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 『消える月』


 メモ魔だと言われるようになったのは心外で、最近つとめてそうなったつもりは、さらさらない。
 ただただ突如に発生した長期プロジェクトにあわてて、まっさらなプロジェクトノートを下ろしてを前の方からスケジュール、後ろの方からメモ書き、または走り書きをはじめると、びっしりと埋まった「メモ」に両親や、看護士さんから、
 メモ魔だ。
 といわれるようになった。
 新品の、ダイソーで買ってストックしていた100円のモレスキン・クローン(通称ダイスキン)ノートは、たしかに記録帳というよりは、単なるメモ帳だ。

 40.5度の高熱で自転車を運転中、意識を失って救急車搬送された。
 何らかの理由で血中に細菌が入り、手術で言うところの「感染」に近い症状になったことで、わたしは高熱を発した。原因は不明の高熱。以前同じような症状に経験豊かな開業医は為す術もなく、わたしは数日の高熱の後に大学病院に救急搬送された。搬送されたのは、高熱の末に細菌がわたしの心臓弁を食い破ったからで、その血栓が脳に飛び火して、誰にでも明らかに救急車送りと理解できる、脳梗塞で意識を失ったからだ。
 今回も症状はほぼ同じで、まだ発熱しただけで悪化はしてないので、手術の必要なしと判断できるまでは集中治療室預かり、その危険がないと判断されてからは病室で延々と抗生剤の点滴をうつだけという閑散とした日々が続く。
 その当時は入院中の自分には出きることなどない、選択肢はおそろしく少ないと思っていたのだが、振り返ってみると、あれができたじゃないかと気づくことが多すぎて、ぼうぜんとする。
 入院がお盆前で、退院が10月中旬であるから8週間は、わたしの40歳から消えた。
 9月という月はわたしの今年にはなかったのか?
 プロジェクトノートをひらくと、空白を必死に埋めようとする文字が、お前にこれをまとめられるのか? という顔をして何十ページにもわたって連なっている。
 きっと、それをあきらめたら、わたしの9月は消える。

 モレスキンノートというのは、為替にもよるのだが1800円ぐらいの変形A6サイズ(90×140ミリ)のノートで、とてもハンディーな黒皮(モレスキンはもぐらの皮膚の意味)の大容量(196ページ)であることで有名である(綴じ方が特殊とされる)。おおきく無地と罫線の2種があるが、わたしが使うのは罫入りの方。
 わたしは日々の大切な事柄は、母艦である本家モレスキンノートに書くのだが、今回のように突破的な事態では、半ば使い捨ての100円ノートを用意して、メモ書きとしてそのノートを利用する。
 おおよそ19世紀、20世紀の文化人たちが愛用していたとのふれこみなのだが、なるほど忙しくヨーロッパ中を駆け回りながらふと気づいたことを記すのに適したノートで、もちろん入院先でも思いのほか重宝するのだが、いかんせん片手サイズのノートなので記載がいちいち細かくなる。
 わたしは目の前で開いて書いているので、ちょうどいいサイズなのだが、脇から見ると、信じられないぐらい細かい文字でぎっしり書かれているようにみえるらしい。わたしとモレスキンの付き合いも長く、小さいスペースにびっしりと書くことに慣れてしまっている。
「○○(わたしの名前)って、こんなに細かい性格だったんだね?」
 いまさら言われて心外なのだが、デザインの仕事とか、プログラムの仕事とか、法律の仕事とか、細かいことができない人にはできないから、などといっても分かってくれそうにない。

 産業革命に起こった「だれもが旅しながら創造した時代」をモレスキンは象徴するのだろうけど、情報革命に起こった「だれもが日常的に創造し続ける時代」、つまりいま現在にも、似たような象徴がある。スマートフォンがそれで、モレスキンのキャッチコピーである、パスポートよりも失ってはならないもの、はまさにスマートフォンにもあてはまる。

 創造し続けるなどというと、何を大げさなと思うかも知れないが、著作権法上の視点からみると、現在ほどホイホイと著作権が発生している時代はない。「だれかがつぶやくたびに」、「写真をアップするたびに」、そこに新たな著作権が発生し、その扱いを不法にすると裁判沙汰になる恐れがある。
 現状をみてしまうと、その光景があまりにもカジュアルすぎてピンとこないのだけど、一昔前にはこれを実感できる環境が広がっていた。
 つまり発信することがカジュアルじゃなかった時代。
 そして、アンダーグラウンドぽい界隈に。

 ■モバイラーたちの時代

 iPhoneをみて、
「あれって、ソニークリエのパクリだよね?」(国内厨)
「パームの方が近くねえ?」(王道派)
「おれはハンドスプリング持ってたよ」(おしゃれ派)
 と言い出す、古のガジェットヲタたちが騒ぎ出す界隈がある。これはパームトップ(パームOSと呼ばれるOSを積んだスマホ(ただし電話機能はない))だけだが、これとは別にクラムシェル(ミニワープロ)という界隈があり、それらを総称してハンドヘルド、または単にガジェットと呼んでいた。
 これらのガジェットを使いこなす人たちはモバイラーと呼ばれ、NTTドコモのピーイン・コンパクトと言う商品名のPHS回線にどこからでもつなげる契約をして(当時64kbpsだったなあ・・・)、パソコン通信をしたり、メールを受けたりしていた。
 何を隠そう、わたしはかなり最古参に近いモバイラーで、現在でもこの文章はシャープのnetwalkerというガチガチのモバイラー仕様のクラムシェルで書かれている。
 netwalkerをみると分かるのだが、この機種は両手で持ち上げるように持って、右の親指がオプティカル・ポイントがマウスポインター、左の親指が右クリック・左クリックを押すようになっていて、立って操作することが前提になっている。満員電車の中というのはスマホがでるまでは非生産的なだけな空間でモバイラーがガジェットを持つ理由の真っ先が、この満員電車だった。
 わたし中古でnetwalkerを買ったのはこのサイズのハンドヘルドが必要だったからで、別に立って操作できないと困るなどと思ったことはないし、そもそもわたしはそんな設計がされていない歴代シグマリオンを満員電車で何の問題もなく使っていた。
 それでもおそらく当時の設計思想にやられてしまった人が設計したのだろう。
 当然のようにnetwalkerは、満員電車仕様になっている。
 それでそのモバイラーたちが何をやっていたのかというと、時代によって違うので一概にはいえないのだが、わたしが書いていたメールマガジン『物語解析』は2週間に1回ぐらいのペースで原稿用紙30枚分書いていたけれど、それはすべて行き帰りの通勤電車で書いていた。
 
 ■完成稿に至るまでに必要な工程

 『物語解析』を書いていたときは、平気で素のテキストを何の構成も考えずに、いきなり本番原稿を生で書いていたりしたのですが(いや・・・、若いって怖い・・・)、さすがに最近はメモをとってからまとめたりするようになってきた。
 ここのところ小説ぐらいしか長い文章を書いていないので、補助的に書いていたのはプロットぐらいしかなかったのですが、今回プロジェクトノートを書いてみて、ああ、こういうやりかたもけっこう面白いかも、と思ったりしました。ただまあ、複数人数で関わっていないと複雑なメモ書きをするメリットがないので、今回の入院はともかく、一人でコツコツ作っている以上は、あんまり必要ないかもしれないと思いはします。

 ハンドヘルド(HH)で作業ができないケースとしては、
 1.広い画面が必要
 2.複数アプリケーションを立ち上げる必要がある
 3.入力が主となるので、キーボードの選択ができないHHは向かない
 4.特殊な環境を導入できないとできない
 5.単数もしくは複数の書籍をみながらでないとできない
 といったものがある。
 これらの具体例を細かく説明すると蛇足になるので避けるのだが、わたしの皮膚感覚として自分が作業工程として作る流れのだいたい半分ぐらいは、これらに該当する。アバウトな感覚なのだがわたしにとってはこれらは「重い仕事」という分類になる。
(まあいまになって思えば、物語解析の一回分を書く創造的な作業が「軽い仕事」で、ゲームブック解析の機械的なゲームブックの項番入力作業が「重い仕事」なわけがないのだが)

 これは得てして、作業工程を重い塊のまま放置しているから、起こってしまうボトルネックで、作業を見直して軽い環境でもこの工程をこなせるように、この塊を小さく砕いていく努力をしてこなければならなかった。
 入院中にもできる、電車移動中にもできる、映画の上映を待っているほんの10分ぐらいの間でもできる。
 追求していくとキリはないし、わたしも人間なので疲れるのだが、どっさと積み残っている「やれていないこと」の山をみるたびに、作業工程をもっと軽くしないとなあ、などと思うのだ。ただこれらの作業を重くしているのの一番は気持ちの問題で、気づかないうちに避けて通っていたり、見て見ぬふりをしていることがしばしばある。
 実は今回、のちのちになって振り返った時に、とても重いはずだった重要な仕事を、
「すごい軽い環境で出きるようになるまで、細かく砕いていた」
 ことに気づいたのだ。
 あれ? これって、この手順踏めば問題なくできたんじゃね? 
 もうねw これは気持ちの問題ですw
 せっかく努力してたのにねえwww あー、そんなにやりたくなかったんだwww

 ■カレンダーの違い

 退院が近づいたころ、わたしはいつもつけているスケジュール帳、というか備忘録をぺらぺらとめくって愕然とした。
 正直、5月から8月のわたしは褒められたものではなく、本業方面は堅実にやっているが、とくにいそがしいわけでもないにそれ以外はまるでダメ、という状態だった。まあ、ちゃんとやっているからとは言い訳はつくのだけど、あまりにも何もしていなくて、じりじりとした焦りを感じてはいたのは事実。
 しかしぽつりぽつりとしか書いてないその「何もしていなかった月日」は、びっしりと書き込まれた入院中のプロジェクトノートのスケジュールより多くのことをしているのである。
 つまりわたしは入院中は、退院に向けて必要なことはしているが、そこから出るともう関係なくなることに一生懸命になっているのである。適切な例を挙げるのが難しいので、悩んだ末に、とても抽象化して一般化した例を挙げるのだが、
 ある組織の特殊な儀式を一つずつ丹念に行っているだけ
 なのである。
 わたしは技術職だったのでよくあったのだが、派遣で現場に放り込まれて、デスマーチぎみになって職場をとりあえず派遣期間終了まで生き残る、経験にだいぶ近い。死なない程度に頑張るのがとりあえずの任務で、実際にはそうではないのだけど、文章で見える範囲を汲んでいる限りは、派遣期間終了ですっぱり手を切るので、次の派遣先の業務と一切関わることはない。なので、お金だけもらってさようなら、なのだけど、こういう期間を実のあるものにするのは、けっこうたいへんだ。
 一方、自分の自由になる部分は、全部自分の次の日以降に向かって積み上げることができるので、やっていることの意味も明確だし、じゃっかんひどかった過去数ヶ月をうらめしく反省する。
 
 さてさて、積み上がっていることたちはリストアップしたので、作業を細かく砕く作業に勤しみましょうかねえ・・・、などと思う。
 いや、そのまえに「消えなかった月」にしなければ。




| 雑記 | 22:08 | comments(0) | trackbacks(0) |
 祝カズオ・イシグロ、ノーベル文学賞受賞!!

 なにを言っても後付ぽくなってしまった言い訳になるのと、現在が入院先から一時帰宅を許された三連休の最終日、朝午前5時、という状況なので、たいへんに手短に。
 きっと、カズオ・イシグロが、ノーベル文学賞を受賞という報を聞いて、真っ先にメモをした自分のノートをそのまま抜書きするのが一番リアルな声だと思う。

 ・取り上げるつもりだったのに、ノーベル賞になってしまったって、なんて思い上がりなのだろう。
 →こうなった以上は、自分以上に精緻なよみができる人がいないと思えるぐらいにまで読み込んだ感想をしよう。

 ・カズオ・イシグロを理解する上で一番わかりやすいのは、小説を書くAI特集回(『ことばの未来 「自然言語」をめぐる冒険』)のwiredのインタビュー。感情の作家であるとする本人の談は非常に共感することが多く、感情のドラマとしての小説に自分ものめり込むというか、好き。
 彼のノーベル賞受賞を受けて、わたしもノーベル賞を目指したいなどというだいそれたことではなく(そもそも冒険小説系のエンターテインメント作品ズブズブな人なので、文学賞とか方向性が違いすぎる)、『感情の書き手』として、感情豊かで人間的な人たちを描いていきたい。

 というわけで、かなり久々のエントリー。
 実はけっこうかなり入院中原稿が溜まっているので、退院次第、どばーっと出て来る予定なんですが、すごい量なので、誰が読むんだろう・・・、とか思ったりしています・・・。

 ゲツマツマデニハナントカデタイ・・・。



| 雑記 | 09:28 | comments(0) | trackbacks(0) |
 『メアリと魔女の花』を見た


 アニメってここまで動かしていいものなのだな・・・、観終わって場内の様子は「腰が抜けた」といったようすで、細かく見れば粗はありそうだけど(粗がなくなってしまったら、そこがそのクリエイターの成長の限界)、ラピュタ+千と千尋と言った感じの冒険活劇(ラピュタ)であり成長物語(千と千尋)といった映画に見えた。

 圧巻は冒頭からいきなり始まるアクションシーンから(このシーンの意味は最後の方でわかる)、まるでレールのないジェットコースターのように荒くれ回る精緻に組まれたストーリーの出来だ。
 もちろんそこは原作モノなので原作者の力量なのだろうが、そこに洪水のように溢れんばかりの、ハレーションを起こしそうなほどの膨大なイメージが流れ込んでくる。
 そしてそれが動く、動く。
 成熟した宮駿には到達できなそうなほど暴力的な(内容が暴力的なのではない)イメージの洪水、荒々しくもあり、若々しくもあり、成熟していないからこそ出てくる勢いのようなもの、それがこの映画にはある。

 まずヒロインのメアリがいい。
 なにをやっても危なっかしく、なにもうまくできない序盤の様子はなんでここまで描くんだ? とは思ってしまうのだが、ストーリーが荒れ狂い始めると途端に、ああ、これぐらいの子じゃないとこの冒険活劇のヒロインは務まらないのだ、と分かってくる。
 観ていて危なっかしいのだが、それでも進むのを決してやめない。
 その無謀さと、深慮のなさがなければ、こんなストーリーになったりするはずがない。それでいてメアリには芯の通った義理堅さがある。ネタバレは良くないのでぼかして書くが、ある事件からメアリはピーター(パズーだと思うと良い)を巻き込んでしまったことを悔いて、そこからひたすらに義理堅くピーターを助けようとする。
 男の子と女の子というと愛だの恋だのと穿った見方をするのが大人であるが、第二次性徴を迎えるまでは男女差というのはあんまりないと考えるのが普通だと思う(メアリは小学生高学年ぐらいだと思う。とくにピーターが赤毛のメアリを「赤猿」とよんで囃すのはどう見ても小学生だ)。つまり思春期前なのだから、愛だの恋だのをお話の前提にするのはおかしい。なので個人的な恋愛感情ではなく、巻き込んでしまったことに対する申し訳ないという感情からメアリはピーターを助けようとする。
 また、メアリは自分に関わるものたちに童話チックな愛情を注ぐ。
 メアリを導くことになる黒猫(これも後に理由がわかる)、偶然見つけた魔女の箒、そしてネタバレスレスレになるので難しいがラスト付近にやってくる者達。
 とくに箒に対して「箒くん」と言い続けるのは、愛馬を気遣う騎手に似ている。
 メアリを中心として愛情で繋がった者たちが、一緒になってメアリとピーターを助けていく。それを見ていてふしぎと温かい気持ちになる、ふしぎな愛情に包まれた映画になっていると思う。
 義理堅さと愛情。
 この2つがこの映画の芯となって、メアリの中に貫かれている。
 なんて美しいストーリーなんだろう(原作者を褒めてる)。
 たぶんこの原作がこれまで映画化できなかったのは、荒れ狂うストーリーを膨大なイメージのあらしで御さなければならないことが明白だったからだと思う。
 そしてそれは若くなければできない。

 宮駿信者はこういう。
 それは宮駿から盗んできたものだ、と。
 わたしはこういう。
 宮駿が宮駿に学んでいたら多分こういうものを初期に作るだろうと。
 宮駿に学んできた世代が出てきたのだ。
 わたしは昔、なぜ日本にはスタジオジブリ並みの成功した創作スタジオが10もないんだろう、と思ったことがある。それは今になって分かる。偉大な師匠が、もう10年もしたら死ぬかもしれない年令になるまで、次世代というのは生まれてこないのだと。
 それは天才が君臨してしまう呪縛だ。
 天才たちがもう口出しできなくなる予定が立つまでは、天才の影響下にある状況は続くのだ。米林監督(あえてマロと言わない)が、動きまくる最強のアニメーターとして登場してきたのを、次世代の誕生を祝福したい。
 正直腰が抜けた。
 劇場で、セカイノオワリの歌が流れる中で、退出する通路へ動く人はいなかった。
 わたしはトイレの心配で(心臓手術を何度も受け、人工心臓弁が入っているせいで利尿剤を処方されているから)、とにかく退出が容易な席を取る、つまり出口近くに座る。
 一番先にわたしが席を立ったほどで、それで見回してみても、感想がない、唖然としている、だった。

 まずこの作品は、アニメーションによる暴力だ。
 それは、これを見ろと言う迫力しかなくて、たぶんとてもロックだ。
 ステージになってギターを掻き鳴らすロックスターがそこにいるようで、アニメーションはここまでやっていいのだ、という次の金字塔のように見えた。
 宮駿にはこれができない。
 ここまで勢いだけで演奏する年齢ではないからだ。
 もし、宮駿が若かりし頃に宮駿にいちから鍛えられていれば、これをやるだろう。
 その地位にいたのは、米林さんだった。

 宮駿の育てた世代が出て来んだよ!
 ウィスキーを飲んで、乾杯しよう!
 これは宮駿を毀損する話ではなく、次世代をちゃんと育てていたじゃないか! おまえはどんだけ素晴らしいんだ! という話なのだと思う。

 一体次はなにをやるのだろうと、1ファンとして楽しみに思ってしまう。
 まだ、この天才師匠の弟子のキャリアは始まったばかりなのだ、嬉しいことに。

| 映画評 | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) |
 ミュシャ展行ってきた!

 えーと、会期末が近くて申し訳ないのですが、国立新美術館で開催中のミュシャ展、見てまいりました!

 最大のウリは、世界で本国以外では初と言われる(たぶん)、スラブ叙事詩の公開です。
 これは見れば分かるのですが、壁画であり、神話です。
 たとえば、手元にある資料によれば、そのサイズは610cm×810cmとあります。入り口から見ても、圧倒されるサイズでこんな体験ができる機会はほとんどないでしょう。広い国立新美術館の展示室が狭く感じるほどです。そこにぎっしりと聴衆が来ている、そんな光景。これが20点以上あります。
 会期末は6月初旬のはずですが、何千人いるんだと言うぐらいのレベルだとは思います。
 同時に公開していた草間彌生展が凄まじい混雑になっていることもあって、混雑感は凄まじいです。わたしは、障害者手帳を持っているおかげで、入場券の列には並ばなくて済んだんですが。

 ミュシャのおなじみの作品に関しては、素通りの人が多かった印象ですが、ミュージアムショップがバーゲン中の百貨店並みの、殺気立った状況で、ポストカードやら、クリアファイルやらで(当然ミュシャの絵が印刷されている)、「12点で6700円です」とかイカれた状況になっていました。
 もはや見るのではなくて、買うのが目的なのですね・・・。
 アニメの限定グッズを買いに来るノリなのです・・・。
 わたしは、普通に図録(展覧会で発行されるその展覧会で展示された作品の画集。恐ろしく安い。ちなみに今回は税込み2400円。260ページカラー印刷)が目的というかこれを買うために来ているので、もちろんこれしか買わないんですが、そのレベルではなく物欲の修羅場と化したミュージアムショップを初めてみました。ミュージアムショップって、だいたい多くて数十人しかいないんです。数人しかいない時もあります。それが、数百人がもっと詰めろと言っている状況だったのです。
「3列に並んでください!」
 などと交通整理をしていたほどで、買い終わったあとも、これって無事に出れるのだろうか、とさえ思うような混雑ぶりでした(^_^;
 満員電車かよというレベルの人が、ミュージアムショップにいるんですよ?
 あの熱狂を見ると、ミュシャはほんとに売れっ子なんだなと思いました。

 そんなわけで会期もあと2週間ほどで、いよいよ佳境に入っているのかもしれませんが、国立新美術館のお近くの方は(渋谷から地下鉄で2駅)、ぜひぜひ見に行ってみてください。作品はもちろんのこと、人であふれる美術館の熱気を味わうだけでも、けっこう得した気分になりますよ!

 以上、現地からの報告でした。

| 雑記 | 22:41 | comments(0) | trackbacks(0) |
 『あらしにあこがれて』を終えて雑感

 ぶじに本日、あらしにあこがれての最終稿を書きました。
 内容は、パブーで読めます。

 あらしにあこがれて
 http://p.booklog.jp/book/114111



 まあ、長かったんですが、だいたい1年ぐらいかかりましたかねえ・・・。230枚一年とか長すぎるのですが、なんでこんなにかかるのだろう・・・。
 閑話休題。

 えーと、どこから始めますか。
 まず差し障りの無いところといいますと表紙でしょうか。
 これはウィリアム・ターナーの「サン・ピエトロ大聖堂のポルティコ(玄関廊)の一角、鐘のアーチ」という絵でして、ほんとうはヴィクトリア朝時代の別の画家の絵にしようかと思っていたのですが、ピンポイントでこいつと思っていた人の資料が手に入らず、幸いにも同じような時代のターナーの美術展は観に行っていて、図録も買っていたので、そこから選びました。
 サン・ピエトロ大聖堂と言うだけでもうローマなのですが、石造りの都市の荘厳さは伝わるかなあと。ペネスなんてあるはずもないし、浮遊船もないので、しかたなくシャビっぽいかな? という絵なのです。
 表紙はいい感じにデザインできたかな、などと自画自賛なのですが(^_^; こういうすっくと上に伸びる絵が好きなんだななどと思いました。レイアウトもタイトルがここしかないというところにぴたっと来ていて、左側の男性が階段に座る女の子に歩いているところに視線を誘導できていて、外界の物語が天界へと伸びていきそうで、ドラマチックです。
 自分で作ったデザインでテンション上がっているところが、安上がりでいいのですがw 完全に自給自足ですねw
 閑話休題。

 続いて、もっとも差し障りのあるところを。
 なんでこんなものを書いたのかという部分ですが、これは簡単に経緯を書きますと、去年の5月ぐらいに「死神の帰還」「鉄鎖の次王の恋」と続く第三作を遊びで書いてみたのです(こういう遊びで試しに書いてみることはよくやる)。そうしたら、たぶんプレストーリーを書いてみないと書けないだろうなあと思ったのです。分厚いシーンをいきなり書くのが難しかったのです。
 実のところ、「死神の帰還」も、「鉄鎖の次王の恋」もそうなのですが(つまりこれもプレストーリー扱い)、わたしは設定資料として小説を書くということをします。
 これはわたしが考案したものではなく、「ロードス島戦記」で著名な水野良がそのために短編の連作を書いたという話を読んで、ああ、なるほどこんなやり方があったのかと思って真似しているだけなのです。
 しかし「死神の帰還」など60枚ぐらいで収まるだろうと凄まじい勘違いで書き始めてしまい、結局300枚ぐらいになってしまったという、なんだかよくわからないうちに第一長編ができてしまったというお話です。「鉄鎖の次王の恋」はどんぐらいで収めるつもりだったのかと考えてしまうのですが、構成から逆算すると600枚ぐらいですかねえ・・・。実際には950枚弱で収まっているので、まあ及第点でしょうか。

 本作ももう200枚ぐらいと勘違いもはなだたしい分量になっているのですが(この文章は完結前にかかれています)、250枚ぐらい行くのかなあと・・・。
 また、たぶん、どうしてシルバ、ルナ、セレンと、こんな人たちとして書かれているのか、というのは興味が無いかもしれませんが、この物語はシルバを描くために存在しています。シルバは射撃の名手であり、それ以外はそんなに取り柄のない人物です。無欲で自我がないからなぜかバランサーとしてうまく機能してしまうという役回りなのですが、平凡な人間なのです。
 実はいちおうモデルがいまして、それはわたしの短編である「スミレ」にしか出していないですが(正確には名前しか出ていない)、わたしが書いたモーターモンスター・シリーズのキノシタ・マサトです。
 このシリーズは、ケンジとマサトの骨肉の争いを書いてはみたものの、あまりにもエグかったので、第三者であるスミレ視点で書き直したものなのです。この稿は出していないけれども、保存はされていて、それを読むと、ああこれで行くつもりだったのかと、わたしだけが確認できる状態だったりします。
 のちになって気付いたのですが、「3月のライオン」の桐山零(主人公)にとてつもなく近いです。書いたのが2000年当時ですし、わたしは表に出してませんので、お互い関係性はありえません。
 ただこれは後になってわかったのですが、桐山零が書き手である羽根野チカさんの精神状態に近似していてそのぐだぐだを書いたものだという話を聞いて、ああ、わたしもそういう精神状態だったんだなあと思ったりしました。つまり、どちらも書き手の心情が出たものだったんです。
 またこれは後になって視聴したのですがMHKの番組である「プロフェッショナル 仕事の流儀」のチームラボの猪子寿之さんの回で、この方はかなり著名なデジタルアートの方なのですが、インタラクティブなデジタルアートを作っている方です。まあ、ぶっちゃけ言ってすげえなあと思っています。
 この方が、「プロフェッショナル 仕事の流儀」でお決まりになっているのですが、最後にプロフェッショナルってなんですか? と聞かれるのです。この時に猪子さんが答えたのが、

「いろんな大事なものを捨てちゃってる人じゃない?」

 これは非常に正確にマサトくんを現していて、桐山零でもあります。
 ただ、シルバは機械いじりが楽しそうです。
 それは産業革命期の高揚のなかにシルバはいるからでしょう。
 でも、このシルバを縛らなければいけなかった。だって、天才のシルバが何の苦境もなくすんなりいく物語がどうして面白いのでしょう?
 これを考えるときに常に念頭に置いていたのは、「BECK」(漫画原作アニメ/映画)の小雪(主人公)でした。「BECK」では小雪は執拗なまでのいじめに遭います。竜介と出会って、天性のボーカリストとして開花するのですが(かなり端折ってます)、あの執拗ないじめは、小雪の立場を貶めて、そこからのシンデレラ・ストーリーを描く意図だと思うのです。
 でも、それはわたしにはとても辛いので、そんなストーリーは書けない。
 そう思ったときに姉さん女房のルナが降臨したのです。
 尻に敷かれる夫だったら、まったく不快な描写なく、如才が上がらない人を書けるのではないか。そうしてルナが生まれ、そのお付きであるセレンが生まれました。
 ルナの性格は序盤を書いているうちになんとなくできました。
 しっかりしたところはあるけれど、どこかいい加減で、いたずら好きで憎めない。
 それでも芯は澄み切っていて、けっこう健気で一生懸命。
 シド側のヒロインなので、いろいろバランスは難しかったのですが、なんか書いているうちに出来上がってきました。たぶんここに半年ぐらいかかっている。

 本作はじつのところ、大幅に予定がずれてしまった物語になってしまいました。
 そもそもこのお話はシルバを掘り下げることを目的にしていたのですが、なぜかルナが中心になる話になってしまいました。これは嬉しい誤算だったのですが、書けば書くほどルナが、誤解を恐れずに言えば、男気があって格好いい主人公になっていく。なんだかはっきりしないシルバと、燃え上がっているルナのどちらにカメラを向けるかと言われれば、それはルナになりますよね。
 「死神の帰還(リニー)」「鉄鎖の次王の恋(イオ)」「あらしにあこがれて(ルナ)」と女性視点の人称が続いたのですが、これは偶然です。第三作は(本作は第三作の番外編)シルバ視点になりますし、第四作はリクトルを中心としたボルニア王位承継戦争になりますのでセスク視点になります。第五作はアテナイスを中心としたリュディア族の女の子の付き人(名称未定、お姫様に少年の付き人を付けることがありえないから)です。

 また次に書く予定の話は、一転してSF作品の「メモリゴースト」になり、この人称はリサという軌道警察官になります(どうでもいい話ですがこの人がリニーのモデルです)。これもわたしの中では、ホワイトフィンものと呼んでいるシリーズの第三作目で、第一作はヒトシという中年の男とホワイトフィンとの話、第二作はシンという少年とホワイトフィンとの物語、そして第三作で大本命のリサが出てくるのです。
 だから、偶然なんですよ! といいたいのですが(笑)、お話ごとに人称変えたいのですかねえ・・・。
 これはいちおう前例があって、角田光代さんの空中庭園とか、あとはトリップという短編集とかでやられているのですが、文章書きとしてはやりたいよねえと欲望丸出しで思うのです。だって楽しいじゃないですか。人称変えたら楽しいですよ。シルバ視点でリニーを見たらどうなるかとか、セスク視点でイオを見たらどうなるかなんて、ワクワクしかしません。
「あの人は赤いだけで、結局なにもしてないんだ。赤くて目立つから、便利に使われているだけで、それで思い上がって、リクトルさまにいちいち干渉してくる」
 もう物語になってます。
 メモリゴーストは書くべきなのかなとは思いながら、ぽろぽろネタバレすると、AIをメインテーマに持ってきていて、書こうとしてかけなかったのは2000年代前半なんですが、10年以上経ってみると、現実に追いつかれてしまった物語です。ただ、当時想像していたのと現実は違っていて、だいぶ違った未来が見え始めている、というのが現状です。もちろん修正することなく、当時考えていた内容で書く予定です。
 簡単に言うと、人間性がコンピュータ上で再現できてしまえるようになってしまった世界の話なのです。うん、書いてみると案外ネタバレしてない(笑)。仮想化というキーワードが出てくるのですが、生体上で走っていたものを(つまり脳みそを)、データセンター(という表現はしていませんが、スーパーコンピュータ上で、と書くと分かりやすいかもしれません)で運用できてしまっている世界です。
 近似する作品はいくつか浮かびますが、まんまなのはウィリアム・ギブソンのニューロマンサーがまんまだと思います。そこはなんというか他の派生作品に対して、迂回しないでなんで直接本丸に行かないの? とまんま直線的に、ニューロマンサーで書かれた世界を書いている話です。
 まあ、このお話は、ホワイトフィンものですので、ホワイトフィンがもたらす状況を楽しんでいただければ幸いです。


 ■名称のはなし

 たぶんこのネタが定着したのは、シドという名称は、シド・マイヤーから取ってるんですよ! ということをいいたかったからだと思うのですが、これはわたしが大好きなディック・フランシスの著名主人公であるシッド・ハレーも多少関係あるのではないかとは思います(シッドは蔑称なので、そこはまた別の意味があるのですが)。
 今回は、前作のイオと言う名称が好きすぎて、今回もルナとつけてしまいました(ほんと単純ですねw)。イオという音が持つ生命感がすごくて、ルナと名付けたらどうなるんだろうと思ったのです。これがわたしが大嫌いなサイバーなんちゃらのゲームで、(偶然にも)採用されていて吐き気がしました。まあ元ネタが同じなので仕方ないんですが、不快感はどうしようもないですよね。

 セレンは元素名からです。当然ですがシルバ(つまり銀)も同様です。ただ、ラファエル・シルバとかかなり著名なサッカー選手で同名の選手はいますので、シルバはきれいな名付けだったなと思っています。
 セレンはたぶんラテン語読みで、ギリシャ語読みにするとたぶんセレネになります。
 これはギリシャ神話の月の神様です。なので、ルナもセレンも月を意味していて、そこからルナもセレンも衛星だという書き方をしていました。これが本来あるべき企画の姿なのですが、なぜかルナとセレンの生命力が強すぎて、こっちが主星になってしまいました。

 こういう話をすると、そういう話をする人たちに思っていたわたしのむかしの印象では、「変態的な知識がないと小説というものは書けないものなのか」という印象でした。ギボンは全読しているのが当たり前とか、ブルタークは全部読んでないと話にならないとか(わたしは条件を満たしているけど、本人にはまったくその気はないし、書いててこわいぐらいですw)、わたしもいつの間にかここまで来てしまっただけなので、そんなことはないですよ、と昔の自分に対して教えてあげたいぐらいです(^_^;

 リラは、「メモリゴースト」のリサが関係しています。
 わたしは次に書く「メモリゴースト」のヒロインに、アップルのスティーブ・ジョブスが開発したパソコンの名称をつけようと思っていたのですが、それがリサだったかリタだったか迷っていました。リサが正解だったのですが(ちなみにリタはNHKの朝ドラ「マッサン」のヒロインであるシャーロット・ケイト・フォックスが演じた妻の名前だった。ドラマ中はエリーとなっていたけれど、このページによればリタが正確なようです。竹鶴政孝(これがマッサン)もドラマ中では亀山政春になっています。http://www.nikka.com/taketsuru_rita/)、書いてしまって、翌日目が覚めて原稿を読むと、リラと書いてあった。ああ、通貨単位にしたのか、まあそれもいいか、とそのままになっています。
 もちろんこれはユーロ導入前のイタリアの通貨単位です。
 若い人の中にはトルコリラになぜトルコと説明されているのかわからない人が多いかもと思うのですが、リラと言えばイタリア通貨だったのです。
 こうやって、強い言葉が選ばれています。
(ラスペを抱いているクローナ河は通貨単位のクローネを捩ったつもりだったけど、お隣の国の通貨単位がクローナだった、という話がある通り、通貨は結構名称に使っています)

 ペネスに代表されるようなシドの各都市の名称は、だいたいボリビア付近の赤道直下の国々の名称から取っています。ボリビアの首都がラパスで、シドの首都はラスペです。これは、わたしの地理把握がどう考えても古代ローマ史の範囲に地理勘があって、この範囲の感覚でなんとなく書いているんですが、赤道ってもっと恐ろしく南だぞ、ということを無視して、地名だけ赤道っぽい名前になっているのです。
 同じような地域にあるエクアドルの首都はキトですが、これをもじった名前も使ってみたいかなあなどと思っています。
 ちなみにサイルだけは違います。
 あれは軍事都市なので、ミサイルから、ミを取った名称なのです。
 サイルが鮮やかに描かれるのは2年後ぐらい? なので、随分先だなとか思うのですが、第三作楽しみです(^_^;

 ペネスのゆりかご都市ですが、実はこれはほんの一部だけ元ネタがあります。
 一部だけというのは「名称だけ」貰っているからで、米国産TRPGのルーンクエストのエクスパンション(拡張キットとでも言えばいいのか)、「サンカウンティ- 太陽領 -」に登場するゆりかご河から取っているのです。この追加地域設定の目玉は、大廃都と呼ばれる廃墟と太陽領なのですが、そこを流れているのがゆりかご河なのです。
 名称の由来は過去の伝承に(子供がゆりかごに載せされて流されたというような内容)よりますので、ペネスの姿とは似ようがありません。太陽領という名称と巨大な廃墟という内容から、おそらくエジプトをイメージしていると思うのですが、なにか全然違いますよね。


 ■結局なにが予定を狂わせたのか

 誤解ないようにいいますが、正直いい方向に転がったと思っています。
 もともと予定としてなにも考えてなかったなと思う一方、ルナやセレンの生命力が強くて、それに引きずり回される日々でした。
 まさか、ルナが主役になるとは思ってなかったですし、まあシルバが弱すぎるのですが、こいつは第三作の主役なんです。それが、書いて見ると弱かった。リニーとウォークが参加すると、たぶん強くなる気がするんですが・・・。


 ■次回作

 というわけで、次に書くのは「メモリゴースト」です。
 そのつぎはたぶん、「物語解析」の続きと「hikaliのゲーム論」を書きます。
 その次ですね。
 まあ周到に準備を重ねてきただけあってそう簡単に書けないといいますか、失敗が怖くなってしまいますし、これ書いちゃうと、「メモリゴースト」もその他も書けなくなる気がするのです。
 わたし、書けてないものが多すぎるんです。

 それではまた、次のお話を楽しみにして頂けると幸いです。

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