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<< 『三顧の礼』(4/4) | main | 吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 2/? >>
吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/?


 こんばんわ。hikaliです。
 これからしばらくは、吉本隆明の講演の録音から、「物語の現象論」をお送りしたいと思います。これが出てきた理由は、わたしが入院中に暇なのでポッドキャストを大量にダウンロードしたことを原因にします。
(これがうっかり携帯回線で20GB程度ダウンロードしていたらしく、とんでもない通信費になっているんですが・・・)
 原文を聞く環境も整ってますし、書き下し文もありますので、わたしの紹介など気にせず原文を当たってほしいのですが、正直吉本隆明の語った内容はあちこちに飛びすぎて読みにくい。
 そこでわたしが、自分の理解のために、要約を書いたという内容になっています。
 あくまでわたしの解釈であり、この要約がきっかけになって原文をあたってくれれば、と言う内容です。

 ■原文はこちら ■吉本隆明の183講演 - 物語の現象論
 http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a063.html

 単純にここは書き下し文が整備されているので、アクセスしやすい。

 ただ、語られている内容は衝撃です。
 わたしはミーハーな吉本隆明信者なのですが、薬袋を分解して(10袋ぐらいを裁縫キットのはさみで全部裏紙にした。病院内でほかに裏紙を手に入れる方法がなかった)その裏地にメモった要約をベースに書かれています。たぶん要約を読んで原文を読むと、これはカットしすぎだろうと思うところが多々あると思います。
 わたしはだいたい英国の冒険小説をベースにしていますので、いまさら1人称、3人称と悩むことはないですが(だいたい3人称の体裁をとった、擬似1人称をとっている)、考えてみるとだいぶ複雑だなあと思うところをついていると思います。
 まあ、わたしよりはるかに深いところを語っていると思いますので、しかし、要約しすぎなのではと思いつつ、これまで触れたことのなかった吉本隆明に触れていただければ幸いです。

 トロイア遺跡はここにあったんだ!
 
 


 1.「語り手」はどこに位置しているのか

 ある文学作品をどのように読むのか、読まれるのかは読む人のまったくの自由になる。ただ、読むという体験を文字という面倒な方法でするのか、なぜ文字なのかを考えるとひとつだけ共通なことがある気がする。
 それは読むという行為をなにか、一種の生活の場合で様々に当面する問題と同じような体験、それに類似した体験を読むという体験の中でしたいのだと、共通に考えるのではないか。
 問題が2つある。
 ひとつは生活の中での体験の落差、たとえば現実的なお粗末な生活のところから、ひじょうに高度なイメージの世界に連れていかれて、そしてまた夜になると飲み屋に帰ってきてラーメンを食うみたいな落差が、現在、読む人にとってひじょうに大きな問題なのではないかというかと。
 もうひとつは、そのイメージが様々な直接イメージ、つまり映像や絵画的な表現のような直接的にイメージを喚起できて、スイッチを入れるとすぐにそこから抜けられるような、イメージの世界が大規模になっていて、また、かつ、普遍的になっている。そうしたなか、わざわざ文字という一種の概念の中に入っていって、その世界とを行き来するという面倒なことをすることが億劫になってくる。これがもうひとつの共通する問題なのではないかと。
 そういった問題をふまえると、「読む」というところから入ってもよいのですが、文芸批評というか、批評の問題から作品に近づいていて行った場合、どういう問題が、いま問題になるのかというところから入ったほうがいいのではと考えます。これは僕自身が文芸批評をする中で、どのようなことが問題になっているのかから入ったほうがよい気がするのです。
 文芸批評の問題から入っていくと大きな問題になるのは「語り手」をどう待遇したらいいのか」という問題です。
 「語り手」というのはどういうことかといいますと、「語り手」の起源をいいますと、昔の説話とか、神話だとかでの「語り手」、もう少し時代が下がってくれば、『伊勢物語』なら「むかし男ありけり」っていう言葉から始まっていくとか、『今昔物語』なら、「いまはむかし〜がありき」とかっていうような形で物語が始まっていきます。その場合の、「むかし男ありけり」あるいは「いまはむかし」っていう言い方で言っている人が、「語り手」であるわけです。
 ところが、この「語り手」っていうのが、複雑なことになっていきます。
 起源のところでは、「語り手」とは何かってことが言いやすいわけで、それは、あるひとつの原型的な共同性があって、その共同性っていうものの内側にあるか、外側にあるかっていうことだけが、起源でいえば「語り手」の問題になります。
 内側にあれば、説話とか、民話とかっていうものになっていきます。
 つまり、ある原型的な共同体、あるいは共同性に対して、その内側にあって語っているか、外にあって語っているか、外にあるとすればどういう外にあって語っているかってことが、「語り手」っていうものの性格を決める、非常に大きな決め手になるわけです。
(外側の「語り手」の例示は語られていない)


 2. 『源氏物語』における「語り手」

 時代が下がるにつれて「語り手」の問題は複雑になります。
 一番その問題を提示しているのは源氏物語です。
 『源氏物語』の「語り手」がどう処遇されているのか。
 これは、専門家のほうでは、「草紙地」という言い方をしています。「草紙」っていうのは、お伽草紙とかの「草紙」で、「地」は地面の「地」ですけど、つまり、「語り手」の問題のことを「草紙地」っていうふうに専門家は言っています。
 ですが『源氏物語』の「語り手」の問題っていうのは、一応の意味では非常に簡単です。
 たとえば、ある祝宴の場面があると、祝宴の場面で登場してくる人物たちがお互いに歌を詠むと、これこれっていう歌が詠まれたんだけど、こういう祝宴の場面でつくられる歌っていうのは、いいものがないからそれは省くことにするっていうような文章が『源氏物語』のなかにでてくる。
 これを省くことにするって言っているのは、明らかに「語り手」。
 つまり、これは登場人物とも一応は関係なく、「語り手」がそう言っているわけです。
 また、いろんな限定の仕方をしています。『源氏物語』における「語り手」っていうのは、『源氏物語』の構造を説話のようにいちいち語っていったら、キリがない、つまり、いつまでも『源氏物語』を同じ密度で面々と語っていくのを省く。『源氏物語』の「語り手」はすぐに、登場人物の間にこういうことがあったんだけど、じぶんは女性であるので、そういうのは触れないみたいな、限定がやってきて、その問題はそこで切れるというふうに、いつでも自己限定として「語り手」っていうのがあらわれてきて省きます。
 この自己限定として「語り手」があらわれてくるっていうことは、非常に単純な理由によるので、つまり、作者が物語を面々と語るのが馬鹿らしくなったときに、「自己限定の語り手」が登場するわけです。


 3. 『源氏物語』が提起したこと−「語り手」・作者・登場人物の分離

 しかし、重要なのは『源氏物語』が自己限定の「語り手」を登場させたために、「語り手」と「作者」との分離っていうことが明確に起こるっていうことなんです。
 つまり、『源氏物語』において、たとえば日本の物語では初めて非常に明瞭な形で「語り手」の問題が登場し、そして、「語り手」の問題を自己限定として、あるいは、場面限定として登場させたために、作者と、それから作中に出てくる「語り手」とが、必ずしもイコールではないという問題を初めて物語の中で提起しています。この問題がいったん提起されますと、もっと違うことが起こります。
 今度は「登場人物」がひとりでに動き出すことが出てくるっていうことなんです。
 これは、「作者」が「登場人物」を描いているのだから、「作者」が描かなければ、そう描いたからそうなっているんだっていうふうになるんですけど、ほんとはそうじゃなくて、どう読むのは「読者」の自由ですから、「登場人物」はある場面に登場して、ある行いをし、ある事件を差し起こしますと、その人物が「登場人物」として独自に動き出します。あるいは、独自な内面の動き方をします。
 それは必ずしも、「作者」に意識されているとは限りません。つまり、あきらかに具体的にいえば、「作者」が筆を動かしているから確かに書かれているわけですけど、「作者」はその「登場人物」がどういうふうに振るまうかまでは表面的に描いたかもしれないけど、そういうふうに振るまったときに「作者」が、「登場人物」がどう感じたか、どう内面で感じたかまでは、必ずしも意識して描いているとは限らないわけです。
 そこで、いったん「語り手」が自己限定として、作品の中に、あるいは、物語の中に登場しますと、問題が起きていて、そこで「作者」と「語り手」とは、べつであるという問題が出る。そして、今度は「登場人物」と「作者」とはまた別であると、つまり、「作者」がそう描いたから「登場人物」はそう行動したといえる面と、そのときに「登場人物」がその場面で感じたことは、書かれていないんだけど、「読者」にとっては非常に明瞭に、このとき「登場人物」はこういうふうに感じたに違いないなってことは、「読者」には明瞭であるっていうことがありえます。
 そのときに「読者」は、いい作品の場合には、このことを「登場人物」はこういうふうに感じているに違いないことがわかっているのは俺だけじゃないか、つまり、じぶんだけにこれはわかるんじゃないかっていう感じを伴います。これはいい作品、優れた作品に非常に特徴的なことです。つまり、優れた作品にはいつでもそういうことはあり得るってことなんです。
 それは「作者」が意識して描いたからそういうふうに感じられた、あるいは、言葉にそう描かれたからそう感じたかっていうと、そうではないんです。「作者」が無意識のうちに描いたとしても、なおかつ、その場面で「登場人物」がこういうことを感じたなとか、こういうふうに感じたに違いないなっていうことを「読者」には感じさせるものがあります。つまり、そういう問題が提起されてくるはずなんです。
 その問題が「作者」と「語り手」と、つまり、作中の中で物語を語っている「語り手」と、それから、「登場人物」とは、全部違うんだっていうこと、つまり、全部違うんだっていう問題が、文学作品における本格的な問題であるわけです。つまり、本格的な問題っていうのは、少なくとも、そこのところで始まって、それで大体において、現在でも、だいたいその問題で尽きると言っていいと思います。
(ここは大幅にカットしているので、原文を当たってください)


 4. 文学の本質から見た私小説−島村利正『佃島薄暮』


 続きます。


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