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 『わたしを離さないで』を読んだ

 ずっと前からカズオ・イシグロはノーベル文学賞を取ると言われていて、わたしはハルキストを唾棄しているので、なんの予備知識もないままに読んだ。
 わたしがカズオ・イシグロを読もうと思ったのは、ワイヤードという今はない雑誌(電子媒体での活動に移行した)のインタビューを読んだからで、それは「ことばの未来」という、乱暴にいうとAIで小説は書けるかという話題を扱った特集で、この中の「埋められた感情」という短い文章の内容に衝撃を受けたからだ。
(ワイヤードはバックナンバーを販売しているので、興味がある方は読んでみると良い。品切れの場合はデジタル版が買えるとのこと)
 ■マガジン(雑誌)/MAGAZINE|WIRED.jp
 https://wired.jp/magazine/

 この号の発刊は2015年11月10日なので、ノーベル文学賞受賞よりも2年も先行していることになる。
 正直、一回目ではなにかぼんやりとしかつかめず、二回目では好きなシーンが挙げられるようになって、三回目でやっと作品と出会った。そんなことをしているうちにノーベル文学賞を取り、じゃあ、いったい何が『わたしを離さないで』なのかといわれるとたいへんに困るぐらいにしか、この作品のことを知らない。美麗字句で褒め称えることはできても、それはわたしの本心からの文章ではないし、わたしのことばなんてそもそも価値がない。
 それよりも、この小説はうつくしい。
 この小説は美しい記憶を読んでいくお話であって、事実を読む話ではない。
 こんなに幻滅する現実はもうまっぴらだ、そう言っている小説なのだ。
(端的すぎるネタバレなのだが・・・)

 『わたしを離さないで』は、作者がつけた目次の構成上、3部に分かれる。
 幼年学校を思わせるヘールシャームでの第1部、大学生生活を思わせるコテージでの第2部、そして、社会人になってからを思わせる介護人としての第3部。
 どれも印象的なエピソードに満ちていることは当然なのだが、それぞれにでくわす年齢が違うので、もしかすると読み手は、冒頭のキャシーと同程度の、介護人として経験を積んだ30代ぐらいの人生経験がなければ、細かな部分を読み取るのは難しいかもしれない。
 それは、その文章を書いているのは少女ではなく、充分すぎる重厚な人生を歩んだ作家というのもあって、少し年代が近い読者から見ると、ああこれは歳とらないとわからないなあと思うきめ細かさがあるのだ。
 それでも作品に何度でも恋をするのは自由であるし、初めて読んだときの気持ちから、自分の中の時代に合わせて読み方が変わっていくのを楽しむのは、素敵な読書。そんな幅広い読書を包み込むだけの豊かさを、この作家は持っているように思う。

 この文章をここまで読んで『わたしを離さないで』を読まない人は多分一生読まないので、この話題はこの辺にして、わたしがどう感じたかを書こう。

 まず、ものを作る人がすばらしい作品に出会ったときに、なにひとつとして嫉妬を感じなかったとしたら、そもそも創作をやめたほうがいい。創作というのは、未踏峰をどういうルートで登るかの独自性の世界で、そもそもルートが確立している観光コース然としたエベレストになんて価値はまったくない。
 そんなアタリマエのことを考えて、『わたしを離さないで』はどう思ったかといえば、これはわたしのセクションではない、わたしが入り込む余地のない偉大な先人の領域だということだった。正直、どうせ自分がなんか考えても、その前にこの人が実現してしまうんだろうなあという無力感はあるし、入院歴が長いわたしにもなんか付け足せそうなものもありそうな気がするんだが、それは単なる錯覚だという気もする。
 そもそもこの作品が書いているのは医療ではなくて、人間らしい人生とはどういうものかという一種の社会哲学的な領域を扱っているのだ。そしてわたしは十分恵まれた環境にいるので、そこに対してあまり興味がない。
 『わたしを離さないで』の世界観はディストピアで、正直うんざりするような現実しかない。だから絶望するのだが、これと同じような構成でもっと明るい作品に、スタジオジブリの『おもいひでぽろぽろ』がある。この作品を語り始めると長いので(単純計算で2倍になる)割愛するが、正直ジブリ作品で一番好きな作品はどれかと言われれは、わたしはこの作品を挙げる。
 やはり夜行列車のシーンがうつくしいし、子供時代の何でも無いエピソードが、こつりこつりと響いてくる。

 もちろん、『わたしを離さないで』は、これだけ読まれるのだから、絶望しかない世界感でも、きわめてうつくしい小説であることは保証します。
 ただ、それに気づけるようになるまでに、わたしは3回の通し読みが必要でした。
 ノーフォークの下りがこんなに素晴らしかったなんて、と3回めに愕然としながら読んだのがわたしです(ネタバレしないように、かなりぼかして書いている)。
 第3部はわずか2章ぐらい進んだ程度で、いきなりラスボスにたどり着いて、これあと4章あるけど持つのか? と思ったら一切の冗長な文章はなく、示唆に富みすぎた文章でクライマックスが描かれる。こんなクライマックス、想像していたけれど想像できなかったし、細かなところを拾うと、ほんとにぐざりとくる。学園長先生が、教え子の救済よりも、莫大な自分の借金のために売り払う家具を、業者が傷めないか心配で、教え子などと話す時間は、全く興味はないとか。
(たぶんこれは、感情的な無意味な反論が多そうなので、ちゃんと読んでね、としか)

 ただ、同じ書き手として不満があるとすれば、トミーはもっといきいきと書けなかったの? と思うところはあります。
 創造性がない人という役回りはわかるのですが、シェイクスピアのどの作品を読んでも、これほどまでに他人に対して従順な人を見たことはない。家畜なのか、とかくと、えっともしかして当たってるの? と怖くなるんですが、えっと・・・、当たっちゃってる? うわー、これ超ネタバレだわ・・・、と書けなくなるんですね(笑)。

 はい、誤魔化しましょうw
 というわけで、ほぼノーベル文学賞の理由となった『わたしを離さないで』は大変美しい小説です。わたしは美麗字句は嫌いなので、ほとんど褒めてませんが、検索してみると大量に褒め称えている評には出会えると思います。
 とにかくこの小説はうつくしい。
 なにもかもがうつくしいです。
 良い文章は読みましょう。



| 書評 | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
[書評]「イービーのかなわぬ望み」

 この短編は小川洋子さんの短編集『夜明けの縁をさ迷う人々』に収録されている短編で、正直に言うとこの短編に出会うまでは、小川洋子さんを不勉強にも知らなかった。が、一般には、映画にもなっている『博士の愛した数式』の著者として有名なのだと思う。
 長編も読んでみたくはあるのだが、わたしにはヒットした短編ホラーの方を優先的に読むことになるだろうなぁと予感している作家である。わたしは短編ホラーが好きなのである。あ、いや、たぶん映画は見る。

 表題の作は、タイトルこそ悲しげであるが、ホラーというほど怖いお話でもない。
 むしろこの短編集全般には奇妙な味の物語と名付けたほうが良さそうな空気がとても漂っている。
 この作品に出会ったのは、長い入院生活中に聞いていた、たぶんNHKだと思うのだがのラジオドラマ。聞いているうちに聞ここんでしまい、実際にラジオドラマ用の脚本だったのか、原文を読んだのかは分からないのだが、語り手の美しい語りもあって夢中になってしまった。
 もちろん、タイトルも、原作者も覚えていなったのだが、退院後に調べてみると、
「中華料理店」「エレベータ」「少年」
 この程度の検索ワードだったのだが、すぐに見つかった。

 この物語は、中華料理店のエレベータの中で生まれ、その後エレベータに住み着いたエレベーターボーイ、イービーをめぐるお話で、イービーに恋した女の子の視点で淡々と語られます。
 特筆すべきはその情感豊かな表現で、引用してみるのですが、

 私たちはゼロ階から四階まで何度も上り下りする。たった二人きりで、地上でも屋上でもない、空中をさ迷う。誰にも邪魔できない、時間の流れも届かない、空中の小部屋に閉じこもり、守られている。すべてが遠く、ただイービーだけが寄り添ってくれている。
 私は彼に手をのばす。掌に収まるほどの華奢な肩から、肋骨の浮いた胸、半ズボンに包まれた腰へと指を滑らせてゆく。イービーはとても温かい。
 ああ、よかった、と私は安堵する。心の片隅で、もし彼が本当にただの薄暗がりだったらどうしようと、心配していたのだ。うれしくなった私は、イービーを胸に抱きとめる。そのサイズに慣れていないせいで、最初はぎこちない感じがするが、すぐに私たちはしっとりと馴染み合う。彼の身体はどこもはみ出さず、そっくり私の中にある。


 これはけっこう情熱的ですよね(^_^;
 またこの短編の終盤地点に、実はもっといいシーンがあって、そこの風が流れるような疾走するシーンがとてもしびれてしまうのですが、それを引用すると、ネタバレになってしまうのです。

 またこの表現力の秘密なのかもしれないという内容があったので、こちらも紹介します。
 これは短編集の最後に収録されている「再試合」という短編からの引用なのですが、こんな文章が記されています。

 教室にいる時、彼には一言も口をきいてもらえなかったのに、ユニフォーム姿の彼については無限の言葉で表現できることが、自分でも不思議だった。私は手元の単語カードに彼の美点を一つ一つ書き込んでいった。バッターボックスに向かう足取り、目元を隠すひさしの陰、タイミングをはかる腰の動き、打球を見上げる横顔、ベースの上で土を払う仕草、グローブをはめる瞬間、風を読む瞳、打球を追う足音、しなる肩……。私は何枚も何枚もカードをめくっていった。最後の一枚が済んでもまだ書き足りなかった。そういう場合に備え、制服のポケットには常に、さらの単語カードが入っていた。


 このお話は高校野球のお話で、そのレフトの選手に首ったけになった女の子の話なのですが、これはまあ、続けていたら上手くなるだろうなとは思います。ただ、たまに17才でこの認識をしている子っているか? という文章が出てきます。
 これはたぶんわたしが、その人の生の感覚から出てくる言葉に注意が向き気味な人で、17才でこの感覚は辿りつけないだろうと思ってしまうからです。それはもちろん、わたしと著者の経験の違いから来ているのでしょうけれども、なんとなく生命感が感じられないとギャップに苦しんでしまいます。

 まあ、わたしは一応理系の人で、文系も行けるとはいえども、得意なのは歴史や地理といった教科で言えば、社会に属する分野の人なので、いわゆる文学少女的な感覚は持ってないんだろうなあとは、思うのですが。

 またその他の短編も、おすすめしますか? と聞かれればべつの短編集を買おうかなと思ってるというぐらいにおすすめします。これならファンとして読み続けてもいいかなと。
 というわけで、ようやっと読了にたどり着いたので、書評にしました。
 いやー、小説ってどうしても後回しになるんですね(^_^;
 どう考えても娯楽として読むものなので、書くのに必要な資料などに比べると、優先順位がねえ・・・。
| 書評 | 21:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
 作家性の相続はできたのか。フェリックス・フランシス「強襲」

 えーと、書評を書くのが数年ぶりなのですが(最新が2年以上前)、ちょっとこれは書かなければいけない小説に出くわしましたので、お届けします。

 多分ほとんどの方が、この作家のことを知らないと思うのですが、これからこの書評を読み始めると、お、なるほどと想うかと思います。また、このブログを長年お読みになっていただいている方には、ああ、ついにあれが来たのか(笑)と思う作品であると思います。

 フェリックス・フランシスは無名の作家であると同時に、有名な作家です。
 なぜかといえばフィリックスの父であるディック・フランシスが英語圏の冒険小説の名手として知られ、
 米国探偵作家クラブ賞 3回
 英国推理作家協会賞 2回(ただし1回は作家賞)
 受賞という、名だたる受賞歴を持っており、

 米国賞では複数回受賞は他に、2002年、2005年受賞のジェファーソン・パーカーと、2008年、2010年受賞のジョン・ハートのみ、
 また英国の作家賞に匹敵する、巨匠賞を受賞しています(つまり米国では4回受賞)。

 実は以前に触れていたりします。
 時系列順に並べると、

 ■作家性は相続できるのかの実験 ディック・フランシス「祝宴」
 http://blog.story-fact.com/?eid=858410


 ■もはやこれは最高傑作 え? 書いたのはフェリックス?
  [書評]「審判」ディック・フランシス&フェリックス・フランシス
 http://blog.story-fact.com/?eid=1085080


 と、これまで注目してわけなのです。
 しかし、残念なことに父フランシスが死去すると、日本のパブリッシャーであった早川書房が出版をやめるんですね(^_^; いやー、わかるんですよ。だって書いている本人に受賞歴があるわけでもないのですから。ただ、英語圏ではフィリックスの新作が出版されていく中で悶々としていたことはお察しください。
 ただ英語圏のパブリッシャーというかエージェントは、父の頃とまったく変わっていないのです。なので英語圏のディック・フランシスファンがフィリックスをどう思っているかはまったくわからないのですが、ついに動きました(笑)。

 少なくとも海外ミステリーの出版社としてはまったくの無名である、イースト・プレス社。この出版社がどういう交渉をしたのか、日本語翻訳権を得て、これまでのフランシス親子の訳者を使って新シリーズとして、出版を始めたんです。
 これがクレジットを見ると今年の2月になっているのですが、まさか再開しているだなんて思いませんから完全な不意打ちです。そして、このたび読み終わることができたということです。


 ■で、どうだったの? 読む上でポイントとなるところは?

 この作品は2007年に始まり2008年にピークとなったリーマン・ショックを受けて考え始めた物語なのではないかと思います。まあ詳しくはあらすじを読んで欲しいのですが、

 ファイナンシャル・アドバイザーのフォクストンは首の骨折で引退を余儀なくされた元競馬騎手。グランドナショナル観戦に出かけたところ、彼の真横で同僚のハーブが射殺された。どうやら彼はインターネットギャンブルに手を染めていたようだ。
 そんな折、フォクストンの同居する恋人の態度が急変し、別の男の存在が気にかかり始める。
 やがて投資の急な解約を迫ってきた騎手の顧客サールが何者かに襲われ、別の巨額投資に疑いを抱くロバーツ大佐は急死した。
 事件を追うフォクストンの元にも銃を持った暗殺者がやってくる。電話線が切断され、携帯電話も通じず、母と恋人を巻き込まざるをえない状況で――。

 父の死後、ひとりで書いた本作は本国でも絶賛された。フェリックス・フランシスによる新・競馬シリーズ、ここにスタート!


 だいたいの雰囲気はこれで異論はありません。
 ただ付け加えることがあるとすれば、けっこう後のほうで序盤に出てきた人物たちが実は重要だったということがわかるなど、そういう仕掛けに満ち溢れた、けっこう複雑なお話です。

 お話を楽しく読んでいくためには定石ですが、誰が犯人なのかを常に考えながら読んでいくと、序盤の謎、中盤のサスペンス、終盤の大どんでん返しが大いに楽しめると思います。
 あ、あとディック・フランシスを知らない方にですが、この作家の小説は競馬ミステリーと揶揄されるほど、競馬界を特に扱った推理小説を書くのが特徴です。これはひとえに、ディック・フランシスが元名ジョッキーであり(障害競馬)、その経験を元にして書かれた小説であるからです。
 元プロ野球選手が書いているプロ野球界ミステリーとでも言えばわかりやすいでしょうか。
 もちろん後期になるとどのへんですかね、「告解」(第33作目)辺りからこの作品は映画監督と、けっこうあちこちを取材して書くようになるのです。わたしはその最終期が一番好きというひねくれた人なんですが(^_^; まあ読み手にはいろいろな楽しみ方があります(と、言い訳しておきますw ちなみに一番好きなのは「不屈」)。


 ■良いと気付いた所

 わたしは過去にディック・フランシスを読んでいた時は、けっこうついていくのに一杯一杯で、細かなところまで見ている余裕がなかったのですが、今回読んでみて、案外さっぱり書いているんだなあと感じました。
 たとえばこの「強襲」は385ページあるんです。
 字詰を見ると20行×46字で、同じなので単位を逆にして、20字×46行=40字×23行で、わたしが標準にしている40字10行=原稿用紙一枚を基本で考えると2.3倍なので、385×2.3=885.5枚と、ああそんなにあるのか、とびっくりしてしまったんです。
 原稿用紙900枚弱です。
 わたしが今書いている「鉄鎖の次王の恋」でそこまで長くなるかもしれないと恐れている長さです(現状650枚強)。
 ですが、それをまったく感じさせないんです。
 それはおそらく、記述が簡潔であること、テンポよくどんどんと進むこと、あんまり突っかかるところがないことが原因なのですが、それにちょっと驚きました。なんというのでしょうか、うるさくないといいますか、読むじゃまをしない文章だなあと関心したのです。
 もちろんそれには、訳者である北野寿美枝さんの力量もあると思うのですが、だいたい母国語の書き手は訳者に迷惑をかけるものだと(わたしも含めて言葉を書く人は勝手なものなのです(^_^; )、わたしは思っていますので、そこまでの奮闘があったと考えるのは期待をし過ぎであろうと。

 もちろん、ディック・フランシス時代にも訳者との間に言われていたことがあるのです。
 それは確執があったという話ではなく、英語圏でのディック・フランシスの受け止められ方と、日本でのディック・フランシス作品の受け止められ方が違いすぎるとと言われ続けてきたのです。
 曰く、英語圏ではバイオレンス・サスペンスと思われていて、日本では都市の冒険小説と呼ばれている。格調が邦訳されたもののほうが高いんです。それはひとえにディック・フランシス作品を訳してきた、菊池光さんの功績だとされるのですが、菊池さんが死去したのちに引き継いだ北野さんにも思うところがあったでしょう。
 ただ、訳者は表現は変えられても、書いてある内容を変えるわけには行けませんし、台詞にしても意訳の範囲を出ることはできません。
 わたしはフィリックスの示した書き方を見て、息子が父の書き方の特徴をそこだと見ているのだと思ったのです。
 簡素に、事実ベースで、自分が主体の感情的な報告書のように。
 これに気付いて、まあ書き手に個人差はあって当然多様性なのでいいのですが、いつのまにかディック・フランシスを教科書にしているつもりが、もうちょっと感情的なぶつかり合いをメインに持ってくる書き方をしていたのだな、と思ったのです。
 閑話休題。

 フィリックスは、父は亡くなっているので、書いたのは彼しかいないのですが、思いの外、冷静に書いていますし(忘れてはならないのですが、これがフィリックスのはじめての単著です)、話の筋もまあバイオレンス・サスペンスに流れがちかもしれませんが、なにも知らない世界に放り出されて、とりあえず出版社が勧めるであろう所を書くことのどこがわるいんでしょう。
 ただ、この作品はフィリックスの心情がとても明確に出ているともいえます。
 それは最後の最後まで読んで、で、この作品のタイトルである「ギャンブル(英題)」はなになのかと考えると、ラストシーンのフォクストーンの姿が眩しくなってきます。
 

 ■悪いと気付いたこと

 さて、良いことを指摘したら、悪いことも指摘するのはセットです。
 これはつねに長所は短所なので、その悪い面を指摘するしかなくなるのです。そうでなければフェアではない。
 正直、英語圏のディック・フランシスファンがどのようにフィリックスを評しているかはまったくわからないのですが、たぶん来ている批評は、父とどう違うんだ! 丸々同じものを見たいわけではない! もっと違いを見せろ! ということではないかと思うのです。
 新しい物を見せろ!
 と。
 で、実際ご紹介しているこの「強襲」は2011年発行(たぶん12月)のものなので、その後、2012年、2013年、2014年とその罵倒には答えていると思うんですね。そこでどう変わっていっているかは、イースト・プレスから発刊される邦訳を見ないとわからない。

 わたしが端的に感じたのは、これではディック・フランシスファンの賛同を受けられないだろうということでした。
 それは質が劣るからではない。
 こうやってもっと良くなっていきますというロードマップが見えなかったからです。

 早川書房がリスクを取れなかったのはここなのかもしれない。
 そこに電撃的によくわからない出版社というのは失礼だし、わたしは客なので、確実に発刊情報が届くようにしてくれよと思うのであるが、まあ出版してくれるのはとてつもなくありがたい、こんな売れるかどうかもわからない著者の作品を。
 まずそこを感謝して、まあ、よい、2月を待ってます。


 ■ミステリーサスペンスなので、話しにくいところの数々

 当たり前なのですが、読む前からどういうお話なのかがわかってしまうと、面白さは半減です。ただ、非常に重厚で、あらゆる人物が予想もしていなかった形で物語で重要な役割を果たす物語であるといえます。
 これがディック・フランシス。
 そう思えることだけは、けっこう慎重に踏襲していると思いますので、まずそこだけは保証します。むしろ、フィリックスは(当たり前なのですが)父フランシス・オタクだなと思うような展開がしばしばあります。
 これは、あの作品の展開に似ているとか、個別具体的には、ビリー・サールと、マーティン・ギフォードと、ジャン・セッターの使い方ですね。それを頭に入れながら読むと、うは、ここで使ってきた! というだいぶ初出から離れているので衝撃をうけると思いますよ。
 これがディック・フランシス節です。
 それが狭い競馬業界の人間関係なんですね。

 さてさて、だいぶ書きすぎました。
 そろそろ終わりにしたいのですが、たぶんこれがフィリックスの意図であると思うし、わたしもそれに見事に不満はありながらもはまったので、最後の犯人はどうでしたか? と質問に答えたいと思います。

 冒頭25ページに、書いてある殺された書き置きの内容が、最後に重要になる。

 この答え方は一応フェアだと思う。
 もしフェアではないと言われたら、フィリックスのせいだ。
| 書評 | 01:14 | comments(0) | trackbacks(0) |
 「ウォール街のイカロス」書評後編

 えーと、みなさん、お元気でしょうか。わたしは外来でいろいろ病院に行かなければいけない状況になっていますが、たぶん元気です(たぶん、たぶん、たぶん・・・)。

 さて、なにやら、どっかで途中で投げ出したエントリーがあったなあと思い出し、あんまり放置しておくと、たぶん何を書こうとしていたか忘れる気がするので、なんとか復旧しようとしている次第であったりします。

 本日は、バートン・ビッグス著の「ウォール街のイカロス」という金融小説の紹介の後編です。
 本書は、わたしが「百年に一度の危機」と呼ばれたリーマンショックを発端とする金融危機を読み解く師匠として尊敬していた(すでに故人)バートン・ビッグスの著作です。
 本人は長らくウォールストリートのど真ん中(モルガンスタンレー)で定年退職までトップを張っていたストラテジストで、引退してヘッジファンドを運営するかたわら、死ぬまでに小説を書きたいと、いくつかの著作を執筆していた方です。

 わたしは、小説を書く人として、小説を書きたいという情熱を持っている方には、とてつもなく甘い人なのですが、本書が出たのを聞いて、バートン・ビッグスさん、ついに念願の夢をかなえたかと感慨深くなってしまい、この感想を書いていたりします。
 本書が、バートン・ビッグスの最初にして最後の小説。
 その白眉のパートを紹介することで、より多くの方が本書を手に取ってもらえれば、と思う次第です。わたしはこのパートを読んだ瞬間に、バートン・ビッグスが何を書きたかったかがわかった気がしましたし、それはわたしが書きたいものでもあるのです。

 つまり、世界はどのようにして崩壊するのか。
 それはどうして起こるのか。
 なぜ、ローマ帝国は滅びたのか、ギリシャはなぜあれほど短命だったのか。

 あの危機を、最前線で見ていた最高峰のスペシャリストの見解を読んでみようではないですかというエントリーなのです。

 「ウォール街のイカロス」のこの大崩壊の理解のパートは、本書の主舞台となるヘッジファンド、ブリッジストーンの共同経営者にして、運用担当のオタクであり天才であるラヴィンの言葉として語られます。
 リーマンショックですべてが崩壊したのちに、それは何だったのかを語るシーンなのです。
 より正確には、アメリカの不動産バブルの崩壊はどうして起こったのか、なのです。
 システムの崩壊をとても精緻に語っている部分なのです。

 ちょっと、その天才の言葉に、耳を傾けてみましょう。 



「で、君たち、どう思うかね?」。ラヴィンが尋ねた。
 二人は自分たちのモデルが心配だ、自分たちをとり囲む混沌が不安だと話した。
「物事があまりにも速く進むので怖いぐらいだ。こんなのは誰も経験したことがない」。ラヴィンは考えながら話した。「何が怖いって、高度に複雑な適応系のシステムは――帝国、世界経済、それに金融市場も――長期間にわたって生産的な均衡をもたらす働きをすることがある。しかし必ず、突然に、些細なショックでそんなシステムが崩壊し、考えられないスピードでつぶれてしまうんだ。ローマ帝国、明王朝、オスマン帝国、ブルボン朝を考えてみろ。世界を変えた第一次世界大戦は、無名の大公が暗殺されたのが発端だし、第二次世界大戦後に起きた大英帝国の突然の解体だって、ソヴィエト連邦の崩壊だってそうだ。そんな崩壊のどれもが、完全に思いもよらないときに、突然起きた。後から見ると、そのきっかけはその当時はたいしたことない出来事で、それがシステム全体を取り返しがつかないところまで傾かせた。複雑なシステムは耐久性があり、それでいてとても脆いんだ」

 ラヴィンはちょっと間をおいて二人をじっと見た。「世界という複雑なシステムを、たぶん致命的に崩壊させたのは、手の届かないものをサブプライム住宅ローンで手に入れた数百万人と、ずる賢いでたらめで世間を手玉にとった数百人の投資銀行員だよ。人間の知能自体が複雑なシステムなんだ。で、それが、どうしたって? 君らの大事なモデルも複雑なシステムだ。君らはそんな複雑なシステムで別の複雑なシステム、つまり金融市場を解読しようとしたんだよ。両方が同時にぶっ壊れたってことだな」
 ジョーとジョーンはラヴィンをじっと見つめた。ラヴィンは核心を突いていた。しかし、彼の言葉はあまりにも奥が深すぎて、あまりに恐ろしかった。
「神のお望みのままに」。ラヴィンは踵を返してオフィスから出ていった。


 わたしは、小説を書きたいと思いながら、実際に書いてきた人ですが、そのベースとして、ギリシャ・ローマ史に始まるいくつかの歴史書を読んできた人です。

 べつに読まなければと使命にかられたわけでもなく、とりあえずとっかかりとして読んでみたヘロドトスがあまりにも面白くて、中毒的に歴史書を読みまくることになったのです。ブルターク、ツゥキディティス、スベトニウス、カエサル(ガリア戦記)、あとはなんでしょう、塩野七海はほとんど読んでますし、タキトゥスはあんまり好きではない、とかそんな感じでしょうか。あとはさりげなく、ゲルハルト・ヘルムとかおススメだったりします。

 えーと、なんの話だったかw


 そうそう、わたしは小説を書くために、そのネタ元として歴史書を読んでいた、という話なのですが、ミイラ取りがミイラになったという、わかりやすくはまってしまった人なので、なかなかにわたしからしてもあんまり信用できない人なのです。
 じゃあなんで、歴史書を読んでいたか、という話になると、それをパクるため、と非常に利己的な話が出てくるのです。

 卑近な話になるのですが、わたしが書いていた(書いている)小説として、「野ばらの諸侯シリーズ」という産業革命を取り扱った話のことを話しましょう。これは世界の崩壊と再生を、つまり簡単に言えば、産業革命の時代で起こった、中世の崩壊と近世の勃興を描こうとしたのです(正確には、書こうとしているのです)。

 産業革命と言いますと、封建的な中世から、近代国家へと転換していく歴史上の節目になるのですが、そこで何が起こったのかを考えるのはわたしにとってはとても楽しいことなのです。リーマンショックの過程を中毒的に如実に追うように、この過程は知的好奇心を刺激されて、仕方ないのです。
(百年に一度の危機をわたしは特等席で存分に味わいつくしたぞ。羨ましいだろうw)

 仕事柄、特許法という産業の根幹となった法律分野を仕事としているのもありまして、この辺りは、わたしにとって、本当に興味が尽きない分野なのです。

 しかし、歴史書を読めば読むほど、たいへんな波乱が歴史上起こったことが記されています。あまり変動がないはずの古典時代でさえ、下賤なことを言えば、ネタには一生困らなそうなほどの、激動に満ち溢れているのです。
 ギリシア時代なんて、技術革新もほとんどないし、ローマ史に至ってはキリスト教に浸食されていく歴史なので、はっきり言って、何もないのです。自壊がただただあるだけの、たぶんそういう人はほとんどいないと思いますが、愚かしさしかない時代です。

 ローマ帝国滅亡史を書いたギボンは、そのあまりの研究の充実ぶりにビザンツ帝国の研究が一世紀以上停滞した、とされるほどの歴史家なのですが、実際に滅亡史の中で、どうどうと、あまりに退屈で、この歴史を追うのはたいへんに苦痛なのだが、といったような趣旨の言葉を記します。
 ですが、その実を見れば、何本でも映画が作れてしまう、というか、小説の元ネタにできそうな事件に満ち溢れています。

 たとえば、ギリシャ史における最大の政治家と言えばペリクレスですが、塩野七海をしてこれほど格調高い演説ができる政治家を持ったアテネの黄金期をその危なさを(僭主的なので)指摘しつつ、在りし日の最高峰と位置付けています。

 しかし、そのペリクレスも晩年は無残なものでした。

 異国人の娼婦にほれ込み、その間に生まれた子にアテネ市民を授けるよう、懇願して回ったが、最終的には政敵に敗れて、散々な老後を送ります。ペリクレスでさえ、あんなにひどかったというのは難しい問いですが、なぜそうなったかを書くのはたいへんに難しいことです。

 ウォール街のイカロスは、それにびびっとに解答をくれます。
 つまり舞い上がって、失墜したと。
 ちょっと簡単に書きすぎました。
 ですが、失墜なんて見たくないですよね。
 でも、それが歴史なので、歴史をベースに書いている以上はどうしようもないのです。


 翻って日本史を見てみましょう。

 戦国時代の三英雄と言えば、信長、秀吉、家康、ですが、この中で余生を過ごすことができたのは家康だけです(秀吉は、結果的に大坂の陣で滅亡させられた)。

 これは、ギリシャ・ローマ史をひも解くと、もっとすさまじい惨禍を読むことになります。

 たとえば、ギリシャ史の英雄の第一は、ペルシャ戦争で大ペルシャを破ったテミストクレスです。彼はアテネの軍隊を陸軍中心から、海軍中心に大転換を行うのですが、結局は、アテネから陶片追放で追放される憂き目にあい、最終的にはペルシャに泣きついて、ペルシャに亡命します。ヘロドトスの著書「歴史」はこのペルシャ戦争がいかにすごかったかを書いた本なのですが、その総勢300万騎という大軍勢を、テミストクレスは破ったことになっています。

 大幅な誇張があるとされている史実ですが、テミストクレスはアテネを陸軍中心から海軍中心に、かなり詐欺くさい方法を使って転換した人であったりします。それがサラミスの海戦で実を結び、結局ペルシアの補給網を絶つことになるのですが、このやり方は、いろいろ問題があるだろうと思えてくる内容です。

 また、デロス同盟という、ギリシアのアテネ中心の大同盟を作るのですが、これも、かなり詐欺に近く、ギリシア各国に支配的な体制を作り上げます。結果的にそのやり方が反発を招いて、スパルタ中心の大戦争(ペロポネソス戦争)に発展し、以後、アテネは衰退していきます。

 (この経緯は、トゥキディティスの「戦史」に詳しく記載されている。ちなみにギリシャ、ギリシアと表記ゆれが気になる方もあるかもですが、これは拠っている原典の記載に準じていて、原典が表記ゆれしているので、どうしようもないのです。古い本(ギリシャの当事者が書いた本)はほとんどギリシアです。また、アテネはアテナイです。さすがにわかるだろと思って並列して書いているのですが)

 また、この当時台頭してきた、海洋民族フェニキア人とのシチリアをめぐる戦いも勃発し、大ペルシャを打ち破ったアテネの海洋覇権はあっという間に崩壊していくのです。わたしも、アテネサイドの歴史書を読みつつ、ぼこぼこにされているのを見て誰と戦っているんだとびびったのです、あまりにも相手が強かったので。誰と戦っているんだと。それが別の書籍でフェニキア人だったと知って、びっくりしてしまったほどです。

 ちょw フェニキアと戦ってるしw

 フェニキアの海洋民族としての優秀さは折り紙付きだと思うのですが、その後、カルタゴに本拠地を移して、ローマに滅ぼされるまで、最強の海洋民族と言えばフェニキア人でした。
 ようするに、ギリシャ文化を生んだアテネは、あっという間に滅ぼされていくのです。
 簡単に言うと、当時のフェニキア人は異次元の強さだったんです。それこそ、アトランティス人の末裔ではなかったのかと、大真面目に語られるほどです(この辺は、ゲルハルト・ヘルムに詳しく書かれています)。


 こういったことは、歴史書を読むと、当たり前のようにあちこちに書かれています。
 たとえばローマ皇帝と言いますと、五賢帝あたりが著名だと思うのですが、そこに至るまでのローマ皇帝の結末は目を覆いたくなるほどで、ネロをはじめとして、暴君が暗殺されて死ぬ、みたいなことが大量に出てくるのです。
 まずはカエサルが暗殺されたのを筆頭に、アウグストゥスとティベリウスを除くと、だいたいが暗殺されます(ティベリウスも結構ギリギリな退廃的な生活をしてますが)。

 正確な統計をとったことはないのですが、皮膚感覚的には100人の皇帝のうち、80人ぐらいは暗殺されて死んだ、というのがわたしの感覚です。それぐらい、統治機構が崩壊しているのが、ローマ皇帝なのです。

 なのでわたしは、権力というものは、興隆と滅亡を絶え間なく繰り返していくのだと、英雄物語としてはしごくありきたりで、おもしろくもなんともない結論にたどり着くのです。よっぽど、平家物語の「驕れるものは久しからず」のほうが格調高いと思ってしまうほどです(ただし、それ以前の300年にわたる源平の抗争史とかを読むと、あまりに殺伐としていて幻滅することは請け合いですが)。


 さて、いろいろと話がずれているのですが、最後に大脱線をしましょう。
 ほかでもない、「野ばらの諸侯」の話をどうするつもりなのか、という話です。

 この話は、文明国と蛮族がぶつかったとき、どういう結末になるのか、というのが興味のほとんどで書き始めた話です。その中で、文明ができることは何なのか、を書くことで、文明の輪郭を浮き出してみたい、と思ったのがほとんどの興味です。

 その中で、文明国であるシドを封建的な国家から、近代国家へと変容させていくのが、「死神の帰還」でも書いた死神リニーで、この人が興していく変革と、そこからの隆盛が、描きたい半分であります。で、ここまでお読みになった方は想像しやすいと思うのですが、後半はそこからの崩壊になります。

 崩壊していくのです。

 リニーはひどく自己中心的で、あまりにも自分勝手です。
 それは、そういう人物を罰したかったから、そう設定したわけではなく、封建から近世への大変革をなしえる人というのは、それぐらい強引で、無理な方法をとると、わたしが理解しているからです。つまり崩壊をはらんだ人でなければ、それはなしえないと。

 リニーのモデルは、織田信長なのか、テミストクレスなのかで、結構迷ったりしたのですが、そのどちらでもない姿を生み出してみようと、そう思って設計されていたりします。

 リニーは類稀なるバランス感覚を持った名君(主人公)と、あらゆる側面で足りない部分を補ってくれる盟友(ウォーク)という二人の信頼を得て、革命的に封建を近代へと変えていきます。しかし、ある時点をもって、その二人のサポートを得られなくなり、どんどんと泥沼にはまっていくのです。
 その困難は、描きたい部分です。

 連戦連勝と、幸運は長くは続かない。
 そこで、リニーはどうするか。
 たとえばこう書くかもしれません。


「じゃあ、なんだ? わたしはお払い箱ってことか」
 冷酷な通知を手渡したゾンバルトを、リニーは一瞥した。
「いえ、そこまでは言ってません。ただし、指揮権は譲っていただきたい。兵団の士気にかかわります。この作戦をほとんどの騎竜兵は支持していません。兵団とあなたの指揮権、どちらが大切だと、あなたはお考えですか?」
 リニーは3秒を考えた。
「じゃあ、どうだ。わたしが、この渡河作戦の先鋒を務める。兵団は、あとにのこのこついてくればいい。見殺しにするのは兵団の自由だ。いまさら死を恐れると?」
「しかし、」
 ゾンバルトはぼそぼそと言い訳するようにつぶやいた。わたしが、それを一番恐れます、と。
「ウルニス! 首竜の兵団は動けるな? 飛び込むだけだ。あとはついてくればいい。すぐに相手は崩壊する。あれをやる。クローナで一度やったやつだ。相手は第一兵団、よろこべ、次王の兵団ではない。あの化け物はいない」
 おもながの白い頬を紅潮させて、その娘は、はいと頷く。
「ということだ。シドがこの戦、先陣を切る。シド人は河の民だ。帝国の第一騎竜も来る。負けると思うか?」
「・・・おそれながら」
 鼻を鳴らして、頭をかく。
「ライフルがないことに怖気づいたか。シドの兵団をみくびるな。ウルニスは五騎は抜く、短刀ひとつでだ。それに」
 リニーは、遠くを見た。
「雷雨が来そうじゃないか。雷は鉄鎖の敵だ。視界が遮られる局地戦では、ボルニアは勝ってない。降り始めて乱戦になれば、シドの兵団に勝る相手はない。負けると思うか?」
「ええ」
 リニーはかるく舌打ちをして、外套を被る。それから振り返った。
「ウォークは何というと思う?」
「ご武運を」
 リニーはまた大きくちっと舌打ちをして、大きな声を張り上げた。
「包囲殲滅戦をやる! わたしがおとりになる。首竜は潜って敵方の背後にまわれ。ウルニスは、わたしと一緒にめだて! わかったな! ウタリ、上は任せた!」
 そばの騎竜兵が、そっと囁いた。
「勝てると思いますか?」
「勝てなきゃわたしが死ぬ。それ以上の質問は?」
 黙りこくった騎竜兵を見て、リニーはとっさに叫ぶ。
「ゾンバルト、祝宴を用意して待っていろ! 竜車いっぱいのビールと、食いきれないほどの肉だ。それを安全なところで、せいぜいやる気が出るように盛大に焼け。先鋒を務めるわたしたちを、肉でもてなせ!」
(ウォークが聞いたら、なんというか)
 シドの剣を抜き、それを白日にさらす。
「この要塞はパヴィア公の白銀兵団の要塞だ。いま、わたしたちがそれを継ぐ。白銀の騎竜兵団と同じ勇気を見せろ。相手はあの怪物どもではない! 単なるボルニアの主力兵団で、数だけは多い。お前たちを犬死はさせない。異論はあるか?」
 騎竜兵はおびえた視線を投げた。
「負けたら、もし、負けたら、どうなりますか?」
 リニーはおかしくなって、ふっと笑った。
「全員死ぬさ、みんな公平にな」

 実際のところ、このような戦い方は、多くの命を預かる指揮官としては、まったくもって正しい方法であるとは言えません。
 なぜならこれは、戦略上の不利な状況を、戦術上の挽回によって覆そうとする行為だからです。指揮官であれば、戦略上の施策を駆使することによって優位を作り、被害がでる実戦の場面においては、もうどのようにしても勝利する状況を、作っておかなければならないからです。
 物量で、圧倒的に劣っている状況で、友軍の支援さえも満足に得られない、というのは、考えられる限りで、かなり最悪に近い部類の状況です。

 この状況下で悪あがきをしてそれなりの成果を上げた例としては、織田信長の桶狭間の戦い、北条氏綱の河越夜戦、ハンニバルの第二次ポエニ戦争ぐらいしか思いつきません。
(大坂の陣の真田幸村などは、完全に防衛戦であるので、除外しています。防衛戦は往々にして、こういう展開になりやすくはあるのです)

 それでもそういう姿を描きたいと思ってしまうのは、勝者のメンタリティーを、絶望的な状況でどう発揮するかを書きたいからです。根性論ではなく、ここから勝利を掴めるような指揮官の振る舞い方は、どうであるのかを書きたいのです。
 この辺りは、第二次ポエニ戦争のハンニバルですね。
 それを一言で言えば、公正、になります。
 責任を全部受けたうえで、おそろしく公正なのです。
 たぶん多くの根性論が持つことができない、致命的な欠陥としてどうしても存在してしまうのは、この公正性、なのだと思います。特に体罰とか、規律維持のための暴力とかを聞くと、なんでこんな指揮官が許されているのだろうと、深刻に考えてしまいます。

 ハンニバルの歴史を学ぶと、いかに彼が支配をしないことを考えていたかがわかると思います。

 指揮力のある名将は、決して支配的ではないのです。
 その姿として、リニーを書けたらいいなあと、かなりお気楽に思っている次第です(笑)。
 それがいつになるのか、まったくお約束できない状況なのですがw リニーはそのどんぞこまで落とし切って、そこからどう這い上がるかを書きたいと思っていることだけは、書いておきたいと思います。
| 書評 | 04:12 | comments(6) | trackbacks(0) |
 ローマが滅びた理由 〜ローマ人の物語を通読して

 塩野七生のローマ人の物語を読了した。ハードカバーにして15冊、わたしは文庫で読んだので43冊。
 いきなり、これをドンと積まれたら読めなかったかもしれない。
 それほどに膨大なドラマの記録であり、考察であるからだ。
 文庫本第1巻の発刊が2002年であるから、実に9年に渡る読書。その間、なんどもなんども読み返し続けた9年の読書だった。
 わたしは、ギボンのローマ帝国衰亡史を読んでいるのだが、確かあれは六ヶ月の読書だったはずだ。最後のページにたどり着いたときは朝の通勤電車の中で、じわじわと感動がきて、隣のめがねのサラリーマンはこのすぐ側にいるのが、ギボンを六ヶ月もかけて読んでそのラストページを繰っている人だとは思わないだろうと、まるで自分史の一ページを繰っているような気さえしたものだった。
 ローマ人の物語はそうではなかった。
 それよりも朽ちていく、老壮のローマが哀れに思えた。
 最後のページを繰ったときに、はっきりと分かったのは、なぜローマが滅びたかだ。ギボンを読んでも分からなかったその理由が、はっきりと分かった。

 塩野七生がそれが分かっているかは疑問である。
 すくなくともそれを明示して書いたのを見たことはないし、そもそもその問題にたったの一度も触れていないので、もしかしてこの概念を知らないのかも知れない。
 ローマが滅びた理由は、システムと運用の問題で説明できるものなのだ。
 システムは制度。
 運用はその使い方である。
 どうも塩野七生はシステムの考察に関しては優れているのだが、運用者が転々と変わる状況下で実効性はどうなっていくか、にはたぶん想像力が及んでいない。
 これは責めているわけではなく、いくら尊敬する作家であっても、たった一人の人間という限界を超えられるものではなく、それでもその限界を認めつつ、分かる人たちにそのローマがどうなったかを伝えてくれただけでも充分どころではない偉業である。
 それが塩野七生の仕事で、あとの仕事は、受け取った人の仕事なのだ。

 さて、ローマ通史を読んで、はっきりと見えたことは、偉大な先人が危機を乗り越えるために作り上げたシステムが、後年になって徐々に弊害となっていく過程である。
 カエサルの作り上げた皇帝制、ディオクレティアヌスの四分割統治、コンスタンティヌス1世のキリスト教の国教化、王権神授説に近い皇位継承のシステム。
 どのシステムも作り上げた本人が統治している間は最大の効果を生み出しているし、まさに必要なシステムだった。それが、徐々に弊害ばかりを生むようになる。これが、この膨大な弊害の積み重なりが、ローマを滅亡させる原因になっていく。
 村上春樹がシステムがうんうんとか、青臭いことをいうのではあるが、ちょっとあの作家は正確さに欠けるようで、正直害悪としか思えない。問題はシステムじゃない。システムを運用できる人材がいなくなることなのだと思う。もしくは、システムが制定された理由を誰もが忘れることだ。もしくは間違った方向で使われることだ。
 村上春樹に聞きたいことがあれば、カエサルが作ったシステムに欠陥はあったか? もしそうならばどこだ、である。共和制がよかったというのであれば、歴史を知らなすぎるし、あの時点で何が出来て、結果どうなったと聞けばカエサルの決断は最善だったと分かる。君が問題とすべきところはもっと別の、もっと高度なところだと、情けなく思いながら、思う。
(ちなみに、カエサルのシステムの欠陥はある。それが指摘できれば一流である)
 システムが問題なのではない。
 なので、システムばかりを論じている塩野七生は、真実にたどり着けないのだが、それよりも大切なのは運用者がどういう意識でいるかなのだ。帝国の運用のために使えば機能し、私腹を肥やすために使えば利権になる。

 ローマ衰亡の歴史は、ピンチになり、英雄が現れ、画期的な制度を制定するが、その英雄が生きているうちは機能するが、死んだとたん、どんどんだめだめになっていき弊害を撒き散らす弊害になるが、それは英雄が作った制度なので維持されて、恐ろしいほどにだめだめな制度がつみあがっていくという過程である。
 ここでいいたいのは、その制度を制定した英雄が生きているうちは機能していることだ。
 しかし、死んだとたん、機能しなくなる。
 ここで、初めて運用者の能力差ですよね、という問題が出てくる。
 ローマは、この問題をついに克服することが出来ずに滅びるのであるが、ここは教訓として、千年近い歴史を積み上げたローマ史から学ぶことがある。

 1.崩壊するような大胆なシステムは、きわめて有能な人間によって生み出される。
 2.その人物は自分の統治のシステムとして、それを使い最大限の効果を発揮する。
 3.しかし、そのシステムを使える有能な人間は極めて少ない。
 4.後継者問題で失敗すると、無能なものがそのシステムを受け継ぐ
 5.無能な後継者は、悪癖ばかりを生むシステムを維持することにこだわる
 6.数百年、悪癖を生むシステムを更新できない。

 この無限ループがローマを滅ぼしたと思う。
 
| 書評 | 22:28 | comments(2) | trackbacks(0) |
 物語のおもしろさに様々な角度から光を当てている!−[書評]「読まず嫌い」

 千野帽子さんの「読まず嫌い」を読む。
 千野さんは、日経ビジネスオンラインの、「毎日が日直。「働く大人」の文学ガイド」を書いている方なので、ご存じの人も多いかと思う。

 ■毎日が日直。「働く大人」の文学ガイド
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080918/171012/


 名前や書き方が女性っぽい感じなので女性かと思う人もあったかと思うのだけど、わたしは常々この方は50代ぐらいの男性だねえと思っていた。今回この書評を書こうと思って調べてみると、やはり男性で、御年45才、うむ、当たらずとも遠からず。

 ■川上未映子さんとの対談に、写真があった。結構お洒落。
 http://www.kyoto-seika.ac.jp/assembly/2008/0703.html


 千野さんというと、わたしはこの方は、しばしば難解で高尚になりがちな文学の話を、フランクで、親しみやすく、この言葉を使うのは抵抗があるがポップにすることが出来る方だと思っていた。わたしはどちらかというと無差別主義から、文学だからと言って特別扱いする必要はない、と思うクチなのだが、生粋の文学好きからのポップな紹介状を読むような感じで、千野さんの文章を読んでいる。

 「読まず嫌い」はそんな紹介状の束と言うよりは、もうちょっとフォーマルな文学の楽しさを教えてくれる案内状に近い。本になっているだけあって、ぎゅうと凝縮されていて、その凝縮感にめまいがする人もあるのではないかと、思ってしまう。
 それでも、分かりやすい、そして知的興奮をあおるような解説は、良質の小説をよむように興奮するし、夢中になるし、面白い。
 目次の内容を転載してみよう。

 1.名作 読んだことはないけど、気になる。
 2.物語 度の強い「嘘つきメガネ」。
 3.学校 麗しく理不尽な学園小説。
 4.恋愛 ロマンスは読むものか、するものか。
 5.犯罪 「モルグ街の殺人」はほんとうに元祖ミステリなのか?
 6.恐怖 ホラーを論じて「心」の問題に及ぶ。
 7.歴史 歴史がお前をこづき回すなら。
 8.ふたたび物語 読まれることで、世界は変わる。
 9.文学全集 意味の接着剤。
 10.文庫本 身の丈一〇五ミリの、青春のお供。
 11.好き嫌い 「わかる」と「おもしろい」
 12.読書 あるいは独房を出て外の暗闇を歩くこと。

 各章(章?)にテーマとつかみのキャッチがあるのであるが、よくありがちなあおり気味の親書などとは違い、この読まず嫌いではこのキャッチから、おっと、そこまで行きますかと呟きたくなるほど、本質的な所まで読者を案内していく。知的にはアグレッシブなのだけど、上品なのでいやらしさはない。

 たとえば、「8.ふたたび物語」には、「読まれることで、世界は変わる。」とキャッチがついているのだが、これを青臭いありがちな文学論だと思って読み始めると、ぎょっとする。この章は、作中の登場人物がフィクションの中で語り読まれることで世界を変えていく、そんな物語を扱っているのだ。


 ■8章はこんな感じ

 まず、この8章では、さわりがあってその後、ホメロスの「オデュッセイア」の話になる。「オデュッセイア」は「イリアス」の続編で、トロイア戦争のアキレスと並ぶ英雄オデュッセウスの放浪の旅を描いたものなのだが、その作中に、流浪の果てに王のところに流れ着き、これまでの冒険を話したところ、王は心を動かされて、オデュッセウスにいろいろ協力してくれる顛末を書いている。
 その結びはこうなっている。

 それは、物語ることによって世界が変わる、その「物語の奇蹟」を描きたかったからではないだろうか。


 いやー、なんという慎み深い主張だろう(笑)。
 にやにやわくわくしながら続きを読もう。

 続くのは「千一夜物語」でこれはご存じのアラビアンナイトである。この顛末は有名だ。女性不信で毎日妻を殺す王の元に嫁いだ后が、王によなよな面白い話を聞かせ、王は続きが気になってその后を殺せない、という話であるのだ。
 本書ではその物語の内容を分かりやすく説明し、どんな話なのかを読者に説明する。
 そして最後はこうしめる。

 シャハラザードはこうして王を改心させ、自分の命を救い、そして全土の娘たちの命をも救った。なんとパフォーマディヴな物語なのだろう。


 たたみかけてきます(笑)。
 いい構成ですね。

 この後出てくるのは、「パミラ 淑徳の報い」(サミュエル・リチャードソン、1740)というほとんどの人が聞いたこともないようなマニアックな作品だ。
 この作品は、若旦那が美しい使用人をものにしようとあらゆる手を使ってくるのから逃れるサヴァイバル譚らしいのであるが、ここで取り上げられているのは、それがその使用人パミラの手紙や日記の連なりという形式で物語が展開されるから。
 長いのだけど引用してみよう。

 つまり、一般の小説と違って、書簡体・日記体小説では、物語の展開を報告する言葉自体が、登場人物たちによって作中でじっさいに物理的に書かれ、書簡体の場合には宛先の作中人物によって読まれる(ことを、書いた人物が期待している)。さらに「パミラ」の場合には、本来の宛先以外の人物によって手紙が読まれたり、もともと人に見せるはずでなかった日記がこっそり、あるいは公然と、読まれるということが、あまりに頻繁に起こるのである。
 というよりも、手紙の盗み読みや日記の回し読みという行為自体が、ストーリーを動かしたり、登場人物たちの運命を変えたり、――そしてなによりだいじなことに――悪辣な主人だったB−氏の気持ちを変えたりしてしまう。これが「物語の奇跡」だ。


 こんな感じで、パミラの解説をして、その後同じ類型に当たる作品を幾つか紹介して、締めがやってくる。

 逆に言えば、パミラの手紙を盗み読んだB−氏、シェパードの手記を借りて読んだポワロといった登場人物たちは、私たち読者と同じ文面を――自分たちが登場する現在進行形の物語を――読んできた、ということになる。そしてそんな物語を、あなたまでもが読むことによって、彼らはあなたの世界をすら変えてしまうのだ。


 なかなか大胆な飛躍である。


 ■読まず嫌いを全部読み通して

 本書は、例として紹介した8章と同じようにどの章も、筆者の膨大な(そして偏食気味な)読書歴を通して得た知見を用いながら、様々な角度から、文学というものに切り込んでいくという構成になっている。
 その構成が、とても上品で、そして知的にアグレッシブで、そしてフランクで分かりやすく、思わずほー、そんな作品があるのか、読んでみたいなと思いたくなるような構成になっていると思う。
 文学好きに向けてと言うよりも、敬遠している人々へのポップな案内状と言った風で、かなりマニアックな作品ばかり扱っているので、おそらく文学好きでも楽しめそうな内容である。

 物語のおもしろさに様々な角度からひかりを当てる、本書。
 ぜひおすすめですよ!

JUGEMテーマ:読書


| 書評 | 13:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
もはやこれは最高傑作 え? 書いたのはフェリックス? [書評]「審判」ディック・フランシス&フェリックス・フランシス


 ディック・フランシスの、というよりもフェリックス・フランシスの最新刊「審判」を読む。
 普通に面白くて、正直に言うと戸惑う。
 長年のファンである、わたしにさえ、ディック・フランシスが書いた小説にしか見えないのだ。
 しかし、訳者あとがきの説明によれば、これを書いているのは明らかにフェリックスであり、英国の新聞や、米国の新聞によれば、これまでの手堅い文章に、さらに新しい視点が加わって素晴らしい小説に仕上がっている、とわたしが感じている感想とほとんど同じ感想を書評者諸氏は感じているようなのである。
 これは以前も書いたが、正直少なくない衝撃を受ける。

 ■作家性は相続できるのかの実験 ディック・フランシス「祝宴」
 http://blog.story-fact.com/?eid=858410


 かいつまんで言えば、世界最高峰と称させるミステリー作家の作風を息子が相続して、ゴーストライティングしてしまっている、という話なのだ。わたしなどは、世の中で最も実力主義なのは小説家だろうと思っていただけに、この世界最高峰の実力を、小説をほとんど書いたことがないだろう息子が承継してしまっている、という事実を突きつけられて、唖然としてしまっているのである。
 いまだ、この点を検証している人もないようなので、そっちも驚きというか、見る眼がないというよりは、あまりにも大きなパラダイムシフトに、ついて行けないというか、事実を受け入れられないのだろうと思ってしまう。

 前回も書いたが、これは日本では頻繁に行われてきた。
 たとえば、狩野派だよといえば分かるだろうし、日本の明治以前の美術作品というのは、ほとんど、代々受け継がれていく名工の家に伝えられてきたものだからである。
 たとえば、お茶なら千家十職が有名である。
 こういった流れに対するカウンターカルチャーとして琳派のようなムーブメントも起こるのだが、それによって狩野派が仕事を失ったという話は聞かない。
 しかし、明治以降は個人主義が主流となり、名工の息子もまた名工という事はあまり起こらなくなっている。唯一の例外は高村光雲から高村光太郎の相続なのだが、この辺がどうやっておこったかは光太郎の文書を読むと非常によく分かる。幼い頃からきちっとした修行を受けているのである。
 ある意味、高村家が古風だったために起こったことだと思われる。
 なので、このフランシス家で起こっていることは、古き良き日本の職工家で代々行われて、それなりに機能してきた事なので、別に驚くことではないし、むしろこちらの方が普通なのだ、となだめることができないでもないのだが、いや、無理です(笑)。
 アガサ・クリスティーの孫娘が、いまだにポワロとか書いている状況とか想像してみてください。
 ディケンズ家が、シェイクスピア家が、夏目家が、手塚家が。
 そんなことがこの世の中で起こったことは、わたしが知る限りでは、一度もないのだ。

 しかし、重要なのはそこではない。
 重要なのは、このわたしでさえ、各新聞社でさえ、このフェリックスの小説を、ディック・フランシスの小説と見分けがつかない、というところにある。
 もし、わたしがディック・フランシスの小説の中に、たった一冊だけフェリックスがかいた作品があると言われれば、わたしは迷ったあげく、「烈風」あたりを選ぶだろう。



 ディック・フランシスの後期の作品の中でも、特に凡庸な作品だからだ。
 そして、もしこの「審判」を挙げられたら、わたし怒り狂うかも知れない。



 馬鹿を言うな! ディック・フランシスを侮辱するのか! と。
 これこそがディック・フランシスの新境地であり、今後の作品が素晴らしい作品になる事を保証する唯一の保証書なのだ! と。
 さらに無理をしてこんな事を言うかも知れない。

 ディック・フランシスには、これまで3冊の転機なる作品があった。

 1冊目は「興奮」、片手をなくした元障害騎手の探偵シッド・ハレーの初登場作品。
 これこそが、ディック・フランシスの名を世界にとどろかせた記念碑的な作品だ!

 2冊目は「利腕
」、シッド・ハレー再登場の作品で、この作品後、ディック・フランシスは、様々な職業をリサーチしはじめ、手堅いリサーチがディック・フランシス作品の特徴となっていく。
 これこそが、真のディック・フランシスが目覚めた瞬間だ!

 そして3冊目は同じくシッド・ハレーものの「敵手」を挙げたいところであるが、実際にはこの作品の次の作品である「不屈」がいまだにディック・フランシス作品の最高傑作と名高い。
 というか、この不屈でディック・フランシスはおのれのすべてを書ききってしまったのではないかと思うほどで、その後は凡庸な作品が続く。





 それが、前作の「祝宴」で、復活の手応えをファンのだれもが感じた。
 そして、この「審判」で、だれもが頷いたのだ。
 「不屈」で達した高みを継承する作品が出てきたと。
 これがディック・フランシスの復活の狼煙なのだ! と。





 しかし、もちろん、事実は違う。
 ディック・フランシスはすでに89歳で、こんな高齢で小説、しかもばりばりのエンターテイメント小説を書ける年齢ではない。なので、どう頑張っても、この小説をディック・フランシスが書いているということは信じられないのであるし、実際にはフェリックスが書いていると、本人も認めているし、共著になっている。
 なにが問題なのか。
 問題は、これをディック・フランシスが書いているとしか思えない、ところにある。
 引用してみよう。

 いくつかの新聞インタビューでフェリックスは、メアリ夫人の墓のあるケイマン諸島に住んでいる父ディックと、原稿を送り電話で検討するという作業を繰り返して本書を完成させたと述べている。オックスフォードシャーに住むフェリックスが何度かケイマンと英国を行き来したらしいが、主なやりとりは電話で行ったそうだ。《サンデー・タイムズ》紙が父子に行ったインタビューの中でフェリックスが語っているように、議論・検討を重ねながら作品を仕上げていく「ディック・フランシスの小説工房のやりかたはかわっていない」のだ。

 実際に、このインタビューはWeb上に掲載されているので、もちろん読むことができる。
 http://entertainment.timesonline.co.uk/tol/
 arts_and_entertainment/books/article4639752.ece


 なかなか、生々しい事が書かれている。

I want to know what it’s like writing a book with a close family member, and how his latest collaboration with Felix took off. Felix says: “I got a call from our agent and he said, ‘We have a problem. There’s this backlist of wonderful Dick Francis stories but no one is reading them; we need a new Dick Francis novel. We need a new frontlist.’ ” At this point, Felix relates how he hesitated: his father, then 84, had been through two years of hospital hell and bereavement, and hadn’t produced a book for four years.


 二行目から読んでみよう。Felix says: の後だ。

「わたしはわたしたちのエージェントから電話受け、かれは言った。「我々は問題を抱えている。ここにはディック・フランシスの物語の素晴らしい在庫書籍目録がある。しかし、ここには読んでいない本は一冊もない(訳者注:つまりディック・フランシスファンが読んでないディック・フランシスの本なんてもう存在していないということ)。わたしたちは新しいディック・フランシスの本が欲しい。わたしたちは、新しい出版目録を必要としている」」


 ここでフェリックスは、84歳の父が書くことができるのだろうかと考えている。
 そして、またエージェントが言う。

“Then the agent said, ‘I’ve got someone in mind who might write one’, and I said, ‘If anyone’s going to have a go, I’d rather it was me.’ I said I would do for my father what Mum had done in terms of research. It took 18 months, but Under Orders was the result ? though the title should have been Hospital Rooms I Have Known,” Felix concludes.

「そのとき、エージェントは言ったのです。「わたしはたぶん書くべき誰かのことを知っている」そしてわたしは言いました。「もし誰かがそれを試してみるなら、わたしはむしろそれがわたしであって欲しい」わたしは言いました。わたしはわたしの父のために、母がリサーチと呼んでいたことをしてきました。それは18ヶ月ましたが、「再起」という結果になりました。そのタイトルは病室で書かれるべきだったとは思うのですが」

“And I was more than delighted,” murmurs Dick.

「「そして、それをわたしは十二分に喜んでいた」 つぶやく、ディック」


 と、まあこんな感じで進んだみたいですね。
 あとはインタビュアーが馬鹿っぽいことしか聞いていないので、英文を読んで欲しいのですが、最後の文章が、ちょっとすとんと落ちると言うか、納得してしまう。

A long time, we all hope. My bet is that the Francis franchise is here to stay.

「長い間、わたしたちはみんな望んでいました。わたしの賭は、フランシス・フランチャイズがここに居続ける事なのです」


 ここで、なんと言いますか、フランシス派創設の決意宣言というか、まあ、狩野派みたいなもんだよねえ、と思ってしまうのですが、はたして、そのフランシス工房の新作「審決」はどうだったかというと、
 ――「不屈」で達した高みを継承する作品が出てきたと。
 というレベルにまで達しているのですよね、もうこうなってくると、「不屈」を書いたのはフェリックスじゃないの?! と思いたくなってしまうほど。
 ちなみに、あとがきでは「何度かケイマンと英国を行き来した」と書いているが、これは、

Felix bounced between their houses like a yo-yo.


 なので、むしろ、ずっと行き来してたみたいなニュアンス。
 状況的には、基本的にはメールで送って、それをプリントアウトしたディック・フランシスが電話でフェリックスと議論していて、その間にも、フェリックスはケイマンと英国をヨーヨーのように行き来していた、という、まあ、結構、ディック・フランシスもがんがん口を出して書いた、という感じのよう。

 んー、なるほど。


 ちなみに本作は、法廷弁護士のお話。
 一応法律職であるわたしとしても、なかなかリアルだな、と思う内容でありつつ、法律の限界に挑むみたいなところもあって、とても社会派でありつつ、衝撃的なラストでありつつ、最後の最後まで息のつけないサスペンスであり、まあ、ぶっちゃけ面白いのだ。えーと、わたしがディック・フランシス作品に面白い、というときは、あの映画は面白かったといっている場合と違い、最高峰の中の最高峰として充分に楽しめる内容だし、面白かったと。まあ、わざわざ面白いというのもそんなことは当たり前なので馬鹿らしいけど、その中でも面白かった、という意味だ。
 しかも、本書は実はだいぶ構成を変えている。
 一種のディック・フランシス・パターンみたいなのはあるのだが、そのうちの3割ぐらいが変わっている。たぶん、わたしのようなディック・フランシスファンであれば同意してもらえると思うのだが、序盤の展開を妙にひねってあって、うーん、説明が難しいのであるが、シェイクスピアの均等展開をかなり意識しているのでは、と思う感じなっている。
 つまり出来事が二つの流れのスパイラルで構成されていて、4章のラストで、謎のバランスの配置が均等になるようにきちっと合わされている気がする。
 かちっと音が鳴るのが聞こえてくるぐらい。

 この話は長くなるのだが、これまで書いてきていなかった事なので難しいのだが。というか、わたしはこのシェイクスピアの構成方法は神経質すぎると思っていたので、無視していたのだが、フランシス工房がこれを丁寧になぞっているのを見ると、おっとこれは実は重要だったのだなあ、という感じ。

 この構成方法はシェイクスピアが、ルネサンスの作家だった事をよく表すとされているのですが、ようするに話の展開が、どっちに展開するか分からないように、話のポイントポイントで必ず均衡するようにバランスを取る、みたいな話。
 たとえば、右派に5人、左派に5人の戦士がいて、どっちが勝つかみたいな話の時に、

 1.右5 左5 
     ↓   右派の2人が死ぬ。
 2.右3 左5
     ↓   左派の1人が死ぬ。
 3.右3 左4
     ↓   左派の1人が死ぬ。
 4.右3 左3

 と、ここで、いちどかちっと均衡するポイントを作る、みたいな感じ。
 この後も、

 4.右3 左3
     ↓   左派が1人死ぬ。
 5.右3 左2
     ↓   右派が2人死ぬ。
 6.右1 左2
     ↓   左派が1人死ぬ。
 7.右1 左1

 ここで、また均衡する。
 こういう感じの構成をすることがシェイクスピアは多いのです。なんかシェイクスピアっぽいでしょ(笑)。

 ただ、やはりこれはどうなのかなあ、と。意味あるのかなあと思っていたのですが、推理小説でだれが犯人だろう、どんな事件なんだろうという謎の構成でこれを使われているのを見て、ほほー、と思ったというか、えらく手の込んだことをするなあと思ってしまったのです。

 これ以外にも、おっとっとそういうことだったのか、と思うところも合ったのですが、その辺を書いていると、本一冊ぐらいになりそうなので、この辺で。


 総じて言うと、面白かった。
 ただ、これを今後も続けられるのかは未知数。
 それと日本では結構、高尚な作家と見られているのに、英国ではバイオレンス小説と思われているところがちょっと衝撃だったかも(笑)。おまえら、どこ読んだら、そうなるんだよwww と。

| 書評 | 14:41 | comments(0) | trackbacks(0) | 昨年の記事
プロフェッショナルのメンタリティ − [書評]ヘッジホッグ−アブない金融錬金術師たち
 とりあえず、準備体操がてら。

 もし、このタイトルだけをみていたら、わたしはこの本を読まなかった思う。
 仮に表紙を見たとしても、余計読まなかったと思う。
 著者名を見ても同じだ−わたしは不勉強にも彼を知らない。
 某所での絶賛評を読み、これはただ事ではないと感じた。
 アマゾンの書評を見るとたしかに爆発している。
 この本は断じて金融錬金術師たちを面白おかしく書いた本ではない(いや、面白おかしくもあるのだが)。
 多彩な横顔を見せるヘッジファンドマネージャーたちの逸話を紹介しながら、その底流に流れるプロフェッショナルのメンタリティーを浮き彫りにしようとした作品である。
 アカデミー賞作品に、子供向けアニメ映画のタイトルがついている。
 圧倒的な密度と迫力とウィットと見識を持って、プロのヘッジファンド屋がいかなるものかを書ききったのが本書と言えよう。

 本書の著者はモルガン・スタンレーの運用部門を立ち上げ、30年に渡ってそのトップに立っていたバートン・ビッグス。
 2003年に退社後、仲間と立ち上げた18億ドルのヘッジファンドを運用する、現役ばりばりである。御歳70歳。父に大投資家を持つサラブレッドであり、米国に誕生した初期のヘッジファンドにも関わるなど、ヘッジファンド業界の生き字引と呼ばれる人である。

 こう書くと、いかにもお堅いバンカーをイメージしてしまう。
 しかし、どうだろう?

 引き金野郎は仕事で何度かの浮き沈みを経験してきた。いつもはやりに乗っかるのだが、よく、ちょっと遅かったり、盛り下がる直前にやってきたりする。今も昔もその間も、引き金ジムはモメンタム投資家、業界用語でいうプレイヤーというやつだ。彼の強み(弱みでもあるけれど)は、痛みをすぐ忘れてしまうことである。必ず足の速いお金の行くところに現れ、トレンドに乗ったはやりの市場で大儲けする。しかし、これまで、彼はレミングを追いかけて毎度おなじみ崖の向こうまで行ってしまうことがよくあった。だが、私は彼が好きだ。どんなに調子に乗っているときも自分の口から出るでまかせを本当に信じ込んでいるし、自分の正体が何者であるかを隠そうとしない。何者と言えば、変わり身と売り買いの回転だけは速いお調子者の営業マンだ。


 これは引き金ジムというファンドマネージャー(たぶん・・・)を紹介する稿に出てくる文章を引用した。
 わたしは、しばらくこの方が40代後半ではないかと思っていた。それほど若々しく、そしてなによりも、あまりにもセクシーな文章を書きすぎるからだ。もしかすると、あまりにも一字に入っている情報の量が多すぎて眼がちかちかするかもなのだが、わたしはこの本書を読みながら、
「これは、最上級の金融ハードボイルドだ、あ、ノンフィクション」
 と思うようになった。
 著者であるビッグス自身、大学時代は小説を書いていて、不採用で何度も何度も帰ってくるのが嫌になって父に投資家になりたいと切り出したというエピソードを書いている。
 70年間のプロフェッショナルな知見を元に、それを描き出したらどうなるか。
 わたしには、ストレートのウィスキーを樽いっぱい飲むように思えた。
 これは刺激が強すぎるのである。

 さて、そういうわけで、本書に感銘を受けた箇所をすべて書くのは不可能である。
 たぶん、本一冊ぐらいになるだろう。
 いちいち、わたしが感銘を受けた場所を語られても迷惑だろう。
 なので、全体から受けた印象について語ろう。

 わたしが圧倒的に感じたのは、その底辺に流れるプロフェッショナルのメンタリティーであった。
 ヘッジファンド屋は、日本人の中には揶揄する人もあるだろうが、彼らは資産運用のプロなのである。サムライが主君を守るように、海兵隊がアメリカの正義のために戦うように、ヘッジファンド屋は顧客の預けた資産のために戦う。そこにあるのは毎日のように降りかかる重圧であり、一度失敗すれば、よほどタフでなければ立ち直れない、戦場のようなマーケットである。
 序盤の第3章で、著者本人が仕掛けた石油の空売りと、その顛末が記載されているが、そこを読むだけで、軋む様な泥沼戦の重圧が伝わってくる。あまりに迫力がありすぎて、これが2004年に実際に、地球のほぼ裏側で起こっていたとは信じがたい。
 そこにあるのはプレッシャーに耐え続けるプロフェッショナルのメンタリティーである。
 結局のところ彼は、完全な読み違えによる失敗を、顧客の損失を限りなく少なくすることで乗り切る。

 この辺りから、本書も調子が上がり始め、全開気味に展開し始める。
 以下章立てを並べてみよう。

第1章 ヘッジホッグの宴
第2章 夢見るゴールデン・ボーイたち
第3章 石油の空売りで大勝負
第4章 根性なしに空売りはできない
第5章 さあファンドを売り込め!
第6章 全国資金集め紀行
第7章 運用開始前夜――甦る悪夢
第8章 ヘッジホッグの多彩な面々
第9章 長期サイクルという分水嶺
第10章 生き残りを賭けた闘い
第11章 「見える目」を持つ男たち
第12章 波動のお告げと集団思考の罠
第13章 インターネット舞踏会に現れたピエロ
第14章 偉大な投資家は皆、厳しいマニアだ
第15章 パフォーマンスの切れ目が縁の切れ目
第16章 正味のリターンで考えろ
第17章 投資の3つの宗派――グロース、バリュー、何でもあり
第18章 大きいことは悪いこと
第19章 バブルと狂信の徒
第20章 ウォール街 世にも不思議な物語
第21章 ケインズは元祖ヘッジホッグ


 第一章〜第二章はつかみ。
 ただ、ここは失敗しているかなあ・・・。なんか退屈である。
 いや、今後が面白すぎるのである。この辺は面白くなくてもまあ、さらっと流そう。

 第三章〜第四章が石油空売りの顛末。
 第四章は暗黒のプリンスと呼ばれる空売り師のエピソードを紹介しながら、石油の顛末がどうだったが最後に入る。

 第五章〜第七章はヘッジファンド立ち上げ期の資金集めの顛末。
 立ち上げまでの日記が中心の展開となる。不安の日々である。

 第八章は著者が付き合っているヘッジホッグ(ヘッジファンド屋の俗称)の紹介。

 第九章以下は省略。

 えー! と文句を言われそうなのですが(笑)、実は本書、構成があるのは八章までなんです。第九章以降はテーマにあわせて、長文の短編が連なっているという感じで、実は一つの流れがあるわけではない。
 本書が紹介しにくいのは、たぶん、このせいなのですね。

 まあ、ここで無理やり紹介しても仕方なさそうなので、わたしもわたしらしいやり方で本書のよいところを伝えてみよう。

 本書は赤裸々なまでに、ヘッジファンドの実態が語られる。
 あなたが気になっているのは、そう、これだけの見識を持っている筆者は、日々どこから情報を得ているのだろうか、ではないですか?
 これは、簡単。
 超簡単。
 というのは、本書に紹介があるから。
 というわけで、それをレジュメ風にまとめてみましょう。

 ・新聞
  →ニューヨーク・タイムズとFT
   →電車の中で読む。
    →トマス・フリードマンのコラムは必ず読む。
    →FTは企業ニュースがよい
  →ウォールストリートジャーナル
   →なるべく読むようにしている
   →アジア版やヨーロッパ版はいくつかの点でアメリカ版よりよい
  →インターナショナル・ヘラルド・ドリビューン
   →アジア・ヨーロッパ旅行中は。
    →世界最高の新聞だと思っている。
  #最近は証券会社のレポートよりも新聞を読んだほうがよのではと思い始めている。

 ・雑誌
  →エコノミスト誌
   →週末にじっくり読む。
   →疑問余地なく世界最高。グローバルな内容で群を抜いている。
  →タイム誌、ニューヨーカー誌、ニューズウィーク誌
   →何か面白い記事がないか探す
   →昔はもっとよかった。
  →フォーチュン誌
   →長い記事に非常に鋭い、とてもすぐれたものがある。
  →インスティテューショナル・インベスター誌、アブソリュート・リターン誌、インターナショナル・エコノミー誌
   →読書リストに入っている。しかし読める部分は限られている。

 ・調査レポート
  →25個ほどの情報源に絞っている。
   →アナリスト軸と調査会社軸
  →モルガン・スタンレー、JPモルガン、ゴールドマン・サックス、クレディ・リヨネ、ISI、バーンスタイン、クレディ・スイス、バンク・クレジット・アナリスト、メリルリンチ、インテグラル・アソシエイツ、ベア・スターンズ。
   →これ以外の企業の調査レポートは秘書が消す。
  →エコノミストの書いたレポートは読まない。

 ・その他
  →ブルームバーグは邪魔
  →eメールはうざい
  →電話もうざい
  →図書室みたいなものを用意して、そこで調査レポートを読んでいるらしい。

 著者の結論。

 読むのが大事なのではない。賢く読むことが大事なのである。

 とのこと。

 続きは、本書で。


ヘッジホッグ


| 書評 | 22:18 | comments(0) | trackbacks(0) | 昨年の記事
「サリバン家のお引越し」 シリーズ 野尻抱介を考える
 本シリーズは、グーグル先生に本ブログの趣旨をご理解いただき、ハードカバーSFが本ブログのスポンサーになってくれるよう、気長に待ち続ける連載です。


 なんと名付けたらよいのだろうかと迷う。
 スーパーハードなSFでありながら、内容はライトでポップ。
 それでいながら文学的でもあり、波乱万丈のめくるめく、胸のすくようなエンターテイメントである。
 広大な光景を描くかと思えば、繊細な視点も忘れない。
 いったいこんな作家がほかにあっただろうかと、わたしは首をかしげる。
 わたしにとって野尻抱介のクレギオンシリーズは、そういう作品群だ。

 わたしが現役の中で書き続けて欲しいと思うほどのファンである日本人SF作家は2人しかいなく、そのうち一人が大原まり子、そしてもう一人がこの野尻抱介なのである。
 あとはどうでもいい。

 野尻抱介の作品群の中で、クレギオンシリーズが最高峰なのは誰もが認めるところであると思うし、これは疑う余地がない。
 最近、沈黙のフライバイで何らかの賞をとって、ロケットガールがアニメ化されるようであるが、その辺はどうでもいい。世の中は見る目がないし、たぶんクレギオンは権利がゲーム会社にあるから難しいのかもだけど、古参のファンであれば野尻抱介といえばクレギオンであった。
 最近、早川から出ているのだが、これがいただけない。
 表紙がハードSFチックである。
 富士見版の表紙を見て欲しいものである。
 これは疑う余地のないライトノベルである。
 当時も売れていたし、この作品群から、スティーブン・バクスターのようなハードSFに移っていった人も、賢明な読者諸氏の中にはいるはずだ。

 (ちょwww、センセ! ホームページ見てたら、初音ミクにはまってるじゃないですかぁ!!! 「初音ミクで作るMAD動画」じゃないっすよ!!! どんだけ趣味かぶってるんですかぁ(笑))

 わたしは、多分読み始めた頃、書き始めた頃より、ずっと抱えていた問題があった。
 niftyのフォーラムなどでも話題になっていたのであるが、ライトノベルの読み手が、その先のSFの世界などに飛躍していかないという問題である。
 古参からライト読みまでごちゃごちゃしながら、あれこれ作品を話していたフォーラム内にあって、この問題は常に頭をもたげ、古参のSFファンにあれこれ勧められながら(スタージョンとか)、読みながら書きながら鍛えられていったの思い出す。
 その中で、ほぼ衆目一致していたのは、野尻抱介はどっちからも支持されるということだった。

 読んでみると、不思議な書き手である。
 内容は、ばりばりのハードSF。
 どう考えてもマニアックの部類に入るスーパーハードな内容。
 しかし、文章はどう見てもライトな文章。
 大原まり子も多少かぶるのだが、こういう作家は非常に視野が広い。言ってみれば藤子不二夫みたいな視野を持っている。今風に言えばグローバルな視野を持った作家という感じだろうか。あー、グローバルでは狭いので、ギャラクシーな視野とでも言って持ち上げておこう。
 まあ、広い価値観を受容する感性を持っているのだ。
 狭苦しいSFの地平を軽々と超えていく作家。
 いわば、越境者である。
 昨今の、ケータイ小説などの議論を読んでいて、また越境問題か、と思ってしまう。わたしにはなんとも言いがたい。そのうち越境者が現れるかもしれないし、永遠に現れないかもしれない。

 最近、なぜだか、山本周五郎を読んでいて、笑ってしまうことがある。
 わたしは昔、山本周五郎の短編を、見事な構成力と思っていたし、文学的だと思っていたときがあったが、今になってみれば、非常に庶民的で、親しみやすく、構成もシンプルで、多少浅い部分もあると思うようになった。
 ただ、それは内容が陳腐というわけではなく、たとえて言えば落語を聴いているみたいな気分なるということである。

 最近気付いたのは、山本周五郎の書く登場人物はいつも酒ばっかり飲んでいること。
 いや、まあ、当時それぐらいしか楽しみがなかったのは分かるのだけれども、なにかあるとすぐに飲みに行こうという話になるので笑ってしまうのだ。そんな真昼間から・・・、と。
 また、これは「ひやめし物語」という話だが、いい年になっても働きもせず居候の若者が出てくる。当時、武家の四男坊などに生まれてしまうと、城詰めの仕事もなく、家禄もなく、しかたなく兄の家の北向きの部屋に居候する以外なかったという事情があるらしい。
 ちょっと引用してみよう。

 前例はいくらでもある。その中でも母方の叔父で中井岡三郎という、もう四十七八になる人のことが思いだされる。三男なのだが、その年になってもまだ部屋住で、尺八を吹いたり、庭いじりをしたり、暗い陰気な部屋で棋譜を片手にひっそりと碁石を並べたりして暮らしている。ひところ庭へ藍や紅花や紫草などという染色用の草木とか、二十種ばかりの薬草を栽培していた。
 ――道楽じゃないよ、とんでもない。
 その叔父は人のよさそうな顔で笑いながら、左手の指で輪を拵えて、なにかを呷るまねをした。――これだよ、みんな飲み代だよ。
 大四郎は、いまそのことを思いだしてうんざりした。


 また、酒かと笑ってしまうのだが、始終こんな感じ。
 これで豊穣な江戸文化が花開かなければ、それこそうそだろうが、なんとも落語の世界で繰り広げられる世界ではないか。
 最近、NHKの連続テレビ小説のちりとてちんがネット族の間で話題らしいのだが、あれも落語をそのまま、こちらの世界に「越境させている」作品である。わたしは周囲が見ているのを興味なさそうにしているだけなので、なにも言うことはないのであるが、ラジオから聞こえてくる落語を、若い世代がドラマとして楽しんでいるのであれば、これは見事な越境ではないか。
 そうか、わたしが好きな北村薫も落語であった。

 しかし、山本周五郎となると、なんだかかたっくるしいイメージがある。
 確かにわたしがはじめて手に取ったときも、そのびっしりと敷き詰められた文字のというか物語のイメージの濃度にめまいがしたものである。しかし、我慢して読んでいると、短編2本も読まないうちに、だんだんと夢中になってくる。そして、書いてある内容は、非常にライトでポップな、胸のすくような短編であることに気付くのだ。
 文体を無視すれば、それは野尻抱介と変わらない。
 (というか、当時は宮部みゆきと変わらないだったのだが)
 いやそれどころか、むしろ野尻抱介のほうがより掘り込んだ描写をしていることに気付くのだ。

 なぜだか、読者は文体に騙されてしまう。
 特に批評家は文体に騙される。
 よしもとばななを、中学生にでも書けるとか、すさまじくありえない見解を平気で述べる。
 あの緻密な文章が読めないということである。
 というか、あれが緻密だということが分からないということである。
 いったい何を読んでいるのだろう?
 江国香織とか、ありえない完成度で怖気づいてしまう。
 梨木香歩はぜったい北村薫の影響を受けているとわたしは思う。
 そうそう「西の魔女が死んだ」の映画化はまだかいな?
 へぼい映画作ってる場合じゃないだろう。
 日本文学の一つの頂上である。
 おっと、2008年実写化だって!!
 やったー、もうなんどもなんども言ってきた甲斐があったといういうものだ。
 よっしゃー!!!
 あー、そうそう、次は大原まり子の「タイム・リーパ」だから。
 絶対オススメだから。
 よろしく。がんばってね。
 あー、あと、坂東真砂子の「桜雨」もよろしく。

 よしもとばななは、ご本人も越境者だったらしく、全世界の若者たちに読まれている。
 ちなみに、念のために言っておくがわたしは村上春樹は大っ嫌いである。
 これはわたしと村上春樹の相性の問題であって、村上春樹が悪いわけではないのだが。
 そして、しばしば野尻抱介はよしもとばなな以上に緻密な文章を書くのはもちろんのこと、物語の緻密さでは追随を許さない。

 その最高峰がクレギオンだ。


 さて、クレギオンシリーズといっても、名作ぞろいで非常に困る。
 もうなんたってクレギオンですからね・・・。
 並べてみよう。

 ヴェイスの盲点
 フェイダーリンクの鯨
 アンクスの海賊
 サリバン家のお引っ越し
 タリファの子守り歌
 アフナスの貴石
 ベクフットの虜

 めくるめくようである。
 クレギオンの最高峰はなにかという議論で、三日三晩話せそうであるが、定番どころでは、「ヴェイスの盲点」と「アンクスの海賊」でもめそうである。
 ヴェイスはその物語の切れ味、アンクスは恒星系を緻密に使っての艦隊戦がすばらしい。そうそう、チェスの仕掛けが見事だ。あれは胸がすく。
 たとえば、わたしはタリファの広大な惑星の描写も好きだし、フェイダーリンクの美しい惑星感も好きだ。とにかく設定がいい。
 ちなみに、SF者たちの中でもっとも評価が高いのはアンクスである。
 動きが激しいし、スペースオペラとしてなじんだ世界だからだろう。

 しかし、その中でも、どうしても最高傑作を選ばなければならないとしたら、わたしは迷いなく「サリバン家のお引越し」を選ぶ。
 多くの人はなぜこのタイトルの作品が、ハードSFなのかと疑問に思うだろう。
 奇抜な設定があるわけではない。
 単純なはずの平凡な一家のお引越しを、ハードSF者がうむむとうなってしまうスーパーハードSFに変えてしまう、それが野尻抱介のクレギオンの真髄であると思う。
 なんの仕掛けもない。
 宇宙生物も、わくわくするような設定もない。
 ほんとうに落語に出てきそうな、お引越し。
 それを野尻抱介が普通に書くと、それがハードSFになるのである。


 しかし、この作品が困るのは、内容に少しでも触れると、その見事なタペストリがめちゃくちゃになってしまうところである。
 念のために言っておくと、これを読む気であるなら、ほかの評を読んではいけない。なぜなら、ほんの少しでもそれに触れるとたちまちにネタばれとなってしまうからだ。
 うーん、どうしたらよいのだろうか。
 とりあえず、絶対に損しないから読んでみるといいよ、と無責任な言葉で終えることにする。
 あー、どうせなら、ヴェイスから読み始めて4作目だから、4作続けて読んでも問題ない。
 というかそれがオススメだ。

 参ったことにこれほど勧めるのが難しい小説はない(笑)。
 傑作とはそういうものだ。
 落語の面白さを伝えるのが、非常に難しいのと同じように。

| 書評 | 21:46 | comments(0) | trackbacks(0) |
ナチスとのわが闘争


 昨日、貫徹をして、疲労気味である。
 別に仕事をしていたわけではない。
 よくありがちな話なのだが、本を読んでいるうちに、夢中になって眠れなくなってしまったのである。

 ここ半年ぐらいのゆるいわたしの興味は、ドイツ史に向かっている。
 特許の仕事の関係上、プロイセン法に興味を持ち、その流れから、一次大戦、ナチスの台頭、二次大戦の歴史を興味深く読んでいる。
 わたしには、ドイツ史を語るほどの力量はないし、まだドイツのかたがたも上手く消化できていない歴史のようである。また、わたしはドイツの歴史を語りたいわけではなく、あの時何が起こっていたかを、正確に掴みたいだけである。
 なので、わたしが「ナチスとのわが闘争」を読み始めたとき、その心境は非常にフラットな心持であった。
 ナチスに対するイデオロギー的な興味はなく、あえて言えば、わたしは科学技術がどのように社会に影響を与えたかが知りたかった。
 そして、本書は、そのことには一切触れていない。
 わたしは歴史の証言者としての、正確な陳述を求めて本書を読んだ。
 本書は、わたしの想像を越えるほどの力量を持って、その期待に応えてくれたし、そのおかげで今もショックを引きずっている。

 本書、「ナチスとのわが闘争」は、法律従事者(判事などの候補生であった)からジャーナリズムに転進し、その後歴史家になった、セヴァスチャン・ハフナーの作である。
 2001年に刊行され、ドイツ・ノンフィクション分野のトップに居座り続け、ナチスとはなんだったのかを解き明かす書として、ドイツ中で高い評価を受けた書である。
 本書は、ハフナーの半生をたどる形で、どのようにドイツが見えていたかを、多彩で、透徹し、趣深いエピソードと深い洞察で、厚い紙面を覆いつくしている。本書は、構想時の1/3も描かれていないという未完の状態で刊行されたが、それだけでもどっしりとした重量をもって迫ってくる。
 破壊されていくドイツの姿が、そこに浮き彫りになっていく。
 法が死んでいく姿がそこにはある。
 わたしは何の感傷もなく、怒りもなく、ただ、そこにあった歴史として、これを読んだ。
 明晰で、優れた歴史家でもあるハフナーは、自分の半生を陳述した。
 その半生に渦巻いていた感情、思考、見たもの、聞いたこと。
 それが正確に記載されてあった。
 これは非常に貴重な一次資料だと思う。
 多くのドイツ人を揺さぶった理由が分かる気がした。
 2001年まで、誰も書くことが出来なかった、そしてハフナーでさえ1/3も書けなかった歴史である。歴史というのは、そういうものであると、改めて知るのだ。
 そして、わたしと同じような年齢の青年に起こったことだと、重く受け止めるのだ。

 



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