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<< 『三顧の礼』(3/4?) | main | 吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/? >>
『三顧の礼』(4/4)


 つづきです。


■『三顧の礼』(1/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196002


■『三顧の礼』(2/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196003


■『三顧の礼』(3/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196004




 前回までで概略をさらいました。
 その中で分かってきたのは、吉川英治は三国志演義を基本としながらも(すくなくとも演義に反することは書いてない)、そこに補足のようにオリジナルの解釈を付け加えていくというスタイルを取っているということでした。
 今回はその中から、わたしが意図的に除外して紹介してこなかった部分を、まとめて紹介します。これまで紹介をしてこなかったのは、あまりにも三国志の内容から外れすぎている(一言で言うと現代的な人物像すぎる)ため、これは三国志ではなく吉川英治の独自の解釈なのではと思ってしまったからです。
 ただこれは、その分、これが吉川英治が書きたかった部分ではないかと言うこともできます。
 わたし、自身書き手として、自分の書きたいことが物語の中心になるというのは、正直避けたいところだったします。登場人物たちの観測者として、こう言いたいんだよねと解釈するときはありますが、自分の意図として登場人物の気持ちを捻じ曲げることはしません。
 例を挙げるときりがないんですが、書くのに詰まったときに、こいつは何を言うのかなと待っていることがしばしばあります。あるときリニーが何を考えているのかわからなくなったときに、悶々とつまらない日常を送りながら、ふとその凍えきったこころが見えたときがあるのです。
 そこにいたのか・・・、という発見は衝撃だったりします。
 もちろん、そういう書き方以外はうそだとは思いません。
 でも、それを拾ってあげないと、それ以外は殺人になる、と思いました。
 ウタリとの会話を書いていたときも、こいつ何を言うのかな? と思っていたら、突然に、
「造りたい」
 と、はにかんで言い出した。それは一種の幻聴で、状況的には一切の開発がストップしていたシドの首都ラスペの中枢セントラルのことで、わたし自身は愕然としました。
 ウタリが言っているのはセントラルの再開発で、状況的にはザブンテ人たちが、高い高い避難先を探していたので、物語的には無視できない。それでリニーと教授を動かして、セントラル開拓時代なるものをでっち上げなければならなくなった。
 これはさして重要だと思っていなかった、ウタリという子がそう言ったから、なんです。

 そのどの位置に吉川英二と諸葛孔明が位置していたのかはわかりません。
 わからないと言うのが誠実だと思いますし、つまらないことは言いたくないのです。
 それぐらい、吉川英二が書く孔明は魅力的ですし、これを壊したくない。
 わたしは孔明の声が聞きたいですし、もっと正確に言えば、襄陽の軍師たちの気持ちを捻じ曲げたくない。なんて若々しくて、みずみずしい青春なんだろうと書くとたぶん意外に思うと思うのですが、それを紹介していきましょう。

 まずは、孔明に出会った劉備玄徳から。


 ■孔明を説得する玄徳

 先の、立春大吉(三顧目)のラスト、「孔明先生、どうか胸を開いて、本心を語ってくれ!!!」
 ババーン(効果音)
 のシーンです。
 だいぶ前から全引用してみましょう(著作権が切れているので、アマゾンで全文引用できる)。

 玄徳はまず彼の語韻の清々しさに気づいた。低からず、高からず、強からず、弱からず、一語一語に、何か香気のあるような響きがある。余韻がある。
 すがたは、坐していても、身長ことにすぐれて見え、身には水色の鶴?を着、頭には綸巾をいただき、その面は玉瑛のようだった。
 たとえていえば眉に江山の秀をあつめ、胸に天地の機を蔵し、ものいえば、風ゆらぎ、袖を払えば、薫々、花のうごくか、嫋々竹そよぐか、と疑われるばかりだった。
「いやいや。あなたをよく知る司馬徽や徐庶のことばに、豈、過りがありましょうか。先生、愚夫玄徳のため、まげてお教えを示して下さい」
「司馬徽や徐庶は、世の高士ですが、自分はまったく、ありのままな、一農夫でしかありません。何で、天下の政事など、談じられましょう。──将軍はおそらく玉を捨てて石を採るようなお間違いをなされている」
「石を玉と見せようとしてもだめなように、玉を石と仰せられても、信じる者はありません。いま、先生は経世の奇才、救民の天質を備えながら、深く身をかくし、若年におわしながら、早くも山林に隠操をお求めになるなどとは──失礼ながら、忠孝の道に背きましょう。玄徳は惜しまずにいられません」
「それは、どういうわけですか」
「国みだれ、民安からぬ日は、孔子でさえも民衆の中に立ちまじり、諸国を教化して歩いたではありませんか。今日は、孔子の時代よりも、もっと痛切な国患の秋です。ひとり廬にこもって、一身の安きを計っていていいでしょうか。──なるほど、こんな時代に、世の中へ出てゆけば、たちまち、俗衆と同視せられ、毀誉褒貶の口の端にかかって、身も名も汚されることは知れきっていますが──それをしも、忍んでするのが、真に国事に尽すということではありませんか。忠義も孝道も、山林幽谷のものではありますまい。──先生、どうか胸をひらいて、ご本心を語ってください」
 再拝、慇懃、態度は礼をきわめているが、玄徳の眼には、相手へつめ寄るような情熱と、吐いて怯まない信念の語気とをもっていた。
「…………」
 孔明は、細くふさいでいた睫毛を、こころもち開いて、静かな眸で、その人の容子を、ながめていた。

 引用以上ですが、青空文庫でも読めますし、講談社文庫版もそんなに高くはありません。これ以上は、原文をあたってください。


 ■徐庶の孔明評

 これは、三顧の礼に入る前の徐庶のことばです。
 

「隆中に、賢人ありとは、かつてまだ聞いていなかった。それは真実のことか」と、念を押した。
 徐庶は答えて、
「その人は、極めて、名利に超越し、交わる人たちも、限られていますから、彼の賢を知るものは、ごく少数しかないわけです。──それに、君には、新野の地にもまだ日浅く、周囲には荊州の武弁、都県の俗吏しか近づいていませんから、ご存じないのは当然です」
「その人と、ご辺との縁故は」
「年来の道友です」
「経綸済世の才、ご辺みずから、その人と比しては?」
「拙者ごときの類ではありません。──それを今日の人物と比較することは困難で、古人に求めれば、周の太公望、漢の張子房などなら、彼と比肩できるかもしれませぬ」
「ご辺と友人のあいだならば、願うてもないこと、旅途を一日のばして、玄徳のために、その人を新野へ伴うてはくれまいか」
「いけません」
 にべもなく、徐庶は、顔を横に振った。
「どうして、彼が、拙者の迎えぐらいで出て参るものですか。──君ご自身、彼の柴門をたたいて、親しくお召し遊ばさねばだめでしょう」
 聞くとなお、玄徳は喜色をたたえて云った。
「ねがわくば、その人の名を聞こう。──徐庶、もっとつまびらかに語り給え」
「その人の生地は瑯?陽都(山東省・泰山南方)と聞き及んでおります。漢の司隷校尉、諸葛豊が後胤で、父を諸葛珪といい、泰山の郡丞を勤めていたそうですが、早世されたので、叔父の諸葛玄にしたがって、兄弟らみなこの地方に移住し、後、一弟と共に、隆中に草廬をむすび、時に耕し、時に書をひらき、好んで梁父の詩をよく吟じます。家のあるところ、一つの岡をなしているので里人これを臥龍岡とよび、またその人をさして臥龍先生とも称しています。──すなわち、諸葛亮字は孔明。まず当代の大才といっては、拙者の知る限りにおいて、彼をおいては、ほかに人はありません」
「……ああ。いま思い出した」
 玄徳は肚の底から長息を吐いて、さらにこう訊ねた。
「それで思い当ることがある。いつか司馬徽の山荘に一夜を送った時、司馬徽のいうには、いま伏龍鳳雛、二人のうちその一人を得れば、天下を定めるに足らんと。──で、自分が幾度か、その名を訊ねてみたが、ただ好々とばかり答えられて、明かされなかった。──もしや、諸葛孔明とはその人ではあるまいか」
「そうです。伏龍、それがすなわち孔明のことです」

 これは恐ろしく文章がうまいんですが、わたしが文章重ねると、文章が穢れていきます。この問題が常に付きまとうので、補足が恐ろしくしにくい。
 なんて、美しい文章なんでしょうか。
 

 ■孔明の幼少時代

 もう補足なしを許してほしいのですが。

 まだ十三、四歳でしかない孔明の眼にも、このあわれな流離の群れ、飢民の群れの生活が、ふかく少年の清純なたましいに、
(──あわれな人々)として烙きついていたにちがいない。
(どうして、人間の群れは、こんなにみじめなのか。苦しむために生れたのか。……もっと、生を楽しめないのか)
 そんなことも考えたであろう。
 いや、もう十三、四歳といえば、史書、経書も読んでいたであろうから、
(こんなはずではない。この世の中のうえに、ひとりの偉人が出れば、この無数の民は、こんなおどおどした眼や、痩せこけた顔を持たないでもいいのだ。──天に日月があるように、人の中にも日月がなければならないのに、そういう大きな人があらわれないから、小人同士が、人間の悪い性質ばかり出しあって、世の中を混乱させているのだ。──かわいそうなのは、何も知らないで果てなく大陸をうろうろしている何億という百姓だ)
 と、いう程度の考えは、もう少年孔明の胸に、人知れず醗酵していたにちがいない。


 ■学僕になった孔明と、去った理由

 「学僕にして下さい」と、訪れたのは、彼が十七の頃だった。
 石韜は翌年、近国へ遊学にあるいた。その時、師に従って行った弟子のなかに、白面十八の孔明があり、一剣天下を治むの概をもつ徐庶があり、また温厚篤学な孟建がいた。
 だから孟建や徐庶は、孔明より年もずっと上だし、学問の上でも先輩であったが、ふたりとも決して、孔明をあなどらなかった。
「あれは将来、ひとかどになる秀才だ」
 と、早くも属目していたのである。ところがそれは二人の大きな認識不足だった。
 なぜならば、その後の孔明というものは、ひとかどどころではなかった。石韜をめぐる多くの学徒の中にあって、断然群を抜いていたし、その人物も、年とるほど、天質をあらわして、いわゆる世間なみの秀才などとは、まったく型がちがっていた。
 だが彼は、二十歳を出るか出ないうちに、もう学府を去っていた。学問のためにのみ学問する学徒の無能や、論議のために論議のみして日を暮している曲学阿世の仲間から逃げたのである。
 では、それからの彼は、どうしていたかというと、襄陽の西郊にかくれて、弟の均と共に、半農半学者的な生活に入ってしまったのだった。
 晴耕雨読──その文字どおりに。
「いやに、老成ぶったやつではないか」
「いまから隠棲生活を気どるなんて」
「彼は、形式主義者だ」


 ■孟建をさとす孔明

 隆中の彼の住居へ、或る日、友人の孟建が、ぶらりと訪ねてきて云った。
「近日、故郷へ帰ろうと思う。きょうはお別れにやって来た」
 孔明は、そういう先輩の面を、しばらく無言で見まもっていたが、
「なぜ帰るのです?」と、さも不審そうに訊いた。
「なぜということもないが、襄陽はあまりに平和すぎて、名門名族の士が、学問に遊んだり政治批評を楽しんで生活しておるにはいいかも知れんが、われわれ書生には適さない所だ。そのせいか、近頃しきりと故郷の汝南が恋しくなった。退屈病を癒しに帰ろうと思うのさ」
 聞くと、孔明は、静かに顔を横に振って、
「こんな短い人生を、まだ半途も歩まないうちに、君はもう退屈しているのか。襄陽は平和すぎるといわれるが、いったいこの無事が百年も続くと思っているのかしら? ──ことに、君の郷里たる中国(北支)こそ、旧来の門閥は多いし、官吏士大夫の候補者はうようよしているから、何の背景もない新人を容れる余地は少ない。むしろ南方の新天地に悠々時を待つべきではないかな」
 と、いって止めた。
 孟建は孔明よりも年上だし、学問の先輩でもあったが大いに啓蒙されて、
「いや、思い止まろう。なるほど君のいう通りだ。人間はすぐ眼前の状態だけにとらわれるからいかんな。──閑に居て動を観、無事に居て変に備えるのは難かしいね」と、述懐して帰った。
 孟建などが噂するせいか、襄陽の名士のあいだには、いつか、孔明の存在とその人物は、無言のうちに認められていた。


 ■孔明の野望

 彼をめぐる道友たちは、各、時局を談じ、将来の志を語りあっていた。
 孔明は、微笑しながら、黙々とそれを聞いていたが、
「そうだ、君がたが、こぞって官界へ出て行けば、きっと刺史(州の知事)か郡守(郡の長官、即ち太守)ぐらいには登れるだろう」と、いった。
 友の一名が、すぐ反問した。
「じゃあ、君は。──君はどんなところまでなれるつもりか」
「僕か」
 笑而不答──孔明はにやにやしていたきりであった。
 彼の志は、そんな所にあるのではなかった。官吏、学者、栄達の門、みな彼の志を入れるにはせまかった。
 春秋の宰相管仲、戦国の名将軍楽毅、こうふたりを心に併せ持って、ひそかに、
(わが文武の才幹は、まさにこの二人に比すべし)
 と、独り矜持を高くもっていたのである。
 楽毅は春秋戦国の世に、燕の昭王をたすけて、五国の兵馬を指揮し、斉の七十余城を陥したという武人。──また管仲は、斉の桓公を輔佐して、富国強兵政策をとり、春秋列国のなかに、ついに覇を称えしめて、その主君桓公から、一にも仲父(管仲の称)二にも仲父とたのまれたほどな大政治家である。
 いまは、時あたかも、春秋戦国の頃にも劣らぬ乱世ではないか。
 若い孔明は、そう観ている。
 管仲、楽毅、いま何処にありや! と。
 また彼は想う。
「自分をおいてはない。不敏といえども、それに比すものは自分以外の誰がいよう」
 不断の修養を怠らなかった。 世を愛するために、身を愛した。世を思うために、自分を励ました。
 口にこそ出さないが、膝を抱えて、黙然、うそぶいている若い孔明の眸にはそういう気概が、ひそんでいた。
 時にまた、彼は、家の裏の楽山へ登って行って、渺々際涯なき大陸を終日ながめていた。
 すでに、兄の瑾は呉に仕え、その呉主孫権の勢いは、南方に赫々たるものがある。
 北雲の天は、相かわらず晦い。袁紹は死し、曹操の威は震雷している。──が、果たして、旧土の亡民は、心からその威に服しているかどうか。
 益州──巴蜀の奥地は、なおまだ颱風の圏外にあるかのごとく、茫々の密雲にとざされているが、長江の水は、そこから流れてくるものである。
 水源、いつまで、無事でいよう。かならずや、群魚の銀鱗が、そこへさかのぼる日の近いことは、分りきっている。
「ああ、こう観ていると、自分のいる位置は、まさに呉、蜀、魏の三つに分れた地線の交叉している真ん中にいる。荊州はまさに大陸の中央である……が、ここにいま誰が時代の中枢をつかんでいるか。劉表はすでに、次代の人物ではないし、学林官海、ともに大器と見ゆるひともない。……突としてここに宇宙からおり立つ神人はないか。忽として、地から湧いて立つ英傑はないか」
 やがて、日が暮れると、若い孔明は、梁父の歌を微吟しながら、わが家の灯を見ながら山をおりて行く──。
 歳月のながれは早い。いつか建安十二年、孔明は二十七歳となっていた。
 劉備玄徳が、徐庶から彼のうわさを聞いて、その草廬を訪う日を心がけていたのは、実に、この年の秋もはや暮れなんとしている頃であったのである。


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