾウは早かった翌日10時頃といいます。
 これは「語り手」の語っている言葉になります。
(ここ、意味不明なのですが、「ゴウゾウは早かった、翌日10時ごろ朝飯を済ますと、銚子の病院に行くと言って、背広に着替えて出かけた」という文章があるんでしょう)

 しかし、途中でもはやそうではなくなります。すでに「作者」が半分ぐらいはゴウゾウっていう老人のなかに半分ぐらい入っています。言ってみますと、「語り手」のなかに半分ぐらい「作者」が入り込んでいます。乗り出しています。あるいは、全部といってもいいのです。つまり、全部がもう「作者」がゴウゾウになっちゃっている。だから、待ち時間を2時間くらいかかった、特別の異常は認められなかった。病院を出てから銀行へ回り、預金から50万円おろすっていう、こういう直接話法みたいになるわけです。ようするに、ゴウゾウっていう老人が下ろしてっていうふうに受け取れるわけです。つまり、「読者」は受け取れるわけです。
(ここは小説を書く身として、最大限原文を活かして解釈していますが、講演を書き下ろしている時点で限界がありますし、専業小説家でなければここをちゃんと例示するのは至難の業です。これに続く文章は、あーこれ意味ないなと思って略します)

 このことは私小説っていうものの非常に大きな性格なのです。つまり、「作者」=「語り手」=「登場人物」の虚構として見せようとしているのが私小説の特徴です。
(半分ぐらい削ったけど、言っている結論は同じです。詳しくは原文を当たってください)
 これは今年書かれた作品です。


 5. 民話と私小説の違い

 千五百年前の説話あるいは民話っていうものと何が違うのかと考えてみます。
 これは千五百年前の説話も、あるいは民話も、現在書かれている私小説も、まったく僕は同じだっていうふうに理解します。
 ただ、どこが違うかっていうと、時間の経緯っていうものだけが違う、つまり、時間的な落差といいましょうか、そういうものだけが違うっていうことだと思います。
 しかし、現在も、千五百年前も、二千年前も考えられる原型的な共同性みたいなものが現在もありうるのか。
 そして、もうひとつは、それが成り立っているという、虚構性っていいますか、加工性っていいますか、それだけはしようとしているモチーフと言うか、衝動と言うか、そういうものがあるということが私小説の基本的な性格だといえると思います。
(ここは恐ろしくカットしたので、原文を・・・)

 私小説というのはいい作品じゃないかどうかってことはまた別な問題です。別次元の問題です。
 しかしながら、現在もなお私小説のように、つまり、「登場人物」も「作者」も、それから「語り手」も全部いっしょくただっていう虚構がモチーフとして作品を成り立たせている。
 この成り立ち方はいってみれば『源氏物語』以前の問題です。『源氏物語』以前の問題として、現在も依然としてベースとしてある、言い換えればそれは文学の、物語の起源の問題ですから、起源の問題はいつまで経ったってつきまとっているという意味あいで、現在もまたつきまとっているのですけど、作品の構造とかそういうものからみれば、もちろん、『源氏物語』あるいはそれ以前の日記というものがあるわけですけど、『蜻蛉日記』とか、何々日記というのがありますけど、日記類が書かれたときに、すでに私小説以上の問題っていうものは提起されているわけで、だからはるかに千年ばかり、そういう意味でいいますと古いわけで、私小説っていうのは、一種の古い構造をもって現在も成り立っている小説であるわけです。
(ここは原文ママで残している)

 だから、日記文学の一種の集大成ともいえる『源氏物語』っていうものが書かれたときに、もはや「語り手」と「登場人物」と「作者」とは別々にふるまうことがありうるっていうような、そういう問題はすでに提起されてしまっているわけで、現在としても依然としてその問題は存在するというふうに考えますと、いちばんベースにおいてやはり高度なモチーフといいましょうか、あるいは、高度な作品の構造っていうもので、文学作品が現在存在しているのかって考えますと、非常に共感がしやすいわけです。現象論としては非常に共感がしやすいということがあります。
(うーん。一文字も削ってませんが、たぶんここが吉村隆明がいちばんいいたかった部分ですね・・・。そして漠然としている・・・)


 6. 東峰夫『天の大学』の高度な物語構造

 もちろん現在は私小説しか書かれていないわけではないので、そのような作品(これは何を言っているのか意味不明)の例を上げてみましょう。
 東峰夫の『天の大学』の一節です。
 これは「私」が主人公ですけど、私が性的に目覚めて、性欲に駆られて、母親と関係をしようというふうにいこうというところの描写なんです。
(おそらく、この小説では「主人公」=「作者」ではないので、私小説の定義から外れているけど、似たような現象が他の分野の小説にも見える、という意味でしょうか)

 居間では父と友人がお茶を飲みながら雑談をしているようだった。母は居間を通り抜けて寝室に入っていったので私も後を追った。父と友人が後ろ姿を見ているに違いなかったが平気だった。気づかれたらダメと母は言った。すぐに父の友人が寝室に飛び込んできた。それはいかんよ、それはない。でも、わかってほしいよ、おじさん、全身が震えて、声も泣き声になっていた。おじさんはわかってくれるはずだろう、何人も奥さんを取り替えたんだもの(会場笑)、おじさんはいいよ、得をしているよ、まあそのことは言わんでくれ、私は父の友人の腕に取りすがって、壁のところまで引っぱっていった。そこに座って、洗いざらい打ち明けたいと思ったが、しかし、何から話せばいいのかわからなかった。ずっと我慢していたんだ。だから、私は口ごもってしまった。そういっても、それはいいわけだ。それで見境もなくお母さんに欲を覚えたとは言わせんよ。私は呻き、もう何も言うことがなかった。
(完全に原文ママです)

 こういう一節があります。
 この作品は、自分が実際に母親をつかまえて、寝室へいこうとした。で、父親と友人が居間で話しているところを通り抜けようとして見つかっちゃったと読めますが、これはまったくのフィクション、まったくの虚構なんです。
 つまり、架空のことを書いているわけなんです。これは作品をぜんぶ読むと一目瞭然なんですけど、ここだけ読むとそういうふうに読めますけど、リアリティがあるのは何かっていいますと、ここで登場する私というものの欲望だけがこのなかでリアリティなのです。あるいは、この東さんという作者が言おうとしているリアリティはそれだけにあるわけなのです。
 枠組みを見てみますと、これは事実をそのまま、つまり、私という人物が母親をとらえて、父親と友人がいる居間のところを通って寝室のほうへいこうとした。そうしたら見つかっちゃって、父の友人が追っかけてきて、それはよせよせって、いくら欲望を覚えたって、母親にそんなことをしちゃおかしいじゃないかっていうのを、私っていうのは、それは勘弁してくれ、そうは言わんでくれって、こういうふうにとれるわけですけど、ほんとうにリアルなのは、私の欲望っていうことなのです。つまり、欲望が描くひとつの曲線っていうものを描きたいために、こういう場面をまったく架空に設定しているのです。つまり、これはシュールレアリスティックな場面なわけなのです。
 ここの場面はまったく私小説ではないのです。
 つまり、これは物語自体の枠組み、あるいは、少なくとも「主人公」と「登場人物」と「作者」とが、私小説的な関係にあるならば、当然、考えられるような場面というものを、もはやずっと遥かに超えたところに、作品のリアリティというものを求めているわけなのです。だから、「主人公」のエロス的な欲望というものが描く曲線だけがリアリティなのです。あるいは、作品のモチーフなんです。
 だから、「作者」が読んでもらいたいのは、ある人間の性に目覚めたころの、あるいは青春伝記になったあるひとつの私という男の子の抱くエロス的な欲望というものが描く曲線というもの、これは我々の潜在意識のなかに隠されていて、その年齢の私というものの欲望の描く曲線がどういう曲線の描き方をするかっていうこと、それを読んでもらいたいっていうのが、それを読むということがこの作品を読むということに該当するので、この作品の個々の場面というものは、もちろんリアリズムでもないしなんでもないのです。
 全部が一見リアルに存在するように描かれているのですけど、この『天の大学』という、「作者」の象徴によれば、これはようするに人間の抑圧されたといいますか、エロス的な欲望の描く曲線といいますか、その曲線のあり方というのを教える学校というのが『天の大学』という、「作者」はそういうふうに『天の大学』という題名を使っています。
(ちょっと長いので、結論部に入る前に、ひとやすみ)

 この作品は、そういう眼に見えない欲望を描く曲線をなんとかして言語化したいというところでこの作品が成り立っていることがわかります。
 ここでは、もはや「登場人物」と、「主人公」と、それから、「登場人物」と「私」がいさえすれば、また「作者」がいさえていれば、描かれるはずの物語の枠組みというものは、はるかに無視されていることがわかります。いい言葉を使えば、それを超えられていることがわかります。
 こういう作品というのは、いわば先ほどの私小説的な作品というものを底辺におくとすれば、この作品は頂点におかれるべき作品だというふうに考えます。またここで改めてお断りしなければなりませんけど、この頂点・底辺というのは、作品がいいか悪いかってことは別の問題なんだっていう、意味あいで受け取られないと、話が全然違ってきてしまいますから、そういう意味あいではありません。
 ただ、この作品は物語の構造っていうものから考えていきますと、最も高度なところに存在する作品だということが言うことができます。だから、こういう作品を頂点におきますと、その中間のところに様々なかたちの作品というものを想い描くことができるわけです。

 7. 山川健一『さよならの挨拶を』における陰影

 続きます。


| 雑記 | 21:03 | comments(0) | trackbacks(0) |









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