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本家はこちら。
http://plaza.rakuten.co.jp/hikali/
 『死神の帰還』リリース!

 こんばんわ。管理人のhikaliです。
 えっと、某所でほそぼそと更新していたのですが、小説『死神の帰還』が完成しましたのでお知らせします!

 管理人自体がかなりふらふらなので、詳細は別に書いたあとがきを引用する形で割愛しますが、これまでゲームブックシリーズで書いてきた世界観の、本編とでも言うべき作品群の第一弾! ボルニア戦役の指揮官となる死神リニーの物語です。
 原稿用紙300枚近く、管理人初の完成させることが出来た長編、になります。

 興味がありましたら、ぜひご覧くださいませ。

 ■死神の帰還 - hikali | ブクログのパブー
 http://p.booklog.jp/book/20474


 あとがき

 最強にして、最大級の蛮族に、最強の文明国は勝てるのか。
 モンゴル帝国に滅ぼされた金にルネサンスが起こっていたら?
 オスマン・トルコにより陥落したコンスタンチノープルに蒸気機関が普及していたら?
 そんな途方もない疑問が浮かんだのが10数年前。あまりにも面白そうでわくわくしてしまい、こつこつと設定を積み上げて、ようやく書き始めたのが1年前。自分で書いていても、気の遠くなるような旅路を経て、ラストシーンにたどり着きました。
 野バラの諸侯シリーズ、第1話。諸侯たちの中核人物のひとりであるリニーの、シドへの帰還を描いた死神の帰還、完成をお知らせできます。
 楽しめていただけたのであれば、幸いです。

 本シリーズは、いろいろ迷ったあげく、野バラの諸侯シリーズと名付けています。
 この架空歴史小説に相応しいのは、主人公の活躍ではなく、そこに生き歴史を動かした群像の姿であるべきと思ったからです。
 スティーブ・ジョブス物語ではなく、シリコンバレー物語であって欲しい。
 ビル・ゲイツも書きたいし、サーゲイとラリーも書きたいし、ルイス・ガースナーも書きたいし、リーナス・トーバルズも書きたい。
 そんなよくばりを満たすには、各話ごとに主人公が変わる形式がふさわしい。
 これまでに類例がまったくないと思われる形式ですが、そんな形式で書いていきたいと思います。
 誰が主役というわけではなく、誰もが主役の歴史群像劇。
 ようやっと始まったばかりです。
 その第一弾は、野バラの諸侯随一の切れ者、死神リニー。
 リニーは、あらっぽい操縦で繰り広げられる空中戦を駆け抜ける最新鋭のジェット戦闘機のような趣ですが、大丈夫だったでしょうか(^_^; わたしは電子書籍端末のソニーReaderで校正をしているのですが、一気に読んだときには、あまりの暴れ馬ぶりにめまいがしそうになりましたw
 さすがにリニー以上の暴れ馬は予定していないのですが、いきなり戦闘力最強のリニーだったんだけれども、ついてこれたんだろうか・・・、と心配になります。もしかして、読んでくださる方をイキナリF35の助手席に座らせたのではないか、本人がめまいを起こしているぐらいなので、怖くなります。
 次作はたぶん、ボルニア王になる予定の次王と、それによるエスト陥落を描いた『鉄鎖の次王の恋』(タイトルは仮)になる予定なのですが、こちらはそんなにさすがに跳ね馬運転ではないと思います。その次がようやっと、本編の主役格である、銃と火薬の天才の少年の物語になり、安定運転にはなるかと思うのですが、だいぶ先の話になりそうです(^_^;

 さて、このシリーズには実はたくさんのサブストーリーがあります。
 といいますのも、わたしが設定を詰めるときに、サブストーリーを書くことによって設定を詰めていくというスタイルをとっているからでして、これまでに結構な数を書いています。
 それらは、小説ではなく、ゲームブックという形になって公開されているのですが、もしご興味がありましたら、こちらもご覧いただければと思います。

 野バラの諸侯の中でもリニーと双璧となるウォークが主人公のゲームブック、『辺境の祭り』『幽霊船(未完)』。
 キュディスと並び北方二強と称されるトランの浮遊船乗りたちを描いた『ジャングルの要塞』『ミリーの天気予報』。

 これらはこちらのサイトにアップされていますの、ぜひぜひご覧くださいませ。
 http://story-fact.com/

 実のところ、このリニーのキュディスでの冒険譚もゲームブックとして書き上げようとして失敗し、おお、じゃあこの物語をベースにして小説を書いてみようと思ったのが、この死神の帰還だったりするのです。思わぬ形で、野バラの諸侯シリーズの第一作となりました。

 以上。長くなりましたが、感想など頂けましたら、喜びで打ち震えますので、頂けましたら嬉しいです。原稿用紙300枚近い長編にお付き合い頂きまして、ありがとうございました。
 書き上げるのに、一年もかかってしまった(^_^;

| 文章力修行中 | 22:54 | comments(0) | trackbacks(0) |
『死神の帰還』〈前編〉

 『死神の帰還』

 最後の一語を読み上げたとたんに娘が泣き崩れたのは、その結末が兄の死を書いていたからだった。傍らに控える通訳に署名を求め、わたしの報告書が適式の書類になっていくのをぼんやりと眺めるうちに、羊皮紙の上を通訳のきれいな署名が走り、閉じられ、渡される。
「そのキュディス人の署名も、必要になります」
 ああ、と立ち上がると、長いこと異国の言葉で読み続けた喉の痛みに気付く。
 分厚い報告書を抱え、豪奢を尽くした悪趣味な執務室を横切りながら、船上での仕事はこれで終わりだと急に気がゆるんでよろめきそうになる。船の揺れが少なくなったのは内港に入ったからであり、それで醜態をさらすことにならなかったのであるが、それはわたしが法で裁かれるときが近づいていることを意味した。
 堅い樫の椅子に座り、泣きじゃくる娘の前に報告書を置く。
「署名が必要だ。これが真実であるならば署名を」
「ですが、これは兄の不名誉です」
 緊張を解かれて感情を振りまくそのうつくしい娘を見つめ、諦めたように呟く。
「ならばいい。事実はなかったと逃げ回るといい。しかし、これは不名誉ではなく、お前の兄は戦いに敗れただけで、堂々と戦ったと書いてある。逃げ回るということは自らがやましいということを認めることだ。自らにやましさがないと分かるなら、逃げ回らずに現実と戦え」
 はたかれたような表情で娘は視線を上げ、わたしの視線を受けると、震える手でペンを手に取る。どっと疲れが出たような気がして、娘の向かいに座る。北方の大国キュディスでの顛末はこれで終結したはずで、報告書が適式であろうがなかろうが、それが発禁処分となることはわかりきっていた。
 木製の、奴隷用のカップを握り、生ぬるい水を飲む。
 ひからびたような喉をしめらせ、息をつく。
 窓の外の海鳥の声に気づき、次の戦場がやってきたことを確かめる。
(この女はなにと戦っているのだろうか)
 そう想起したときに、自分が抱え込む膨大な戦いの全貌が見えた気がして、吐き気がし、手の中のカップを掴んでいるのが困難になる。まずは法廷、そこから海洋の覇権国家シドの闇はどれだけ深いのだろうと、その先を読むことはできそうになく、ラスペに潜む闇の商人たちとそのネットワーク、シドの成り立ち、この国家がどのように維持されているか、そして犠牲になっているものたちの嘆き、もし全貌が明らかになったときにシドの最高権力者たちはどのような処断をするか、と途方もない広がりが目の前に広がる。
 娘が、必死の表情で署名するを眺める。
 きれいな指が、わたしの分厚い報告書に署名していく。
 数秒の時間のはずだったが、永遠に思えた。
 そう軽口をたたいてもいいほど、あっけない膨大だった。
 報告書を受け取り、よくがんばったなと言葉をかける。それからなだめる。わたしはもう一度、豪奢な執務室を横切り、その椅子に座って、通訳という名目のシド貴族に話しかける。
「これで終わりだ。さすがに疲れた」
「そ、そうでしょうか? 読んだ限りは」
 わたしは、シッと指を立て、言葉を止める。
「舞台に立つ勇気があるなら立つがいい。わたしは止めない。だけどあんたにはその義務はない。これはわたしの問題だ。それとも戦いたいか? 世界と?」
「いえ」
 くちびるを噛みしめる青年を頼もしくみる。
「あんたは仲間だ。同じものをみている。だけど、危険は侵すな。いつでも門は開いている。焦る必要はない。頼りにしている」
 愕然とする青年に微笑みかける。
「しかし、ガスコイン卿。あなたはたったひとりで」
「リニーだ。キュディスでもひとりだったとは思ったことはない。いま仲間ができた。だからいまもひとりじゃない」
 肩をたたく。
 船内の誰もがわたしを怖れているのは分かっていた。
 32名の水夫たちも、仕える数名の北方蛮族たちも、この青年も、わたしという存在は心をわしづかみにする存在であるようで、それはキュディスでの顛末がわたしというたったひとりの小娘を特別な存在に仕立て上げているようだった。
(借財の形にしては、いい仕事だったか)
 乗っ取った奴隷船が唯一の戦利品で、その忠誠は生命を維持する方便にすぎないのではあるが、いまは、少なくともラスペに上陸するまでは手放すことができない安全であるのだ。
 もう寄港が近いのに旅装を解かないのはそのためであるし、冷たい声も、貴族然とした態度も、軽蔑したようなまなざしも、厳しい言葉も、すべては船をわたしの支配下に置いておくためであることは否定しない。
 100人の奴隷を収容可能な船を、マードックの元部下たちが占拠することの方が正当性があるし、無気力な水夫たちが結託すれば、それは容易なはずだった。
「御客人」
 執務室に水夫長が現れる。わたしは、冷たい声で話す。
「なんだ」
「接岸の許可が下りました、その」
 水夫長の怯えた瞳を、深くみつめる。
 毅然と立ち上がり、帯剣したまま、その横を通り抜ける。
「罰を受けるのはわたしだ。お前たちにはなんの罪もない。それとも、このような船の水夫をしていることを恥じているのか? ならば恥じろ」
 振り返ると、縮み込んだ老水夫の姿があるのみで、それに感慨は浮かばない。
 わたしにはまだ彼の地での戦の音が耳鳴りのように残っていたし、フードを払えばこびりついた粉雪が舞うような気がした。それでも、甲板で見上げた太陽は南国のまぶしさで、ねっとりと肌にまとわりつく海風は故郷を感じさせた。
(戻ったか、ラスペへ)
 大洋の覇権国家シドの首都ラスペの街並みを海から眺め、フードを脱ぎ、髪がなびくままにして、ふと浮かんだのは、庭には野バラが欲しいというささやかで陳腐なことだった。財産を売り払って山村に住み、葡萄酒とチーズを作って静かに暮らす。そのとき、庭に野バラがあるといい。書物はどうするのか。それなら神殿を頼って修道女のような日々の方がよいだろうか? しかし、その神殿に野バラを植えることは許されるのだろうか?
 そんな他愛もない空想をし、それよりいまは暖かい暖炉の火にあたりたいと願う。
 キュディスでの自由交易都市アドレルを巡る争いは心を凍てつかせるには充分で、その苛烈な結末に対する罰をシドはわたしに受けさせることは自明だった。
(だれか、野バラの庭を欲しいと思ってくれる人が現れるのだろうか)
 戦場は目の前にある。
 接岸の準備が整うのを、ぼうと眺める。

 練習中。
 リニーの帰還は書くつもりがなかったので、よい練習でよい。
 
| 文章力修行中 | 01:20 | comments(0) | trackbacks(0) | 昨年の記事
大掃除雑感
 わたしが生活をしていて一番あわてるのは本棚がいっぱいになったときで、買ってきた本を整理するスペースがないことに気付いて、ぞっとするというよりは、思考停止になる。それから思い出したように本棚の整理をするわけで、今年はそれが年末にやってきたから、大掃除は本棚の本の大整理が中心で、いろいろな収納スペースの無駄を洗い出した。
 家に何台もある掃除機のひとつを掴んでほこりを吸い込みながら、ゴミ袋に雑多なものをつっこんでいく。いらないものがこんなにあったら本を入れるスペースなんてなくなってしまうよなと思ってしまうほどにゴミが出て、新しくできたスペースに本を整理していく。
 それが先ほど、不要な本を古い技術書を中心に15冊ほど売り払って完了し、合計120円になった本たちを思い出しながら、ほんとうに不要だったのだねぇとあきれかえって、今年の大掃除は終わった。
 それで、がらっと並ぶ背表紙がかわった本棚を眺めつつ、新しい年がやってくる準備ができたなどと、のんきにコカコーラを飲みながら、これを書いている。大掃除はいろいろな過去のイブツに対面してあれこれと考えてしまうふしぎな機会だ。

 今年の大掃除の一番の収穫は、引っ越し以来がらくたが詰め込まれて、まったく機能していなかったいくつかの収納を整理したことで、ゴミ袋片手に、本をしまうスペース欲しさに過去を整理する。
 中からは2004年の手帳などが出てきて、殴り書きであれこれと書き散らされているのを読みふける。
 はじめは、うわー、みっともないなどと、その文字の汚さと内容を同一視してびっくりしていたのだが丹念に読むと、いまよりずっとまっすぐで直裁的で現実的で真剣に生きている自分がいて、その迫力に押される。まるで矢のようだな、当時の仕事場の人は突き刺さりそうで怖かったのではないか、などなど、ぼんやり思う。
 ジンギスカンの、たしか井上靖の蒼き狼だったと思うのだけど、あるウイグル人がジンギスカンに仕えるシーンを思い出しながら、ジェベだなこれは、などと思う。ジェベはジンギスカンを暗殺しようとして、その矢が刺さるのだけど結局捕まり、それで、お前はこの鏃のようだからお前はジェベ(矢の意味)だなどといわれて仕えるのだが、その後、司令官に成長してロシアの方だったかに攻め込むジェベの軍勢をジンギスカンは、まさに名の通り矢のように進撃するなど述懐する。それで矢のようなまっすぐな人を見るたびに、ジェベだなこれは、と思うのだが、自分がそうだったと思うとふしぎな気がする。当時はあんまり生活をしっかりしないで、仕事に真剣だったからそう思うのか。
 そんな過去のわたしを見ながら、昼飯休憩中に新聞を読むと世界中が動いているように見えてきて、新聞記事に並ぶ世の中の動きが自分の手によってなされたものではないことに、焦りを感じてしまう。当時は新聞に大きく載ったこともあったし、そうやって自分で世界を切り開いていたのだねぇとか、近いようで遠いようで、近いのか遠いのかはよく分からない。
 いま思うと、いい仕事だったのかも知れないとか。
 辞めてよかったとも思うのだけど。

 幾つかのなくなったと思っていた本が出てきて、嬉しくなる。とくに配色基礎講座というけっこう有名なデザイン関係の本があって、これがずっと行方不明だったのだ。
 ぱらぱらとめくってみると、コントラストの制御の仕方といったような直接的な内容が鮮やかなカラー写真の実例とともに短い文章で説明されていて、いとも簡単に書いてあるのだけど、いい例とわるい例の差が、デザインをしていてそれなりの経験のあるわたしの目から見てもけっこう高度な微差で、ものすごく高い精度の話をしていたのだなあと感心し、そこまで考えて仕事してたかなと振り返ると、自分がぜんぜんマスターしていないことに気付いて、あいたたたという心地になる。
 よく若いデザインなどに、配色ってどうするんですかといわれると、わたしはこの本を渡して7日でマスターして、などと突きつけていたのだが、たいていの人はマスターするどころか、怒る。なぜ教えてくれないのか、と。もちろん理由はわたしが言うことなど、この本の範疇を超えることがないからで、わたしは自分の師匠を直接紹介している格好になるのであるが、それでもそれを手に取り読み始める人は限られている。わたしは、とりあえずこの本を読んでねと、デザインのはじめの頃に紹介されたときには、その日の帰りの足で本屋に直行して購入したものなのだが、なぜ自分ができることが増える機会を見過ごすのか、ふしぎである。
 デザインであり、それを武器にして、あれこれいろいろと関わり、いろいろ動かしていただけに、配色などはそのもっとも直接的な行使手段な訳で、そんな手段が増えることで相手と交渉するときにうまくまとめやすくなったりする。デザイン時代のわたしは、そういう即物的な実力行使に有用な武器ばっかりを探して、収拾して、習得していったわけで、ゲームのキャラクターのようにあれこれとアイテムを握りしめて、会社を渡り歩いてような気がしてくる。
 銃弾は使ってしまえばなくなってしまうけれど、銃弾の作り方は一生有効で、それがたった7日でマスターできるのなら、やっぱり覚えちゃうよねぇ、ふつう、とか思ったり。しかし、そうやって振り返ると、やっぱり自分はデザインが好きなわけではなくて、それが武器になるから使っていたというだけなのだなぁと、思ったり。

 手元の収納スペースに修行用の書籍を詰め込んで悦にいる。これで大量の本の置き場に困ることもないし、必要となればさっとその本を取り出すことができる。なんでやらなかったのだろうと、怠惰な自分を省みて、ちょっとブルーになる。
 この年末は、文体の大改造中で、シンプルで跳ねるような短文中心の文体から、長文も使って揺さぶっていくような文体に変えていこうとしている。昔の文体はらくちんで文字面の見栄えがよかったのだけど、あんがいその文体では書けることが少ないことに気付いたというのが、一念発起したきっかけで、直木賞作家の文体とかじっくりみながら、どうやってるんだろうと、あれこれ見よう見まねで試している。
 試してみると、昔の文章は小手先の文章だったなと思えてくる。
 小手先といっても指先で書いていると言うことではなく、高校生のフォームのきれいなピッチャーが小綺麗にまとめたピッチングをするのだけど、あんまり魅力がない、それって小手先で投げてるよね、というそういう感じでまるでピッチングマシンみたい、そうじゃなくて、ハンマー投げのようにぐらんぐらんとハンマーを振り回して、遠心力をつけていくようなそういう全身で投げる投げ方、それを出来るようになりたい。
 そういう投げ方をする作家を見つけて、どうやって投げているんだろうと、細かく読んでいく。。
 足の踏み出し方は? 背筋の使い方は? ハンマーの弾道はどうやっているの? あんなにおもいっきり振り回してどうやってコントロールするんだろう? 
 分からなかったらとりあえずハンマーを振り回す。
 そうすると細かいところでけっこう高度なことをやっているのが分かったり、昔の自分は改行に逃げていたねぇと思ったり、文面がきれいな文体と、内容がきれいな文体は違うのだと分かったり。
 たとえば江國香織などは文面がきれいな文体。
 もちろん内容もきれいな文体。
 その辺の美学はすごいし、このレベルになるとどの方向性を取るのかは、善し悪しが決まるものではないけれど、江國香織は分かりやすい代表格で、ダントツに文章がきれいなので挙げているのだが、ぐちゃぐちゃなところへ攻め込みにくいのではないか、と言う気がしないでもない。
 というかわたしにはその武器で攻め込める自信がまったくない。
 だからピッチャーからハンマー投げに武器の使いかたを変えてみるのだけど、野球部から陸上部に転部して、いきなりハンマーが投げれるかといわれれば、もちろん上手くできるわけなくて、うんうんうなりながら、この年末を過ごしている。

 行き詰まると逃避するのが、シヴィライゼーション4というPCゲーム。
 Civ廃人という言葉があるほどのやり始めるとはまるゲームで、正月にぽっかり時間が空いたときにやる用の正月ゲームとして買った。
 わたしはこのゲームを作ったシド・マイヤーというゲームデザイナーがとても好きで、わたしがもう10年近くにわたってはまりつつけているレールロードタイクーン2というゲームを作ったのもこのシド・マイヤー。なので外れるはずがないと絶対の自信を持って買ったのであるが、ちょっとはまっている自分がいて、うわ、廃人一直線だなどと思いながら、あれこれ苦心する。
 このゲームは、文明を築き上げながら、ライバルたちと戦争したり、文化物を競い合ったりするゲームで、対人のマルチプレイがこのゲームのプレイヤー層の中心にある。
 ただ、その対人プレイをしている人たちはとても高度なレベルの人たちで、わたしはそんなレベルまでまったく達せず、コンピュータの、かなり低いレベルでもうんうんいいながら、あれこれ試行錯誤している。
 わたしが選ぶ文明はイギリスで、イギリス赤服兵という強力なユニットの出現まで粘りつつ、ルネサンス期にそこに達すると大量のイギリス赤服兵で、周辺他国を蹂躙するという、シヴィライゼーション4の中ではかなり正当派とされる、いわゆるライフルラッシュ戦法をなんとか上手くできるようにしたいのだけど、もっと低いレベルで四苦八苦している。
 ひょっとしてイギリスって弱いのかな? と自分が上手くやれないのを棚に上げて思うのだが、わたしは好きな作家のディック・フランシスの影響で、あとイギリス文学がけっこう好きなので、大のイギリス好きだったりするのである。冒険小説の著名作家という、ほとんどがイギリス人だったりするわけで、なんでイギリス人はそんなに冒険小説書くの好きなんだろうとふしぎに思うぐらいで、わたしが尊敬する作家というとかなりの割合でイギリス人なのである。
 それで律儀にイギリスを選んでいるのだが、うわー、完全な立地のヨークが蛮族に滅ぼされて、うわー、ヨークを返せ! などとやっているので、きっと圧倒的にやり方が下手なんだろうと思ってしまう。
 それで行き詰まると、文章を書き始める。
 なにか、一歩も進んでいない感じがする年末である。

 2004年の手帳にインターネットについて触れている部分が殴り書きで残っている。
 そこでは、雑誌を一冊作ると素材ファイルがDVD一枚ぐらいになり、それをバイク便で配送している、4.7Gものデータをインターネットでは流せないからで、これが動画編集とかになるとどうなるのだろう、うんぬんと書いている。
 実際のところ、現在誰もがネット上でみているデータはテキストを除けば不可逆的な圧縮済みのデータで、実際の仕事用のファイルとなると、この何十倍ものファイル容量になる。たとえば非圧縮のAVIファイルなどを取り扱うと、15秒のデータでもCD-ROM1枚とかになってしまう。
 こういったデータをほんとうにやりとりできるようになってはじめてインターネットのシナジー的な価値が出てくるわけで、それは社内LANが全世界に張り巡らされるようなもので、クリエイティブの現場で100Mbpsの社内LANなんて遅すぎるし、SATAぐらいの速度にならないと話にならないとのこと。
 いわく、htmlはほんとうのインターネットではないと。

 なんて直裁的でまっすぐで現実的で真剣なんだろうと、ジェベだこれは、と思ってしまった年末である。
| 文章力修行中 | 16:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
 自動車恐怖症
 高校生の頃、交通事故に遭った。自転車で田舎道を走っている最中、資材置き場のある十字路の、影から走ってきたセダンにはねられた。
 子供らしい空想にドラゴンボールのようにとっさの機転でそれを察知し、軽業のようにそのボンネットに手をつき、かろやかに着地するなんかよくあるのだが、それがまったくの空想であることを思い知るには、時速40キロで走る車重1トンの鉄の塊との衝突があるだけでいい。
 あっと思うまもなくぼくはアスファルトに叩き付けられた。
 ぼんやりとする意識の中で立ち上がり、周囲の人が集まってくるのを眺める。サイレンがして、あーあ、大げさになっちゃったよ、まったくもう、と思ったのが最後の記憶で、次に気付いたのは、背中じゅうに刺さったガラスを抜く手術室だった。当然ながら全裸にされており、それが恥ずかしかったのを覚えている。

 その日はどうやって眠ったのか記憶があいまいで、たくさんの夢を見たような気がする。
 目ざめて、その夢たちがはたして現実なのか夢なのか思い出せず、どれが事実なのかまったく分からない。診察室で医者と話し、医者の質問にぼんやりとして答える。
「たしか、買い物の帰り道で」
(え? ほんとうに買い物なんかしたのか?)
 それが分からなくなる。
 たとえていうなら、ぼくの頭の中にあるすべてのイメージにつけられていた「夢」「現実」「空想」のタグが全部とれてしまって、どれがどれなのかまったく判別がつかないような感覚。それを正直に話すと、医者はことなげに言う。
「ショック性の記憶喪失です。よくあることですよ」
 なおも思い出そうとするぼくと、医者はああよかった安心といった風情で話し、ぼくは思い出せないというふしぎと首を傾げながら格闘していた。
 いま思うと、その医者の頭にはそれよりも恐ろしい事態が想定されていて、その心配がなくなって、頭をアスファルトに叩き付けたにしてはたいした症状しか出ていないことに安堵したのだろうと思う。
 ぼくは、診察室のカレンダーを見てぼんやりという。
「あれ、いまもしかして8月ですか? もしかして8月23日ですか?」
「ええ、まあ」
 医者はそれで異常なしの判をおそらく押した。
「もういいですよ。むち打ちしてますから、なにか残るかも知れません。首のコルセットを痛くなくても、しばらくしていてください」
 記憶のタグはすぐに整理され、ほんとうは怖いはずのむち打ちもなんの後遺症も残らずに一ヶ月ほどで完治した。

 ほどなく警察に呼ばれて、事故の状況を説明される。
 何枚かの現場検証の写真を示されて、セダンの運転者との話し合いがセットされる。だいたいの状況は分かっていたので、運転者に故意や過失がないことは明らかで、特に運転者を責める気にもならなかったし、たしかにもう少し同情的な態度を取って欲しいとは思ったのではあるが、逆にふしぎな体験が出来たな、ぐらいの心持ちでいた。
 治療費と自転車の弁償できれいさっぱりの終わり。
 車会社に勤めているので、事故として処理しないで欲しい、というわけで示談成立。
 判子を押して、早々に運転者は退散する。
 ぼくは警察に残り、どのような状況だったのかを説明される。
 どうもぼくは、自転車の横からぶつけられ、そのままフロントガラスに衝突、それがクッションになって、セダンの上を転がり、そのまま後ろに落ちたらしい。
「運がよかったんですよ」
「はい?」
 警察官がフロントガラスの写真を見せる。
「ほら、衝突したところが人型になっています。分かりますか? ここが頭です」
 判別しにくい写真を見せられる。
「はあ」
「もしこの頭が、鉄の支柱に当たってたら、死んでいたかも知れません。柔らかいフロントガラスに当たったから助かったのです」
 なるほどと頷く。
「5センチでした」

 それからというもの、自動車というのは時速40キロで走る車重1トンの鉄の塊のようにしか見えなくなり、なにかの間違いがあれば、死に至ることもあるのだ、ということが身体に染みついた。
 それは一種の幻想を剥ぎ落とされたようなもので、歩道を歩いていても、車道を走る車に怯えるようになった。
 車自体を憎むわけでも、嫌うわけでもない。
 ただ単に、どんなにかわいらしいデザインをしていても、それが時速40キロで走る車重1トンの鉄の塊だということが現実として感じられ、それがなにかの間違いがあれば人の生命を奪うのだということを肌身で感じてしまうようになった、ということにすぎない。
 それは車に限らす、ホームに入ってくる電車でも同じで、事故に遭ってからは、よくまあ、あんなにも高速で走る鉄の塊の側に立っていられるものだと、内心思ってしまうのである。
 ぼくだけが、その自動車というものの一種の暴力性に気付き、他の人はそれに気付かない。もちろん、ぼくは自動車が問題だと言っているのではないし、なにか改善をして欲しいと言っている訳でもない。車社会が悪だとも思わない。
 もしなにか改善が提案できるとすれば、たとえばブレーキとアクセルを踏み間違えて人が圧死するというような事故をニュースで見て、急アクセルを踏むという状況はほとんど想定できないのだから、急にアクセルが踏み込まれたときは、それは異常行動として検知し、クラッチが外れるようにするとか、車側の安全機構に対する注文ぐらいだ。
 ただ単に、怖いだけなのだ。

 事故に遭ってから数年は、一種の生理的反応として恐怖を感じていたが、今となっては事実として怖いというぐらいでしかない。
 当時は、RV車のことをロードバイオレンス車だと揶揄ってみたり、危ない運転をする車に激怒をしたり、交差点を怖がったりしたものだが、いまではたまに親の運転がすこし荒くなったときにぞっとするぐらいで、これといって支障を感じることはない。
 高校の先生は、車を運転する側は鉄の鎧を着て歩行者に接しているんだから、すべての安全責任は運転する側にある、と言ってくれたし、ぼくが車に対するアレルギーに近い反応をしても、おかしがる友人はまったく皆無だった。それはおそらく高校には自動車を日常的に運転する人がなかったせいだろうとは思うのだが、やはりぼくの恐怖症に対して、全員が味方であったと言うことは大きかった気がする。
 そうやってだんだんに緩和していくにはきっかけがあって、それはホンダの工場に見学に行ったときの事だった。
 技術者に質問をしてくださいと言うことだったので、ぼくは質問をした。
 ぼくは、自動車にはねられたことがある。それ以来自動車が怖い。ホンダさんは、歩行者がはねられたときの対策をなにかしているのか。
 いま考えてみれば、かなり被害妄想な質問だったと思う。
 ホンダの技術者は、かなり困った様子で、
「自動車というのは人をはねることを想定して作られていない」
 と答えたが、別の技術者が、
「ああ、でもフロントガラスを割れやすくしたりというのはそういった対策だと聞きます」
 とフォローする。
 そう、ぼくはそれに救われた。
 その後、ホンダはぼくの言葉がきっかけだったかは分からないのだが、歩行者障害軽減ボディといって、ボディ前部を壊れやすい構造にして、それを安全性能として売り出しはじめた。
 それでだいぶ救われたのは、想像しやすいと思う。

 何々恐怖症という言葉を聞くと、ぼくはとっさにこの自動車恐怖症のことを思い出す。
 これはほんとうに生理的な反応で、事故に遭った人にしか分からない怯えに近いものだ。
 ぼくは生死に関わるとはいえ、たったの1回事故に遭っただけで、これだけ長いことそれを引きづり続けた。
 それがたとえば戦場で毎日のように人が死ぬ環境であったなら?
 なんどもなんども暴力を受け続けるような環境だったら?
 その傷は深いよな、普通。
 そう思ってしまうのだ。
| 文章力修行中 | 22:45 | comments(0) | trackbacks(0) | 昨年の記事
 おいしい経験

 定食屋というのはどんな街にも必ずあって、だいてい五十代か六十代のおじさんとおばさんがやっている。水道橋にも、品川にも、赤坂にも、ぼくが住んだどんな田舎の町にもこの定食屋というものはあって、寂れていようが、いやたいていは寂れているのだが、見つけるとかならず一度は入る。夜はたいてい居酒屋になっているから入るのは昼。入ると、懐かしい空気に包まれる。
 食べるのは定食屋だから当然定食で、どんな一等地であってもこの定食なるものが1000円を超えることはない。だいたいは焼き魚定食を頼んでおけば外れることがなく、出されるお茶はおいしいことが多い。お客さんは常連と思わしき人々が多く、おじさんばかりかと思えば、OLなどの姿もけっこうある。
 ぼくの仕事中の昼飯はもっぱらこういった定食屋で、ひとりの常連として、街の秘密を共有する心地になる。表づらは寂れているけれど、中に入ると常連でぎっしり。そんな店の定食はたいていおいしい。
 こんなことを書くと、毎日焼き魚定食ばかりで退屈しませんか、と聞かれそうな気がしてくる。え? そんなことないよ、とおもわず言い返したくなる。魚と行っても、サバもあれば、ホッケもあれば、サンマもある。サンマだって、秋のサンマと春のサンマは違うし、店に入ると常連には、今日はいいサンマが入ったよって教えてもらえる。
「じゃあ、サンマお願いします」

 むかし新橋に勤めていたときがあって、そこで定食屋にはまってしまった。
 おそらく新橋界隈には二百軒近い定食屋があって、それがしのぎを削っているので、おいしいお店が多い。そして、どの定食屋も出す物は同じで焼き魚定食。おそらく、新橋を食べ歩いたことのない人には信じがたいと思う。
 ぼくの勤めていた会社は、昼から戻ってくるなり、
「今日、どこで食った? そこ旨かった? どんな店?」
 と訪ね合うのが日常の会社で、そこで仕入れた情報をもとにまた別の定食屋ののれんをくぐる。
 その当時、ぼくのマイブームは塩サバで、新橋中の定食屋の塩サバ定食を食べ歩いて、ナンバーワンを決めてやろうと意気込んでいた。塩サバ定食はどこも700円を超えることはなく、たいてい600円で、安ければ500円。マクドナルドで食べるのとほとんど変わらない値段で食べることが出来る。
 そうやって塩サバばかりを食べ歩くうちに、塩サバ定食の世界の奥深さに気付いてくる。
 切り身の切り方、焼き方、付け合わせ、ご飯の炊き方、お茶の味。
 どの店で食べても、かならず違うところが見つかる。
 味噌汁のおいしい店、焼き方がジューシーな店、さりげない漬け物が粋な店、最後のお茶が格別な店。
 店の雰囲気まで入れれば、当然に千差万別。
 単なるサバ塩定食と思うなかれ。
 名前でくくるとどれも同じだけど、カレーが違うように、ラーメンが違うように、塩サバの味はどこも違う。
 それ以来、ぼくは定食屋にはまってしまったのだ。

 新橋ナンバーワンのサバ塩に認定させていただいたのは、ニュー新橋ビルにあるたぶん有名なお店で、確か塩サバ定食は730円とちょっと高い。
 しかし、やはり焼きがいいのだろうか、とってもジューシーで、しかも焼き目は茶色くかりかり、しじみ汁の味も満足で、お茶も文句なし。誰かにその店を紹介するたびに、ぼくはこの店は七色の塩サバを出す店だと紹介する。
 焼き目、肉、血合い、皮と、塩サバを形成するあらゆる味が際立っていてハーモニーを奏でている。それがあまりにも色彩豊かなので、そう呼んでいたのだが、誰かを連れ込むたびに、ああ、確かに、こんなおいしい物があるんですね、と塩サバに感動される。
 そのお店は雰囲気も、ほかのメニューも最高で、けっこうなお気に入りで、なんどもなんども飲んだり食べたりした。
 そうやって、新橋を味わい尽くすと、その豊穣さを捨てられなくなる。
 あるとき、急ぎの仕事があって吉野家に入る。
 湯飲みにつがれたものを飲んで、うっとうめいてしまった。
(なんで吉野家はお湯を出すんだろう?)
 ふしぎに思って湯飲みをみつめると、それは吉野家ではお茶と呼ぶことにしているもの。
 その瞬間、なんて貧しいのだろうと、吐き気がした。
 そんな気分になると、ぼくはいつも定食屋に逃げ込むように入っていく。
 それはどんな街にもある定食屋。
 ぼくは、通うことになる街に出会うたびに、その避難所を探す。

 いちばん昼食どころ探しに難儀したのが品川の会社で、品川と言っても、青物横丁駅が最寄りの若干南にある会社。大手ばかりが組んだジョイントベンチャーで、傭兵部隊ばかりなのが原因か、誰もが優秀なのだけど、非常に空気が悪い。
 ぼくは一年近くそこにいたけれども、その間、3回の引き継ぎをした。
 引き継ぎというのは、一ヶ月ぐらい掛けて、前任者の仕事を後任者に引き継ぐのだが、その間はほとんどべったりとその引き継ぐ2人でひたすらに行動を共にし、ひたすらに話し込む。
 そのうち2回が男性で、1回が女性。
 特に後任側だった2回は、会社側の冷酷な判断でその人は別のところへまわして、ぼくにまわすみたいな感じだったので、とにかく相手側を傷つけないようにひたすらに配慮したのを思い出す。それを経験すると、ああ、ぼくは誰とでも組めるなと妙な自信がついてしまったのであるが、上司が前任者に対してカリカリに怒るのを、まあまあ、まあまあ、なんとかなりますよ、とひたすらになだめていた気がする。
 そんなときにやはり威力を誇ったのが定食屋だった。
 前任者とともに赤坂の編集スタジオに素材を取りに行く。
 仕事の雰囲気はいつもカリカリしており、それでせわしない。なので、地下鉄に乗りながら、ぼくは提案する。
「そうだ、新橋で昼飯にしませんか? いい店があるんです」
 七色の塩サバの話をして、納得してもらう。
 新橋に降りると、そののどかな雰囲気に、唖然とする。
「なんかさ、なんでこんな忙しいんだろう? おれたち」
「不動産関係なんでしょう? じゃあ、あんなに忙しくないですよ」
「苦手だったんよね、ITって」
 そんな話をして、どこかでつながる。
 ぼくが辞めるときも、同じよう。
「大丈夫ですって、なんとかなりますから」
 ぼくはひたすらになだめる。
 それで、昼飯に誘う。
 その会社の周囲はもう開拓済みで、絶好の店がいくつもあったのだ。
「いい店があるんです。15分ぐらい歩きますが、大丈夫ですか?」
「えー、そんなにあるくんですかー」
 ぼやきばかりの彼を連れながら、あれこれ話込みから、目当ての店を目指す。
 そこは、ソバだのカレーだのを単品で出して、そこにオプションでかき揚げだの、ソーセージだのを乗せられるようになっている、コストパフォーマンスが高い割に、アットホームな雰囲気の立ち食いの店。
 そこで彼は、ゲーム会社勤務だった頃の話をしてくれる。
 ぼくも夢中になってそれを聞く。
「へー、その辺ってどうなってんですか?」
「ああ、その辺は複雑で」

 もしぼくに、神様より与えられた偶然をたったひとつだけ奪うけど、どれはだめかな?
 といわれたら、たぶんわたしは二番目にこの新橋を選ぶと思う。
 こんなにおいしい経験はそうそうないと思う。

| 文章力修行中 | 22:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
 クリスマスを食べるひと、食べさせるひと

 NHKの朝のラジオに好きなコーナーがある。流行りそうなトレンドを紹介する、にぎやかなコラムで、マーケティング会社の女性が担当している。様々なトレンドの破片をきれいにつなげてまとめ上げるチカラワザが聞き所で、きっとみずがめ座だろうなぁとにやにやする。同じようなマーケティング会社に勤めていたから、その力量は手に取るようで、楽しそうに原稿をまとめる姿まで浮かんでくる。
 ぼくも会社で遅くまで似たようなことを書いていた。hikaliの名前で書き始めた物語解析も、仕事で書いていたメールマガジンの文体そのままだったりする。
 その担当の方は、とにかくトレンド情報が好きでたまらないといった風で、そういえば似たようなひとが会社にはいたと、そんなことまで思い出す。
「そういえば、クリスマスも仕事ですか?」
 アナウンサーが聞く。
「はい、仕事です」
「会社、全員仕事ですか?」
 ふしぎそうに聞く、アナウンサーの言葉に、あいたたた、とうめく。

 ぼくの担当はインターネット通販が主で、ほかにもリサーチやら、プレゼントキャンペーンやら、一週間とか二週間とかのスパンで動くめまぐるしい仕事が多かった。すると季節感があちこちから顔を出し、それを二三週間先取りして、せっせと詰め込んでいく。
 5月になれば新緑で、9月になれば紅葉で。
 何年もやっている仕事もあったから、そのときどきの季節感を掴もうとする。
 スーパーのチラシをやっていた昔の彼女に聞いたところ、スーパーも何より季節感なのだとのことで、ファッションも季節感、音楽も季節感、雑誌も季節感、コンビニも季節感、誰もが季節感を追っていく。
 それがクリスマスともなると、みんな、よーいどんで走り出す。
 ライバルのサイトがフライング気味に走り始めると、それを横目で見ながら企画を練る。
 12月に入れば、いよいよスタート開始で、12月1日は開戦の日。
 ジングルベルを鳴らしながら、クリスマス一色のページや商品やプレゼントを投入し、その結果に一喜一憂する。そして、イブの決戦まで突っ走っていく。
「クリスマスも仕事なんて、当たり前じゃないですか」
 そうアナウンサーに言いたくなった自分に、あいたたた、だったのだ。

 クリスマスこそ仕事です、というひとたちにとって、
「クリスマスってなんですか? 食べたことありません」
 というひとたちにだって、
「クリスマスはおいしいよ、食べて食べて」
 というのが自然になる。
 それがそういう仕事からすっきり足を洗って、クリスマスってなんだっけ? と思ったときに、ぼくはあんまり真剣にクリスマスを食べたことがないことに、ふと気付く。
 食べたことがないんだ、クリスマス。
 ジングルベルが鳴る商店街をあるくことはあったけれど、それでも仕事で頭はいっぱいで、こういうふうにやればいいのかなどと、そんなことばかりに意識が向く。
 それでも先日、東急ハンズへ爪切りを買いに行って、その売り場全体がクリスマスムード一色になってごった返しているのを見て、純粋にたのしんでいる自分がいるのに気付いて、ほっとする。
 もういいんだ、クリスマス、食べさせなくて。
 もう食べていいんだ、クリスマス。

 12月のムードは、ぼくが昔していたような、クリスマスを食べさせるひとによって作られていると思う。
 ここが稼ぎ時と、誰もが知恵を絞って、この季節を盛り上げる。
 でも、それが食べる側に回ってみると、それはライバルたちとのしのぎの削り合いを意味するものではなくて、純粋に食べていいもののフルコースのように見えてくる。こんなに一生懸命にみんな考えてくれているんだものねぇ。それなら、お言葉に甘えて、食べてしまってもいいのかな、クリスマス。
 ぼくも昔はおいしいものをなんとかたくさん提供しようと頑張ってみてた。
 ならば、どれもおいしいんじゃないかって、そんな気がする。
 クリスマスは、食べさせるひとたちの陰謀だと、そんな声を聞くこともあるけれど、クリスマスを食べさせるひとたちだった、ぼくとしては、そんな悪いものではないよ、これでもかなり気合い入れて喜んでもらおうとしているのだから、とついつい、弁解のような言葉が出てしまう。

 ディケンズの名作クリスマス・キャロルが映画になって上映されている。
 ぼくもディケンズの中ではこの作品が一番好きで、なんどもなんども読み直して、暖かい気持ちに浸った。
 ついこの間書き上げた「ミリーの天気予報」も、実はクリスマス・キャロルみたいな話にと思って書いたもので、クリスマスを模して書いたスークルの大祭も、季節は夏とだいぶ雰囲気は違うのだけれども、クリスマス・キャロルの暖かさが再現できないかなと思って書いていた。
 そういうと、クリスマス好きなのですよね? と言われそうな気がしてしまう。
 でも、それはディケンズのクリスマスが好きなだけで、まだクリスマスは真剣に食べたことがない。

 もうすぐですね。
 あなたはだれと過ごしますか?
 どんなふうに味わいますか?
 すてきなクリスマスを。
| 文章力修行中 | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
 【練習中!】現在、文章力強化修行中です!

 えっと、こんばんわ!
 管理人のhikaliです!

 なんかすっかり、放置気味になっていたとちょっと反省しているところなのですが、実のところ、最近、文章力を強化したいなどと思い始め、ブログとは関係ない話をせっせこ書いている、という状況だったりします(^_^;

 状況をかいつまんで言いますと、

 1.とある種類の文章が自分は苦手だと気づき、愕然とした。
 2.あまりにも悔しくて、その手の文章が上手い人の短編を買いあさった。
 3.読んでみたらおもいっきりうまくて、呆然とした。
 4.しかし、その人、わたしと書き方が似てる!
 5.うお、これは師匠と呼び、修行に励むしかない!!

 と、絶賛修行中だったのですが、ブログを放置するわけにも行かず、ということで、あんまり開発ブログとは関係ないのですが、修行として書いてみた文章を、不定期に投稿してみたいと思った次第です。

 なので、今後、なんの脈絡もない文章が、なんの説明もなしにぽんと投じられることが出てくるかと思います。そうしましたら、ああ、修行してるんだね、と思っていただければ幸いです。

 とりあえず、本日一本書いてみたのですが、うーん、修行の成果が出ているどころか、なんか昔書いたエントリーみたいだなあ、と思ってしまったり。まあ、一昼一夜で上手くなるはずもないですので、生暖かい目で見守ってくださると幸いです。
| 文章力修行中 | 22:05 | comments(0) | trackbacks(0) |