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 『わたしを離さないで』を読んだ

 ずっと前からカズオ・イシグロはノーベル文学賞を取ると言われていて、わたしはハルキストを唾棄しているので、なんの予備知識もないままに読んだ。
 わたしがカズオ・イシグロを読もうと思ったのは、ワイヤードという今はない雑誌(電子媒体での活動に移行した)のインタビューを読んだからで、それは「ことばの未来」という、乱暴にいうとAIで小説は書けるかという話題を扱った特集で、この中の「埋められた感情」という短い文章の内容に衝撃を受けたからだ。
(ワイヤードはバックナンバーを販売しているので、興味がある方は読んでみると良い。品切れの場合はデジタル版が買えるとのこと)
 ■マガジン(雑誌)/MAGAZINE|WIRED.jp
 https://wired.jp/magazine/

 この号の発刊は2015年11月10日なので、ノーベル文学賞受賞よりも2年も先行していることになる。
 正直、一回目ではなにかぼんやりとしかつかめず、二回目では好きなシーンが挙げられるようになって、三回目でやっと作品と出会った。そんなことをしているうちにノーベル文学賞を取り、じゃあ、いったい何が『わたしを離さないで』なのかといわれるとたいへんに困るぐらいにしか、この作品のことを知らない。美麗字句で褒め称えることはできても、それはわたしの本心からの文章ではないし、わたしのことばなんてそもそも価値がない。
 それよりも、この小説はうつくしい。
 この小説は美しい記憶を読んでいくお話であって、事実を読む話ではない。
 こんなに幻滅する現実はもうまっぴらだ、そう言っている小説なのだ。
(端的すぎるネタバレなのだが・・・)

 『わたしを離さないで』は、作者がつけた目次の構成上、3部に分かれる。
 幼年学校を思わせるヘールシャームでの第1部、大学生生活を思わせるコテージでの第2部、そして、社会人になってからを思わせる介護人としての第3部。
 どれも印象的なエピソードに満ちていることは当然なのだが、それぞれにでくわす年齢が違うので、もしかすると読み手は、冒頭のキャシーと同程度の、介護人として経験を積んだ30代ぐらいの人生経験がなければ、細かな部分を読み取るのは難しいかもしれない。
 それは、その文章を書いているのは少女ではなく、充分すぎる重厚な人生を歩んだ作家というのもあって、少し年代が近い読者から見ると、ああこれは歳とらないとわからないなあと思うきめ細かさがあるのだ。
 それでも作品に何度でも恋をするのは自由であるし、初めて読んだときの気持ちから、自分の中の時代に合わせて読み方が変わっていくのを楽しむのは、素敵な読書。そんな幅広い読書を包み込むだけの豊かさを、この作家は持っているように思う。

 この文章をここまで読んで『わたしを離さないで』を読まない人は多分一生読まないので、この話題はこの辺にして、わたしがどう感じたかを書こう。

 まず、ものを作る人がすばらしい作品に出会ったときに、なにひとつとして嫉妬を感じなかったとしたら、そもそも創作をやめたほうがいい。創作というのは、未踏峰をどういうルートで登るかの独自性の世界で、そもそもルートが確立している観光コース然としたエベレストになんて価値はまったくない。
 そんなアタリマエのことを考えて、『わたしを離さないで』はどう思ったかといえば、これはわたしのセクションではない、わたしが入り込む余地のない偉大な先人の領域だということだった。正直、どうせ自分がなんか考えても、その前にこの人が実現してしまうんだろうなあという無力感はあるし、入院歴が長いわたしにもなんか付け足せそうなものもありそうな気がするんだが、それは単なる錯覚だという気もする。
 そもそもこの作品が書いているのは医療ではなくて、人間らしい人生とはどういうものかという一種の社会哲学的な領域を扱っているのだ。そしてわたしは十分恵まれた環境にいるので、そこに対してあまり興味がない。
 『わたしを離さないで』の世界観はディストピアで、正直うんざりするような現実しかない。だから絶望するのだが、これと同じような構成でもっと明るい作品に、スタジオジブリの『おもいひでぽろぽろ』がある。この作品を語り始めると長いので(単純計算で2倍になる)割愛するが、正直ジブリ作品で一番好きな作品はどれかと言われれは、わたしはこの作品を挙げる。
 やはり夜行列車のシーンがうつくしいし、子供時代の何でも無いエピソードが、こつりこつりと響いてくる。

 もちろん、『わたしを離さないで』は、これだけ読まれるのだから、絶望しかない世界感でも、きわめてうつくしい小説であることは保証します。
 ただ、それに気づけるようになるまでに、わたしは3回の通し読みが必要でした。
 ノーフォークの下りがこんなに素晴らしかったなんて、と3回めに愕然としながら読んだのがわたしです(ネタバレしないように、かなりぼかして書いている)。
 第3部はわずか2章ぐらい進んだ程度で、いきなりラスボスにたどり着いて、これあと4章あるけど持つのか? と思ったら一切の冗長な文章はなく、示唆に富みすぎた文章でクライマックスが描かれる。こんなクライマックス、想像していたけれど想像できなかったし、細かなところを拾うと、ほんとにぐざりとくる。学園長先生が、教え子の救済よりも、莫大な自分の借金のために売り払う家具を、業者が傷めないか心配で、教え子などと話す時間は、全く興味はないとか。
(たぶんこれは、感情的な無意味な反論が多そうなので、ちゃんと読んでね、としか)

 ただ、同じ書き手として不満があるとすれば、トミーはもっといきいきと書けなかったの? と思うところはあります。
 創造性がない人という役回りはわかるのですが、シェイクスピアのどの作品を読んでも、これほどまでに他人に対して従順な人を見たことはない。家畜なのか、とかくと、えっともしかして当たってるの? と怖くなるんですが、えっと・・・、当たっちゃってる? うわー、これ超ネタバレだわ・・・、と書けなくなるんですね(笑)。

 はい、誤魔化しましょうw
 というわけで、ほぼノーベル文学賞の理由となった『わたしを離さないで』は大変美しい小説です。わたしは美麗字句は嫌いなので、ほとんど褒めてませんが、検索してみると大量に褒め称えている評には出会えると思います。
 とにかくこの小説はうつくしい。
 なにもかもがうつくしいです。
 良い文章は読みましょう。



| 書評 | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) |
『要素による解析基礎 「決まり事(世界観)」上』
 えーと、全角40行フォーマットがこの連載のデフォルトだったので、本家サイトには近日中に載せますので、読みにくいのはご勘弁ください・・・。


 ■ ―― ■ ―― ■ ―― ■ ―― ■ ―― ■ ―― ■ ―― ■ ―― ■ ―― ■
                          第十七号   2018/03/07
   「 物 語 解 析 」
    〜 要素による解析基礎 「決まり事(世界観)」上〜

 「今号を要約!」 

  - - - -< 今号の中身をピックアップ! > - - - - - - - - - - - - - - - - -
 《 本文 》                          《ページ&
                                 落書き欄》
                                 (^_^;

   01:はじめに                       :[ 01 ]
     ──キーワードは、彼らにとっての一般常識(一般常識世界)は
       どこにあるのか

   02:要素による解析ってなに???             :[ 02 ]
     ――簡単ではありますが、説明しています。

   03:解析術講座 「要素による解析「決まり事(世界観)」上 :[ 03 ]
    03-01:「彼らにとっての現在は、いつなのか」       :[ 03-01 ]
        ――時制を意識すると、世界が説明しやすくなる。
    03-02:「これってドラえもんに当てはめると?」      :[ 03-02 ]
        ――マーケティングの話になります。

   04:解析術講座 「実際の、最近の現実作品に当てはめてみる」:[ 04 ]
    04-01:「では実際に現状の物語はどうなんだろう」     :[ 04-01 ]
        ――たぶんこのパートが今回のクライマックスです。
    04-02:「君の名は。の世界観」              :[ 04-02 ]
        ――隔離が本質。
    04-03:「宇宙より遠い場所の世界観」           :[ 04-03 ]
        ――ほんとうにパラレルワールド? な、リアリティ。
    04-04:「ユーリ!!! on ICEの世界観」           :[ 04-04 ]
        ――現実に影響を与えていすぎて、すごいw
    04-05:「ガールズ&パンツゥアーの世界観」        :[ 04-05 ]
        ――ミリオタ受けするディテールと、
          ふわりとしたファンタジー。
    04-06:「天空のエスカフローネの世界観」         :[ 04-06 ]
        ――異世界移転ものの傑作で、恐ろしく濃い。
    04-07:「初代ガンダムの世界観」            :[ 04-07 ]
        ――放映当時言われていた未来予測を絵にしただけ。
    04-08:「逆襲のシャアの世界観」             :[ 04-08 ]
        ――結局誰も、これが最終決着だとは思っていない、最終盤。

   05:おわりに                       :[ 05 ]
     ――ざっと洗ったぐらいでは語れるはずがない。

 ■ ―― ■ ―― ■ ―― ■ ―― ■   http://story-fact.com/mk_log.php ■


 ● 01 ● はじめに                      :[ 01 ]
  ̄ ̄ ̄ ̄
  こんばんわ! hikaliです。
  えーと、ずいぶん間が空きました。
  前回が2006年ですか。12年の間に6回の入院をして、同じ回
 数手術をして、3回が鎖骨の遠位端骨折で、3回が心臓手術なの
 ですが、1回死を覚悟しました。
  あれ、ちがう。
  7回の入院だ。
  最後の入院は手術がなかったので、なんかカウントするのを忘
 れたというおかしな状況になっています(^_^;

  前回の書き方を確認しますと、あー、まー、よく分かってない
 状況で書いたっぽいけど、そこそこきれいなガイダンスになって
 いて、これはイキだなと思いました。
  12年前ですぜ。
  わたしは酔って書いた自分の文章に、経験則的に絶大な信頼を
 おいています。この時の状況がどうだったかは流石に覚えていな
 いのですが、思いがけずちゃんと書いていて衝撃を受けた、とい
 うのが正直な感想です。なので、12年も前の文章ですが、これ
 を正典と認めて、そこから続く議論をしてみたいのです。

  具体例として大長編ドラえもん(この物語解析ではこれでもか
 というぐらい登場するのですが……)を実験台にして、その大ま
 かな全体の把握の仕方で、いったいどれだけいろいろなことがわ
 かるようになるのか、を検証してみたいと思います。
  キーワードになるのは、
 「彼らにとっての一般常識(一般常識世界)はどこにあるのか」
  です。
  まずは、その話からしてみましょう。


 ● 02 ● 要素による解析ってなに???            :[ 02 ]
  ̄ ̄ ̄ ̄
  これまでの物語解析では、物語は「人物」「舞台」「道具」
 「決まり事(世界観)」の四つに分かれ、その四つの働きを調べる
 ことにより、物語をかなり正確に把握できるというお話をしてき
 ました。
  「人物」に関しては、第六号、第七号を通して、「舞台」に関
 しては第八号〜第十一号まで、「道具」に関しては第十二号〜
 第十五号まででお話したと思います。

  前回から、「決まり事(世界観)」のお話をしています。
  ちょっとディープな世界観のお話を楽しんで頂ければ、
 嬉しいです。

  もし、前々回以前の内容がお読みになりたいという方がいらっ
 しゃいましたら、物語解析ホームページにバックナンバーがあり
 ます。もしご興味がございましたら、ご覧いただければ幸いです。


 ● 03 ● 解析術講座  「要素による解析
  ̄ ̄ ̄ ̄        「決まり事(世界観)」上」      :[ 03 ]

  さて、ぽーんと無造作に投げ込んであるのですが、

 「彼らにとっての一般常識(一般常識世界)」

  とは何のことでしょう?
  「一般常識」と「一般常識世界」がわざわざ分けられているの
 で、当然にコレは別のものとして考えているのですが、具体例な
 しに考え始めてしまうと迷宮に迷い込みそうです。
  さらにこの概念は単独で存在しているのではなく、

 「彼らにとっての一般常識(一般常識世界)はどこにあるのか」

  と

 「彼らにとっての一般常識(一般常識世界)」は「どこにあるの
 か」とたいへんやっかいそうなふたつの疑問の交わる地点を考え
 ているのがこの命題なのです。そして、わたしはこれが「世界観
 (決まり事)」の定義の中心部分にある、と言い始めていたりす
 るのです。

  さて、「彼らにとって」の「彼ら」とは一体誰のことでしょう
 か?
  主人公のことでしょうか(当然に、主人公って誰だ? という
 話になるのですが)?
  それとも周囲を含むこととして、どの範囲まで含むのが一般的
 なのでしょうか?
  あなたが大好きなマンガ、映画、ゲーム、演劇、ドラマ、小説、
 アニメ、オペラ、歌舞伎、落語、能と思い浮かぶ物語を片っ端か
 ら考えてみて、自分でじっくりと考えて見るのも、とても楽しい
 ことです(ちなみに古典物語をわざわざ挙げているのは、研究が
 進んでいて、ある程度定形に近い標準的な型が出来上がっている
 からです)。

  わたしが無粋にもその楽しい時間をぶった切ってしまうのは忍
 びないので遠慮するのですが、冒頭でも述べているとおり、本稿
 では物語の標準テキストとして、大長編ドラえもんを使用するこ
 とを述べています。具体的には、

 「のび太と恐竜」「のび太の宇宙開拓史」「のび太の大魔境」
 「のび太の海底鬼岩城」「のび太の魔界大冒険」
 「のび太の宇宙小戦争」「のび太と鉄人兵団」「のび太と竜の騎士」
 「のび太の日本誕生」

  を標準とすることを予定しています。
  ですので、これを当たってみるのがもっとも手っ取り早いので
 すが、まあ無粋といえば無粋です。
  ただまあ、どこへいっても電子版はありますし、中古本は送料
 以外かからない値段になっているのが普通というほど潤沢に流通
 しているシリーズです。この機会に聖典として揃えてみるのもぜ
 ひぜひにとおすすめしてみたくなってしまうシリーズであります。

  まあ、お手にとってみて、どんな物語なのかを考え始めると、
 あれ、これ一筋縄ではいかなくないか? と思えてくるのです。
 まあ、その話はのちほどにしましょう。


 ○ 03 ○ 「彼らにとっての現在は、いつなのか」 ○ 01 ○    :[ 03-01 ]

  世界観の範囲を把握するのに我々がいる「現在」から比して、
 どのような時間にあるのかを真っ先に取り上げるのは、それがわ
 かりやすくて誤解する要素がほとんどないからです。

 「この物語はいつの話でしょうか?」
 「戦国時代です。戦国大名の家臣のお話です」
 「歴史物ですね?」
 「はい、現代人が戦国時代にタイムスリップする話です」

 さてこの場合の、「彼らにとっての現在」はいつなのでしょうか。

 「この物語はとても巨大なロボットが登場しますが、未来の話なの
 でしょうか?」
 「だいたい2015年ぐらいの話でしょうか(あれ、未来じゃない
 ぞwww )」

  お分かりかと思いますが、これはエヴァンゲリオンを現在からみ
 ると変になるという話です。

 「プレスリリースを読むと、使徒だの、ロンギヌスの槍だの、ずい
 ぶん創世記や聖書に出てくるキーワードがちりばめられていますが」
 「そうですね、簡単に言うと作り損ねた人類をもう一回作り直そう
 という物語ですから、そうなるのかもしれません」
 「S、F、ですよね・・・?」
 「いえ、神話です」

  エヴァの方はだいぶ混乱していますが、2015年という時代設
 定があるだけで、シンジくんが箱根の第三東京市にモノレールで
 やってきて、ヱビスビールを飲む上司とペンギンに拉致られて、ミ
 サトの宿舎でアスカになじられてMDウォークマンを聞きながらい
 じけるシーンまで浮かんでくるから不思議です。
  これは非常にシンプルに、「2015年のお話です!」と言われ
 たから、です。

  これ以外の情報は一切入っていません。セカンドインパクトの話
 も、第三東京市がなんなのかも、シンジの母が何を研究していたの
 かも、エヴァがなんなのかも分からないのです。
  なんとなく時代設定をすることの利点が見えたでしょうか(^_^;

  というわけで少し強引ですが、まず第一のまとめをしてしまいましょう。

 「世界観を説明するとき、その世界が現在より時代的にどれだけ
 離れているかを示すと、その世界が理解されやすくなる」

 「過去の時代の話なのか、現在の話なのか、未来の時代の話なのか」

  うん、強引だw 


 ○ 03 ○ 「これってドラえもんに当てはめると?」 ○ 02 ○   :[ 03-02 ]

  さてドラえもんも聖典ではなく通常の漫画である以上、このよ
 うなことをどこかでしているはずです。
  どこでしているのでしょうか。
  コミックスを注意深く読んでいると分かるのですが、ドラえも
 んというマンガは、ガンプラ(機動戦士ガンダムのプラモデル)
 や、スターウォーズ(まんまリ第6大長編リトルスターウォーズ
 なのですがw)が作中に登場します。つまりドラえもんというの
 は読者の(より的確に言えばコロコロコミック読者の)周囲では
 やっている遊びやおもちゃを次々と投入しているのです。
  創刊時のコロコロコミック(雑誌)にはまったく疎いので詳し
 い方にお任せするのですが、この雑誌というのは小学生の「今、
 はやっている旬のもの」のアンテナ雑誌のようなものを目指して
 創刊したのではないかと、のちのコロコロvsボンボン戦争にみら
 れるこの世代の覇権をめぐる戦いなどをみても、思ってしまうの
 です。

  そして、その創刊を担ったのが、ドラえもんでした。
  おそらく事実を告げられてもにわかには信じがたいと思うので
 すが、コロコロコミック創刊号のうち200ページはドラえもん
 の連載です。それが全体の3分の1なのか、2分の1なのかは
 はっきりとはしませんが、尋常ではないドラえもん依存の雑誌が、
 「小学生のいまのはやり」を追った雑誌だったとすれば、とうぜ
 んにドラえもんは、本編はなくても、カット提供などは頻繁にさ
 れていたはずです。これは週刊ジャンプの黄金期辺りから現在ま
 での編集をみてるいれば分かります。
  これをやっていないはずがない、と。
 (これは週刊ジャンプのコロコロ対抗雑誌、「最強ジャンプ」の
 作家先生の発言で確認されました。小学生の間で何が流行ってい
 るかを確認するには、コロコロを読むのが早い、という発言です)

  そうなると、
 
 「彼らにとっての一般常識(一般常識世界)はどこにあるのか」

  が、途端にわくわくと胸の疼くものになります。
  これは純然たるマーケティングなのです。
  当然に「お客様であるコロコロコミック読者の現在」=「彼らに
 とっての一般常識」となるのです。
  となると、物語上の時制は「今、この瞬間、沸騰している小学生
 の常識の間」となるのです。なんとなく『電脳コイル』(アニメ)
 を想起してしまったのは行き過ぎでしょうか。そんなおとぎ話チッ
 クな話にわたしには思えてきます。
  一応ドラえもんは、22世紀から現在の世界に介入が入った、未
 来からの干渉を特徴とする物語であるのに、実際の物語では22世
 紀側の都合というものがいっさい語られていません。本来であれば
 未来側に切実な理由があって、過去改変(これは大抵犯罪行為にな
 ります)をしようとするのが一般的だと思うのです、それがいっさ
 い語られていないので、22世紀が完全に「空気」になってしまっ
 ているのです。

  つまり「彼らにとっての<一般常識世界>」はけっして22世紀
 ではなく、「今雑誌を読んでいる読者の、この瞬間」となっている
 のです。
  極めて不思議なマンガです。
  なのでガンダム(ガンガルという名称)も出てきますし、スター
 ウォーズなんて映画(のび太の宇宙小戦争)にしてしまいました。
 このあたりは徹底しています。

  さて、ここでは意図的に<一般常識世界>と、なんの用語説明も
 せずに使いました。
  実はドラえもんにはもうひとつ特殊な状況が存在しておりまして、
 それを説明するとあら不思議、もう一方の<一般常識>との区別が
 何の説明もなしについてしまうのです(つまりサボりたいだけ、と
 も言うw)。

  わたしたちは(主にTRPGなどをやるひとたちは)、その滞在する
 星系の技術水準が、遅れているのか進んでいるのかを説明する時に、
 TECレベル(技術レベル)を目安にすることがあります。翻ってドラ
 えもんをみると、22世紀の最新機器が溢れまくっているわけでしてw
 タケコプターは使うわ、どこでもドアを使うわ、タイムマシーンも乗
 り回すし、もうなんど地球文明を滅ぼしかけたかわからないほどで(汗)、
 まるで殺虫剤を使う勢いで水爆とか取り出していたりするわけです
 (ドラえもんがネズミを怖がって何度かやっている)。

  のび太、ジャイアン、スネ夫、静香ちゃん、出来杉くんあたりにも、
 この22世紀の技術レベルというのは「一般常識」になっていて、ま
 るで電動アシスト自転車を使うように22世紀の技術を使い、それが
 空気になっているのです。

  このドラえもんというマンガは、
  1.読者とのコミュニケーションの手段としての世界観 → 現在
  2.物語の中で起こっている現実としての世界観    → 22世紀の日用品
  という、2本建ての世界観構造になっているのです。

  これが「基本ルールセットのドラえもん」ということができます。
 (この言い回しは、ガイダンスで物語の世界観をTRPGの世界観でとら
 えようとしたのに準じている)
  そして、「拡張ルール編」となる大長編ドラえもんとなると、さら
 にお話しが込み入ってくるのです(^_^;

  そこへ、なんの下準備もなしに突入すると、あまりも複雑で高度過
 ぎて(藤子F不二雄先生が)わたし以外はみな血塗れ死なんてことにさ
 えなりそうなので、ここは少しクールダウンしてもいい地点のはずで
 す。
  もう少し周辺の土台を固めて、細かくて気づかないけど重要な話*
 をぼちぼち拾いながら、大長編ドラえもん銀河というか宇宙並の深さ
 だなぁというところの入り口まで、なんとか匍匐前進していきましょ
 う。
  とんでもない作品が日本には、子供のおもちゃのように転がってい
 るものですねえ(^_^;
  たぶんスタート地点に立ったときに、ああ、ここって血塗れの戦場
 だったんだ、これって最新型の激戦地帯だったんだと、気づくはずで
 す。

  *一般人と専門家では、美術館での密室美術品強盗事件が起こった
 際に、みている世界がまったく違う、という話とか。


 ○ 04 ○ 「では実際に現状の物語はどうなんだろう」 ○ 01 ○   :[ 04-01]

  さて、ここまではドラえもん大長編を書いたのですが、これは80年
 代、90年代の話なるでしょうか。
  現在は2018年。
  この時間軸を自由にしてみて、過去、現在、未来を見てみることに
 しましょう。実のところ、この世界観の話はすればするほど細かい隘
 路が大量にあるのですが、これをぜんぶ網羅するとまったくキリがな
 いので、この物語解析の導入部分としては、「時制」だけに焦点を当
 てて、その性質を見ていくことにしましょう。
  これは単純に、細かいところをやり始めるとキリがないからです。

 ○ 04 ○ 「君の名は。の世界観」          ○ 02 ○   :[ 04-02]

  新海誠監督の「君の名は。」は大ヒットを飛ばした上に新たな時間
 軸を日本映画史に刻んでいます。といいますのは、この映画があらゆ
 る情報を総合すると、3.11の東日本大震災を前提とした映画であるか
 らなのです。
  ニュースZEROだったかの報道を信じれば、新海監督は震災後に被害
 を受けた名取市を訪れ、その光景を見て、もし自分がここにいたらど
 うなっていたのだろうと想像を巡らせて、入れ替わりのストーリーを
 思いついたと言います。
  その証拠として、君の名は。の登場人物には、被災地の地名が採ら
 れていたりします。当然に「名取さん」は物語上のヒロイン三葉の
 親友の女の子の名字になっています。これは、「君の名は。」が震災
 映画であるシグニチャーです。

  これは世界観なんでしょうか?
  じつのところ、ネーミングに関しては、それは世界観を構成しうる
 という発言を聞いたことがあります。これもわたしが好きな映画なの
 ですが「花とアリス殺人事件」の岩井監督が、このシリーズで、なに
 か神奈川の地名って漫画家っぽい地名が多いよね、という言葉遊びか
 らこれを始めて、気付いてみたら独特の世界観を生むことになってい
 た、という発言からもなんとなく伺えます。
  もちろんこれは単なる地名なので、おそらく映画を見た人はそれが
 名取市から採った名だとは、誰も知らないでしょうし、わたしもまっ
 たく知らないままその名前の音をなんの感情もなく受け取りました。
 受け取ったのは現地の人だけです。

  これははっきりというと、なんの意味もないんです。
  意味がない。
  これはとても重要です。
  意味が無いんです。
  これは、世界に発信するメッセージとしてナンセンスです。
  ただ、被災地がメッセージを受け取った可能性がある。
  そんな可能性まで、考慮しなければならないというのは、自己満足で
 す。たぶん新海監督は、それは自分のやり過ぎだと思うでしょう。こん
 なことは書きたくないですが、たぶん新海監督はこんな大袈裟な事態に
 なってしまったことに、こまっているはずです。

  話が無秩序に暴走するのでここでやめます。


 ○ 04 ○ 「宇宙より遠い場所の世界観」       ○ 02 ○   :[ 04-02]

  これ、誰書いたのと、五時間ぐらい問い詰めたいんですが(笑)、わ
 たしは全体の構成を考える企画部門と、実際の文章に落とす実務部隊を
 分けて作業をするので、こんな発言になっているのですが(^_^; この
 企画を考えた人は鬼畜ですね(笑)。ただ、この企画者の考えはわかり
 ます(まあ自分ですから・・・。そして走っているときの自分の発想に
 は全幅の信頼を置いています)。これは一番現実に近いところから話を
 はじめたかったんですね。

  「宇宙より遠い場所」は現実世界の女子高生たちが南極を目指す青春
 ドラマです。大変人気があり、2018年のアニメの中では(まだ2月です
 が)最高の作品になるのでは(覇権アニメと称呼されます)と目されて
 いる作品です。鬼畜だといっているのは、この作品が当然なんですが、
 まだ2月なので、終わってないんですね。つまりどういう結末になるか
 わからないのに取り上げるって何よ! というわけなのです(笑)。
  ただこの作品は、微妙にパラレルワールドなのです。
  たぶん、ファンのほとんどが気付いてもいないのではと思うぐらいに
 微差なんですが、南極観測隊が民間に払い下げられてる世界観なのです
(そして南極観測隊は、新基地を築いていてそっちに移転している)。
  作中では昭和基地と南極観測船しらせが民間に払い下げられていると
 いう表現しかされていません。なので、現在からしてみるとこれはもし
 かすると、数年後の世界なのかもしれないと、かなり苦しいですがいう
 ことも何とかできます(おそらく制作陣はそんなことも考えてないで
 しょうが)。それ以外の部分は地元(館林)民になんだこの再現度は!
 と驚かれるほど完全に館林です。わたしも現地民の撮影したモデルを見
 て、頭がくらくらしました。何十回も見直した光景が、現実の館林に存
 在している写真を見るだけで、くらくらします。現実と虚構の境がわか
 らなくなるのです。あの子達は(4人)実際に存在するんではないかと
 さえ思えてくるのは病気です。
  ちなみにシンガポールが扱われた回で、シンガポールの地元民に、な
 んだあのリアリティーは! とビビられていたことも、合わせてご報告
 しますw
  
  ただ、あれはパラレルワールドなんだよな。
  これはふしぎな感覚です。

  それはシナリオのよさも影響しています。わたしなどは最新話(これ
 を書いているときは6話。たぶんリリースするときは8話ぐらいまで進
 んでいそう)を見ながら、ちょっとこのパターンに頼りすぎだなぁ、な
 どと思ったりしましたが、それがわかるのはわたしが書く人だからです
 ね。同じことを書きながら思うのです。このパターンしかないのはわか
 るけど、これに頼りすぎだぞ、と。
  全13話なのは確定しているので、もう折り返し地点なのですが、い
 やー、これ期待にこたえるのきついぞ、とわたしまで胃が痛くなってし
 まいます(^_^;

  この辺にしましょう。


 ○ 04 ○ 「ユーリ!!! on ICEの世界観」       ○ 03 ○   :[ 04-03]

  まず当たり前なのですが、この作品に対しては絶賛しかありません。
  現在、ピョンチャンオリンピック中なので、フィギュアスケートの話
 題には事欠かないのですが、男子はともかく女子は、ロシア勢の圧勝が
 ほぼ予定されています。その中で、ロシアの女王(18歳だったか?)
 が親日的なパフォーマンスをしていて、当初はこれはいったい何なのだ
 ろうと思っていた(もっとひどいことを言うと、腐女子的に引っかかる
 ところがあったのかとか思ったり)のですが、「ユーリ!!! on ICE」を
 見た瞬間に全部が吹っ飛びました。
  「ユーリ!!! on ICE」は羽生結弦がロシアのプルシェンコに憧れを抱
 いていたのをそのプルシェンコが羽生を直接指導していたら、という妄
 想を基に書かれただいぶ腐女子受けをするように書かれたアニメです。
  2016年の覇権アニメとされています。

  このアニメで特徴的なのは、わたしがロシアの女王であるメドベージェフ
 さんが親日的な態度をとっても、何の違和感も感じなくなったことでしょ
 うか。だって、ビクトルは選手生命をなげうって(ネタばれに気をつけ
 ると、ラストは感動的です)ユーリのコーチとして時間を浪費するので
 す。プルシェンコは怪我で選手生命を絶たれているのですが、ビクトル
 は違う。ここがよく書けている部分です。
  羽生は全世界的なプリンセスですが、ユーリはぎりぎりでグランプリ
 ファイナルに残れれる、瑣末な選手です。プルシェンコが羽生を溺愛し
 たのとはまったく状況が違います。
  ちなみに、このアニメで創作された主人公ユーリのフリー曲の「ユーリ
 ・オン・アイス」が実際のグランプリ・ファイナルだったかで、実際に
 使われて話題になりました。ちなみに五輪では同じロシア出身のザキトワ
 選手に金は取られてしまった、女王メドベージェフ選手はツイッターで、
 「ユーリ!!! on ICE」の原作者のサインを貰って大はしゃぎしていたり
 しました(^_^; どんなアニメだよw

  話しすぎるとネタばれになるので、この辺にしましょう。
  ただ、羽生さんがいるおかげで、ぎりぎりリアリティーを保てている
 作品ではあります。

 ○ 04 ○ 「ガールズ&パンツゥアーの世界観」    ○ 04 ○   :[ 04-04]

  ここで、ガルパンかよ、なのですが(笑)、ガルパンは大洗女子学園の
 戦車道をたしなむ女子たちによる青春物語です。戦車による模擬戦が一種
 の武道になっている世界といえばいいでしょうか。大洗町では毎年のよう
 に関連行事が行われ、ファンが集まるイベントと化しています。アンコウ
 のつるし切りぐらいしか名物がないんですが、このアンコウに目をつけた
 人は切れ者ですね。

  この作品のすごいのは、艦コレという類似するコンセプトのゲームの大
 ヒット以前なんですね。
  これがヒットするとなぜわかったのか。
  ミリタリーと美少女を組み合わせる前例は、それなりにあるのですが、
 80年代とか、90年代とかの、しかもヒットしなかった企画だぞ、と
 思ってしまうのです。
  戦車道という、よくわからない部活にしてしまったのが素晴らしいとい
 うか、意味不明なのですが、たぶん熱狂的なファンでさえも、これのどこ
 がいいのかわからないのです。
  ガルパンの熱狂的なファンは「ガルパンおじさん」と呼ばれるのですが、
 彼らの布教活動は、なにか事があるごとに、「ガルパンはいいぞ」とつぶ
 やくことなのです。彼らはなぜいいのかを説明できないのです。

  わたしはいちおうガルパンは履修しましたので、ガルパンの何がいいの
 かは説明できます。
  それは端的に言って、戦車マニアを納得させるだけのディテールを、部
 活少女モノという、なんともライトな枠内で描いたことですね。
  また指折り数えるほどに個性的なキャラクターに満ち溢れていて、対戦
 相手となる各女子校が、イギリス、アメリカ、イタリア、ロシア、ドイツ
 と各国の戦車とお国柄を反映しているところも面白いところです。そうな
 るとロシアのコスプレイヤーが、ロシアをモデルとした学校のキャラクター
 である、カチューシャという、チビなんだけどひたすらに気だけは強い
 キャラのコスプレをしてファンを騒がせたりと、そういうことが起こりま
 す。
  ドイツがモデルとなっている決勝戦の相手である黒森峰が、実はこの学
 校は主人公の出身校で、最大のライバルとして主人公の姉が立ちはだかる
 という設定のため、ドイツ色があんまりないのが、ちょっと弱いところと
 言いたくなるぐらい。あとは極彩色というか、よくぞこんなに絵の具ぶち
 まけたなと言いたくなるような、色彩の豊かさがあるんですね。

 これ以上話すと、「ガルパンおじさん」になってしまうので、この辺で。


 ○ 04 ○ 「天空のエスカフローネの世界観」    ○ 05 ○     :[ 04-05]

  くそ、死ねw
  これ考えたの誰だw (わたしですw)

  天空のエスカフローネは、瞳という陸上部の女子高生が異世界に転移し
 てしまう物語です。瞳が憧れていた天野先輩に似ている(容姿だけなんだ
 が)アレンに、主人公であるバーンを放置して惚れてしまうという、なん
 だこの三角関係は、という物語構成なのですが、このお話は精査していな
 いんですね。
  たぶん、異世界移転ものとして、取り上げているのだと思われます。
 (無責任)

  全部見てないんだから、これで書けとか無理言うなよ。
  あー、うーん、もしこのエントリーが異様に遅れたら、たぶんそれは
 エスカフローネを観直しているせいです。2クールあるんだぞ、おまえ
 殺すぞ(企画担当の自分に言ってますw)、と殺意を覚えますw

  この作品の世界観はほぼガイアと呼ばれる異世界が舞台なのですが、
 幻の月と地球は呼ばれ、地球とガイアは瞳がしたように神隠しのような
 形で行き来があります。いちおう設定的には滅亡に瀕したアトランティス人
 が住み着いたのがガイアとされています。また、主人公が占いが得意な
 霊感のある少女に設定されているため、作中では超自然学的な方法で占
 いが絶大な力を持ちます。なんというか、瞳がレーダー役をするのです
 ね。
  また、これが面白いところなんですが、幻の月から干渉があるのです。
  たとえば序盤のシーンで、瞳のポケベルに幻の月(地球)から天野先
 輩からの通信が入るのです。地球から月への通信が、携帯の基地局レベ
 ルで届くはずがないのですが、まあなんというか少女マンガ的に届いて
 しまいます。
  ちなみにこの作品が描かれた1996年はポケベルの最盛期だとかのこと
 で、わたしは大学生でしたが、パソコン通信で小説フォーラムにはまって
 富士通謹製のOASYS POCKET3(ハンドヘルド・キーボード付き・PDAの
 走り)で、がんがん文章書いていましたね(^_^; 始めて導入した無線
 通信機器がピーイン・コンパクトというPHSのデータ通信用の端末でした。
  なので、明らかにポケベル文化圏の枠外にいたのですねw
  ぜんぶインターネット経由だったのです。
 (これは主な連絡手段がメールだったという意味です)

  ほかにも面白いのは、ガイアでは過酷な現実が見えてしまうために、
 致命的な状況で頼られるのが、嫌になるところなのです。
  また、アトランティスの設定が強力すぎて、これはほんとに2クール
 の作品かと驚くほど、密度が濃すぎて、エヴァンゲリオンが2クール
 だったというのも驚きなんですが、匹敵するぐらいには濃い。
  なんでこんなに濃くできるんだろう。

  また、非常に強力な設定として、運命改変装置、というギミックがあ
 ります。これは敵国であるザイバッハがアトランティスの技術を実現し
 たものとして登場するのですが、主人公&ヒロインである、バーンと瞳
 の仲を裂くために使われるのです。
  個別具体的にいえば、瞳が容姿だけで似ているとしているアレンと、
 結びつけることで運命を改変しようとするのです。アレンは紳士的で、
 非の打ち所はないんですが、瞳にたいして、それは違うだろ!!! と
 思わせる手腕はさすがです。
  しかし、これまで、色恋沙汰に装置的に干渉することで、物語を変え
 ようとした例があったでしょうか。これが衝撃でした。

  なんだか、何の話をしているのかわからなくなってきましたw
  実際には、これよりも進んだんですが、書いていてこれは終わらない
 なと思いましたので、ここで切ります。500行というと、だいたい原
 稿用紙50枚なんですが、100枚ぐらいは書けるなとかそういうレベ
 ルで、それは迷惑だろうという印象なんです。
  これは絶対ダメなので、やめます。

 ○ 04 ○ 「初代ガンダムの世界観」        ○ 06 ○     :[ 04-06]

  いきなりすごいところにきたなという、印象なんですが、たぶん多くの
 人が誤解していることは、初代ガンダムの世界観は、放映当時言われてい
 た未来予測を絵にしただけなんです。スペースコロニーもオリジナルでは
 ないし、小惑星帯から資源衛星を運んでくることもオリジナルではない。
  1970年代というのはそういう時代だったんです。
  ガンダム世界と言うのは、予定されていた、未来を描いた、近未来架空
 戦記なのです。
  そんな情熱を描いちゃった人って、かっこよくないですか?

  ガンダムはSFなのかといわれると、まあ、ハードSFですねと書く人は
 大体格好いいです。この人たちはたぶん、ガンダム・センチュリー派と呼
 ばれます。これは、ガンダム・センチュリーと呼ばれる、伝説的なムック
 で、ガンダムのハードSF考証した冊子が発行されて、プレミアがつきす
 ぎて再刊されたからです。
  これが基本的に、ガンダム世界観の基準点になっています。

  宇宙世紀は、あり得べき未来だった。
  それがわからないと、ガンダムはわからない。
  未来だと思っていた人はだれもない。
  それは来ると思っていた。

  ガンダムというか、ガンダム・センチュリーはそういう世界観だった。

 ○ 04 ○ 「逆襲のシャアの世界観」        ○ 07 ○     :[ 04-07]

  これまた、死ねと言っている。
  宇宙世紀のガンダム世界は恐ろしく話が複雑です。アムロがなんでシャア
 というか、 クワトロ・バジーナとの関係を何故か整理つけているのかとか。
 それは一切書いてない。
  Zガンダムにおいて、アムロとシャアは同僚なんです。
  でも、その間に何があったかは、一切の示唆がない。
  その両雄が、戦うにあたって、一切の情報がない。
  たぶん、続編に当たる、ZZに冨野がかかわっていないのが問題なんで
 すが、アムロもシャアもいなかった。そこから、アムロとシャアの最終決
 戦というのは結構無理がある。それでも、最高傑作とされます。それは、
 この最終決戦を見たい人が多かったからです。これを最終決着と思う人は
 一人もいません。

  これが面白いところです。
  誰も満足していないのです。
  それで、ガンダム世界は際限なく広がり続けている。
  これは面白い現象です。


 ● 05 ● おわりに                      :[ 05 ]
  ̄ ̄ ̄ ̄

  えーと、強引にエンディングですが、たぶんここまでちゃんと読んです
 べてを理解すべく挙げられた作品を見ている人はいないと思うのです。な
 ので、もしここまでとどいた人がいれば、おめでとうと祝福を送ります。
 そんなことは意味のないことですし、これを書いたのはそういう目的でも
 ありません。
  ただ単に、自分の中にあるものを限界まで絞り出そうとすると、こう
 なったと言うだけで、これに達していない人を軽蔑するとか意味は、一切
 ありません。でもさ、「電脳コイル」はどうなのとか、「SHIROBAKO」は
 どう思っているの? とか、「メイド・イン・アビス」に触れてなくて失
 望したわ、と言われる方がワクワクします。
 (当たり前ですが、見ている前提です)
  世界観の話題は深すぎて、こんなざっと洗ったぐらいでは語れるはずが
 ないのです。
  わたし個人が5時間は話せるとかそういうレベルではなく、月一で集
 まって合宿して、数千年語り合っても、常に新しい世界が生まれてくる世
 界です。これは恐ろしく楽しい話題なのだとわたしは思っていますし、だ
 れが決定版を出せるものでもないのです。

  いやあ、世界観楽しいわ。

  あ、次回以降はというか、次回は「のび太の魔界大冒険」の物語解析な
 ので、この圧倒的な名著がどう世界観を操作しているのかを、勉強しま
 しょう。テキストの用意はいいですか? 中古で買うと安いです。あらす
 じは一応書きますが、個人的な見解を押し付けるのは苦痛ですし、よんで
 るよね? という楽観的な観測のもとで書きますので、ご理解ください。


| 物語解析 | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
 吉本隆明『物語の現象論』を読んで

 こんばんわ、hikaliです。
 前回まで長々と続けてきた、吉本隆明『物語の現象論』の解読ですが、今回はその感想回となります。
 と、言っても何か確固とした予定があったわけではなく、いま真っ黒のテキストエディターを眺めながら、どうすんべ、と考えている最中だったります。
(わたしは、MS-DOS時代の慣れから、黒いバックに白い文字という環境で書いていたりします。やってみるとわかると思いますが、文字が暗闇に鮮明に浮かび上がり、文字だけに集中できるのです。これが白いバックだとどうしても周囲にカラフルな色彩を塗りたくなってしまう(笑))
 それでぼんやりと考えたのは、わたしの意訳を読み返しながら、そのときに何を考えていたかを思い出しながらサマリーを作っていく、というのはどうだろう、ということでした。

 ■わたしの4回の連載はこちら


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196006


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 2/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196007


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 3/4?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196008


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 4/4
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196009


 ■原文はこちら ■吉本隆明の183講演 - 物語の現象論
 http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a063.html




 わたしは正直、自分がどう考えていたかなんかはまったく興味が無いのですが、たぶんお読みいただいた方とわたしの間の考え方の差異が、吉本隆明の原文が持っている豊かさを際立たせると思うのです。
 わたしの意訳は、どうしてもわたしはこう読んだ、という独善的な見解になりがちです。そこには対話がないので、取り付く島がまったくなく、一方的にどうしてもなります。まあ何か御託を並べても説得力がないので、やってみましょう。
 どうなるんだろ(笑)。


 1.「語り手」はどこに位置しているのか

 この辺は、混沌とした文章に、うわーと頭をかきむしりながらざくざくザクザクと文章を削りまくっていた印象しかありません(^_^;
 ただ、削りきった文章を、最後まで読んだ知識で読み直してみると、出だしとして言わなければいけないことは全部書かれていて、あれ? 吉本隆明ってすごいな、と思う論旨の一貫性があります。
 繰り返しになりますが、これをわたしが削りまくって書いていたときは全体像なんてまったく見えていなかったのです。なので吉本隆明の原文にそれが内包されていて無駄なく書かれていたことになります。
(それを的確に要約する能力はどうもわたしにはあったようだ、ということにはなりますが)

 ここで語られる「語り手」でわたしが想起していたのは「イーリアス」でした。
 わたしは一度、「イーリアス」というのは、ご先祖様が戦ったトロイア戦争を逐一書き記したもので、それを聞いていた聴衆は、あ、自分のご先祖様が活躍してる、と心ときめかせるものだったはずだ、書いています。なので、最古の傑作叙事詩の聖書のように扱われると、
「あー、いや、そこにきみのご先祖様出てないでしょ!」
 と、なんか変だな、そういう書物じゃないんだが、という気にはなるのです。
 これと対比できるのは、小泉八雲の「耳なし芳一」です。
 この怪談は盲目の琵琶法師である芳一が歌っていた相手は、壇ノ浦で死んだ平家の怨霊だった、という話になるのですが、芳一は琵琶法師ですから、歌っていたのは、平家物語になるのです。
 つまり、ホメロスがギリシャ人たちに「イーリアス」を歌っていたのとまったく同じ構図。芳一は、自分にひどいことをすることになる、平家の怨霊たちに、その末路語っていたのです。芳一がひどい目にあったには、そのひどい物語を語ったからではなく、寺の住職に言われて、弾き語りをしに行くのをやめたからです。
 平家の怨霊たちは、どんなに残酷な結果になる物語であっても、それを聞きたかったのです。
 なんかこういう話をしだすとキリがないですね(笑)。


 2. 『源氏物語』における「語り手」

 このパートは書くことがないかなあ・・・。
 現在の散文の技法は、シーンを切るときにいちいちその理由を言わないんですよね・・・。吉本隆明も後半の方で言ってますが、スイッチを切るようにブチブチと切ってしまうんですよね。これは映画の影響だと思われます。
 実際の映画はもっととんでもないことなっていて、大ヒットした「君の名は。」などは、制作資料を読んでいると、映画に0.01秒単位の絵コンテを描いていて(たぶん言っている意味が不明だと思いますが)、楽曲提供者に0.01秒単位で曲を作ってくれと言っているという意味不明の世界になります。
 これはマッドビデオという世界の手法で、多分一番著名なのは、エヴァンゲリオンというアニメの、オープニング主題歌アニメが、だいたいあれがマッドビデオ、というと分かる人にはわかります。
 もっと知りたいというのであれば、参考資料を示しますので気軽に言ってください。たぶん見ないとわからないです。
 閑話休題。
 さっさと次に行きましょう。


 3. 『源氏物語』が提起したこと−「語り手」・作者・登場人物の分離

 ああ、ここで、作者がどういう意図で書いたか、と読者がどう読んだかの隔絶が生まれる話が出てくるのですね。
 吉本隆明はその隔絶が大きければ大きいほど豊かな物語だ、とたぶん言っています。
 こういうところは素直に尊敬します。
 とても人間が大きい。
 どうしても書いた側は、こういうつもりだったと言いたくなるんです。
 これはあまり良いことではありません。
(よくないなあ・・・、と反省中・・・)

 過去に読者としての発言で、わたしにひどい発言がありました。
 ある作品を読んで(ゲームだったのですが)、これは本物の○○ではない、と当時のサークル仲間(ゲーム研究会でした)に言ったことがあったのです。こんなものは納得出来ないと。
 吉本隆明の時代にはなかったことで、たかだか40年ぐらい経った現在の日本は、創作者大国になった感があります。19世紀のパリも同じような状況だったのではと思うのですが、当時日曜画家として専業ではない画家が後に大変評価されたりしていました(たとえばルソー)。
 現在の日本は百種類近い漫画雑誌(週刊・月刊)が存在し、一誌ごとに十人以上の専業漫画家を抱えています。これに関係するアシスタントなどの漫画家の卵まで考えるとこの数倍になります。
 ここまでが準プロまでのレベル。
 しかし、日本のほとんどの創作者は同人レベルで、2016年のコミケットマートの参加サークル数で約3万5千。これにさらに落選組を数えると、5万サークルはおそらく下らないはずで、サークルはひとりでやっているわけではないので、さらに数倍から数十倍。とても荒いフェルミ推定ですが、日本にはおおよそ数十万人規模の同人創作者がいるという計算になります。
 この人達が作品を見るとどうなるか。
 少し線が荒れるだけで作画崩壊だ、と騒ぎ出し、原作のある映画を見るたびに、「こんなのは○○じゃない!」と怒り出すのです。これは一言で言うと、
「おまえ失格だ、こんなもんでいいと思ってるのか、おれに替われ!」
 と言い出している光景に他なりません。
 これが現在の日本。
 つまり恐ろしく創作者の裾野が広くて、どの段階もレベルが高いのです。
 こんなことを言うのは変なのですが、わたしが19世紀のパリに生きてみたかったと思うのと同じように、もしかしたら20世紀末から21世紀初頭の日本に生まれたかった、という人が、200年後ぐらいには生まれるかもしれません。
 源氏の時代と違うのは、貴族のような特権階級でなくても、100円のノートに漫画は描けるし、テキストエディターがあれば、いや携帯電話でも、物語なんていくらでも書けるのです。
 そのときにわたしが言ったのは、「こんなのは本物の○○じゃない!」ということでした。製作者の分解能は、さすがに万能ではないので、かならずムラがあります。吉本隆明が想定していなかったのは、書き手より読み手のほうが、物語上の登場人物を遥かによく理解しているということです。それはちゃんと書かれていますが、それが読み手と書き手が逆転する状況まで想定していなかった。
 つまり、読み手のほうが書き手より精度が一時的に高くなって、これは間違っているという読み手のほうが正しい状況は、ありえなかった、という意味です。


 4. 文学の本質から見た私小説−島村利正『佃島薄暮』

 えっと、これでもざくざく削っているつもりなんですが、恐ろしい文章量になりつつありますね・・・(^_^; たぶん、吉本隆明の講演自体がわたしにとってジャストフィットの話題だったためと思われますが、こういう刺激的な内容を探してみたいですし、書いてみたいとも思います。
 ここから講演は、現代の小説を例に挙げての内容になっていきます。
 まず私小説から入って、私小説の頂点にある構造、そして底辺と頂点の中間にある構造という話になります。

 どこで差し込もうかと思っていたのですが、たぶんここしかないだろうなあと思いながら差し込みますと、今日(2018年正月)NHKの番組で「絵葉書にない尾瀬」というドキュメンタリを見ました。ひとことでいうとナショナル・ジオグラフィックが得意としている写真家に密着した映像番組で、3年に渡って密着取材したドキュメンタリでした。
 3年を30分で放映するということに無理があります。
 また、この映像にはナレーションが入ります。
「あ、ツキノワグマだぁ」
 当たり前なのですが、そのナレーションの方はそこにいて驚いているのではなくて、映像を見て驚いているんです。その映像を撮っているのは精鋭取材班で、まずうら若い女性アナウンサーとは別のベクトルのプロフェッショナル。
 吉本隆明は私小説の定義の一例として、「作者」と「語り手」と「登場人物」がイコールであると、虚構としてそう見せようとしているのが私小説の特徴、と言っています。先程の番組の例で言えば、「作者」が「取材班」、「語り手」が「ナレーター」、「登場人物」が「取材先の写真家」となるのでしょうか。
 このドキュメンタリの例で面白いのは、製作者の主観は誰なのかが存在していない点にあります。「取材班」はカメラを回しているだけ、「ナレーター」はおそらく尾瀬にも行ったことがない、そして1番主観に近いのは「取材先の写真家」になるのですが、彼は番組の全体像に影響を与えようがない。
 「ディレクター」の主観になるの? と言われると、そこまで権限ないだろ、と感じます。いったい、そのドキュメンタリを主体的に作っているのは誰なのか。いや、主観はないよね、という結論になるのが面白いところです。
 このように分けてみると分かりやすいのですが、小説における「作者」と「語り手」と「登場人物」はけっこう明白に分かれます。この辺はこの講演でも吉本隆明が言うように、小説を書く人たちが他の領域の創作物の影響を受けているからかもしれません。例えば映画だったり、例えばドキュメンタリだったり。そうすると作り方が根本的に変わります。
 たとえばわたしにとって、リアリティーのある人物描写というのは、質量感を感じられる人を書けたかになります。わたしがよく自分で書いた文章を読んで、ああ、これは書けているから、いろいろ問題はあるけどもいいや、と言っていたりするのの正体はこれです。セレンやルナがここにいるからいいや。彼女たちは切実な今を生きてるじゃないかと。
 この話をすると長いので、リクエストされない限りしないですが、「作者」の立場としては、「登場人物」が勝手に動くのを見ているのは、至福です。

 えーと、なんか、吉本隆明を無視していて心苦しいのですが(^_^; 40年時代が過ぎ去ったときに、そもそもその論評が成立しない時代になってしまったと言うのはあります。
 吉本隆明は、登場人物たちが勝手に動くとは言いません。
 これは端的に、書いたことがないからです。
 しかし、書く人の醍醐味はこれであって、わたしなどは、物語に詰まったときに、その登場人物たちが何を言うかに耳を澄ますということが頻繁にあります。ディスカウントストアへ歩く道すがら、突然にリニーの声が聞こえたときがありました。最大の影響を与えたのは、たぶんウタリでしょう。単なる翼竜少年と思っていたのですが、その彼が言った言葉で、セントラル大開拓時代が始まるとか、ありえないでしょう。
 やつは言ったんです。
「つくりたい」
 と。
 そんなことを言われたら、無視できますか。

 ここで切ります。


 5. 民話と私小説の違い

 えーと、続きで書くと、このセクションはナンセンスだよね、となるんですが(^_^; 別に意図していたわけではなく、続いて書いてみたら、意味なくね? となった次第です。たかだか40年違うだけで大幅に違うのに、1500年。そこに違いがないというのは、何らかの補強がなければ無理があります。
 最大限、吉本隆明をえこひいきをすれば、彼が予見していた通りに彼の次の世代で大断絶が起こる環境が整ったのです。それはなにかといえば、映像という主観が絡む要素がない物語の描き方が、この世の中の中心になったことです。
 ぜんぶ客観が当たり前、の世界になったのがたぶん映像の世紀です。
 この観点から、吉本隆明の視点に立って考えを巡らせるのは、たぶんとてつもなく有益なことですし、映像作家は恐ろしいほどの示唆を得られるでしょう。わたしは映像作家ではないので、素人がうるさいよと言われてしまいそうなのですが(笑)、こんなことをねちゃねちゃと考えていたのは、わたしごときがいうのはおこがましいのですが、文章書きだけなんです。
 吉本隆明によれば、なんか1500年のノウハウがあるみたいですし、わたしはつまらない人ですが、彼に付き合ってくださいませ。


 6. 東峰夫『天の大学』の高度な物語構造

 7. 山川健一『さよならの挨拶を』における陰影

 ここはパスします。
 感想はあるんですが、一般の人が読んでも意味がない文体論争になるからです。
 わたしの文体がどういう系統にあるとか知りたいですか?
 わたしは、わたしの文章には興味がありません。
 それはなんの意識もしないでも、書けるからです。
 そう、そう思います。


 8.イメージの価値の深化と表現形式の変化

 はい、やっと話せるセクションがやってきました。
 ここの文章は、ほんとに意味不明に回りくどいですね。まあ、わたしが一切ショートカットせずに意訳したからというのもあるのですが、商品の価値とかさ、実際の物質がどうこうとかじゃなくて、マーケティングで決まってねえ? これが直球ストレートの意訳です。
 このときでてくるのは、わたしは死ぬほど大嫌いなのですが、村上春樹です。
 文章はだいたいうまいのですが、書いている内容に死臭しか感じない。
 これは完全に好みですが、生命力がない。
 わたしが尊敬する名だたる、絶望的ホラー作家には命の輝きがあったぞ。
 高橋克彦、小松左京、ラブクラフト、大原まり子、ここに夢野久作を並べようとして迷ったけど、たぶん同類だよな。
 死体が書いてる文章はわかる。


 9. 田中康夫『なんとなく、クリスタル』−イメージだけの生活概念

 えーと、いちおうわたしはデザイナーとして、何年だろう? あ、別に今からでも復帰できるので、年数には意味は無いんですが、6年? 兼任が多かったので、専業は4年というのがいいのだろうか、それぐらいデザインをやってました。
 その観点で考えると、デザインはイメージの世界ではありません。
 デザインで仕事をもらえるかどうかは、クライアントのFIXを取れるかどうかです。
 クライアントと交渉して、仮原稿送ったぜ、あ、まずかったか、指摘点は全部直したけどそれださくね? 原稿送る、あ、怒った、この色だめ? この前そんなこと言ってなかったじゃん、めんどいからちょっといじって送ろう、あ、通った・・・。
 だいたいこういうことだできるかどうか。
 見ているところとかは、デザインが標準レベルよりも高いかどうかだけなので、そこをパスをしているのに、ねちねち言われるのは、交渉の過程で相手をカチンとさせてしまったからです。まあわたしは、相手を怒らせるのの名人芸でもあるのか、たいてい勝負すると怒られます。
 攻めすぎ? と言うよりは、こっちのほうがよくね? と言い過ぎるんです。
 思い出すと背筋が冷えるのですが、3日かかって色調補正した原画のデジタル化を蹴られたこともありましたし(これは、色がわたしの色になりすぎていて、拒絶反応されたというわけですが)、原画のトリミング(PhotoShopで言うところの切り抜き)をするな、トリミングをすると最後の1ピクセルは絶対に濁る、と言われたこともあります。その当時は売上を上げることにしか興味がなくて、当時の自分のデザインを見ると精度が高すぎて、キチガイのようmなドンピシャの色味に、ノイローゼで鬱病だった当時に戻るようで怖いです。
 イメージの世界のクリエイターにも当たり前ですが、人生があるのです。
 その観点から見ると、下手くそだな、と思う文学世界もあります。
 だから、ここで乖離したなと。
 あんまり言いませんが、世代が分離した地点はここだなあと。


 10 イメージの世界を枠組みにするエンターテイメント作品

 もちろん吉本隆明もそれはとても賢明に理解しています。
 ここで、古典からの流れを理解しつつ、それはどういうものなのかを説明しようとしています。
 たぶん、と、自分のことを言うのは嫌なのですが、わたしが介入して、これってこう思うと言うことで、だいぶ吉本隆明の言ったことの意味が正確に理解できるようになっているのでは、と思うのです。吉本隆明を毀損するつもりは一切ないですし、わたしはいちいちツッコミがうるさい学生です。
 わたしはいちいち自分の理解のために意訳をした人ですし、まず理解したいと手間を掛けた人です。
 その観点から言うと、わたしは資生堂とかカネボウがどう考えているかなんて考えたことはありません。デザインとしてやってきた、それはたとえば花王のあるブランドのマーケティングというよりは販促サイトで(これは本当に末端の仕事が流れてきただけです)、その色調の研究とかはしました。それはこの些末なページであっても、クライアントのブランドイメージを壊してはいけないからです。新しいページを作っているので、デッドコピーというのはありえないんですが、そのトップデザイナーがデザインしたらどういうページを作るだろうかというのを、再現するのです。
 アンドロイドのようだ、と侮蔑の言葉を投げられたこともあります。
 そんなものを自分の文章に活かしたことがありますか? と言われれば、それは侮辱です。わたしは誰かの文体を2、3時間写経すれば、それを再現できる変態的な能力を持っていますが、それは大道芸人です。もちろん、それを侮蔑するわけではありませんが、そんなことをやりたいわけではない。
 なんだかわからないけれど、あなたの文章はすてきだね。
 うまく説明できないけど、すてきだ。
 絵であればいくらでもあるんです。
 たとえば今日(1月8日、これ書いている本日は1月9日ですが)見てきた、カミーユ・マルタンの画集の表紙とか。ひょうたんの蔦と印刷機の絵なのですが、色がポップで、わたしが大好きなアールヌーボで、レイアウトが絶妙すぎて、静かな秋の音がする。それでいて印刷機の金属音がする。激混みの美術館で、たぶん誰も見てなかったんですが、まあ、これだけのために図録買うから、さすがに行くかと思うまで見てました。たぶん職業としてデザインやっていた人は、なんだこれは、すごすぎだろと思う絵なのです。
 そういう文章を書きたい。
 それが別に葛飾北斎の猿真似でもいいじゃないですか。
 正直に言うと、吉田博や、川瀬巴水の新浮世絵を見ると、吹っ飛んでしまうような翻訳です。逆に考えるとわたしが書いているのは、稚拙なんだろうなと、あたりまえですが思います。
 誰が尊敬する先人と同等以上のものが書けると思っているんでしょうか。

 このセクションで吉本隆明が言っているのは、わたしがとてもたくさん考えてきた、パターンとか構造を、この新しい世代の人達は生み出し続けていて、それに純文学の世界は勝てないだろうと言うことです。
 これは端的に19世紀のパリで起こった一つの大きな転換です。
 パリのアートは、わたしが見た展覧会の言葉を使えば、「エリートから大衆へ」そのクライアントを変えたのです。まあ、川瀬巴水や吉田博と比べてしまうと、Jリーガーと小学生を比べているような罪悪感を感じてしまうのですが。


 11.文学の本質的な衝動

 ここから先は、わたしの感想は不要でしょう。
 なぜかといえば、この先で賛同するところがないからです。
 もちろんこれはどう思うの? と聞かれるのは歓迎ですが、ちょっと自分とは全く違う基盤を守るために書かれている感じがするので、あー、それ無関係みたいです、となってしまうのです。
 まあ、吉本隆明がいう文学に興味が無いんですね。
 わたしはハヤカワの翻訳文学に染まっている人なので、シェイクスピア・ギリシャ・ローマ史・聖書以外意味なくね? と思ってしまう素地の人なのです。


 12.経済学的な方法から得られる世界像

 わたしは経済学は理解していますが、そこにはたぶん生活世界はありません。
 マーケットリサーチ・マーケティングの観点から考えると(わたしは、そのそこそこ著名な企業に在籍したことがあり、かなり根っこからその会社の思想に染まったのですが)、マーケティングデータには、定性データと定量データがあり、前者は情景を浮かび上がらせる情景の文章で、後者アンケート結果です。
 この定性データというのがとにかく難しい。
 わたしはその会社の創業者が書いた定性データの教えを読みましたが、ひたすら禅問答を読んでいるようで難しい。蛇の気持ちをわかるためには、蛇と同じように、寝袋で真冬の公園に寝転がってみないとわからないとか、言っていることは分かるのですが、行動と言葉が常軌を逸している(そして実際にしてたらしい)。
 対比として自分の知っていることを書いているのですが、その変態社長と、吉本隆明のどちらを信じますか?
 なので、ここで切ります。


 13.拡大する管理装置をどう考えるか

 ここはまとめなので省略。


 以上


 一応まとめをしようとして、これを書いているのですが、うん、そっけない(笑)。
 わたしが書くのを避けた所は、書こうとすると300行(原稿用紙30枚ぐらい)は書けそうなところです。現在すでに350行ぐらい書いていますし、たぶん5箇所ぐらいありましたから、合計で190枚ぐらい行くとかありえないだろという判斷で、ばっさりと省略しています。
 べつに話したくないわけではないので、吉本隆明の講演ぐらいの長さ(2時間ぐらい)が我慢できるのであれば話すので、あー、わたしは酔うと(飲み会のときの長時間会話のデータしかないのです・・・)、おそろしく話が横道にそれて話が長くなるらしいので(酔っている最中なので伝聞情報です)、これ意味ねえなと言う話に耐性がないと厳しそうですが、まあそんな奇特な耐性がありましたら、いつでも聞いてください(おそろしく敷居が高いwww)。

 さて、次は物語解析「世界観」の続きですか! <こうやって書くしかないように追い込むw 構想と原稿の第一回分はできてるんだよねえ・・・。
 「のび太の魔界大冒険」が主役です。もし読んだことがなければ読みましょう。ドラえもん大長編、初期8作は必読作品です。シェイクスピアより重要と思うほどです。ベニスを知らない罪よりも、「のび太の魔界大冒険」を知らない罪のほうが果てしなく重い。
 なんかすごい変な導入ですが、お楽しみにいただけたら幸いですw

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吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 4/4

 えっと、続きです。

 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196006


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 2/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196007


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 3/4?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196007


 ■原文はこちら ■吉本隆明の183講演 - 物語の現象論
 http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a063.html





 えっと、今回で本連載は最終となりますが、いかがだったでしょうか。
 わたし個人の感想としては、入院中の暇つぶしの延長線上なのですが、掘ってみると案外面白かった、吉本隆明がだいたいどんな角度から攻めるのかがわかったから、良質の講演録音の目星の付け方がわかった、となるのですが、一番大きかったのは文系の人たちがどんな論理展開をするのかが分かったということでしょうか。
 理系の論理展開は、わたしを見ていればいいというか、まあわたしは法文の論理展開がかなりはいってるので、文系に片足突っ込んでるのですが、だいたい100%確実なこととして状況を語ります。
 ニュートン力学の世界では、世界はすべて計算され尽くしていて人間が運命に介入することはできない、という「ラプラスの悪魔」という迷信が流行ったのですが、その後、アインシュタインの相対性理論が登場してニュートン力学を否定して、すぐに量子力学が現れて、ニュートンとアインシュタインを葬り去る。
 その世界では、観測者が何を観測するかだよという話になるのですが、量子力学を加味すると、結局結論は観測を誰がするのかという、よくわからない結論になります。結論は出したくないので言いませんが、ああ、こういう見方もあったのか、というのが素直な感想です。前回、別建てで感想を書くと言っているので、それは年内に間に合うのかと思いつつ、まずは続きをお送りしましょう。


 10.イメージの世界を枠組みにするエンターテイメント作品

 この問題をいちばんよく体現しているのは、現在におけるエンターテイメントとその作者たちです。エンターテイメントの作者の、かなり質のいい部分をとってくれば、そのことがわかります。
 誰でもいいのですけど、さっきあげておられた筒井康隆でもいいのですけど、この人が野放図に娯楽作品を書いているときは、面白おかしいのですけど、純文学の作品みたいなのを書こうみたいにまじめになってくると、どうするかと考えればわかります。
 つまり、何もすることがないのです。
 2つしかないのです。

 ひとつは新しいパターンというものを考えることです。物語を構成としてでなくて、新しいパターンを考えるということです。この意味あいでは、たいへん労力と思考力を費やしていることがわかります。絶えず新しいパターンをつくろうとか、絶えず新しいパターンを中心に作品をつくっていこうというような、そういう努力はしのぎを削るくらいに、熾烈だっていうことがわかります。
 この熾烈さというのは純文学の作家にはないものです。
 純文学の作家というのは、そういう意味合いでいえば、たいへんのんきです。なので、エンターテイメントの作家の優秀な人のほうが絶えず新しいパターンをつくろうと絶えずよく勉強していますし、よく考えています。そういうことがわかります。
 しかし、エンターテイメントの作家たちのいる世界というのは、いま言いました、イメージ生活の世界というもののなかで、それがなされているということが、いちばん大きな問題を喚起するところなのです。
 だから、筒井さんでも、栗本さんでもいいのですけど、優秀なエンターテイメントの作家が絶えず考えている新しいパターン、それから、しのぎを削りあっている新しいパターンというものの努力というものは、幾分かですけど、資生堂とカネボウとはどういうふうに化粧品を売るかってことでしのぎを削っているでしょう、入れ物から、宣伝の場面から、しのぎを削っているでしょう、それと同じところがあります。宣伝のパターンの新しさでもって勝負をするといいましょうか、それと若干似ているところがあります。
 構造的には、同形なのです。同じなのです。
 つまり、そこが大きな問題なのです。つまり、それらの努力というものが、現在のエンターテイメントの作品を非常に質のいいものにしています。優れた作品にしています。
 しかし、それと同時に、エンターテイメントの作家たちが言葉を行使している世界というものは、いま言いましたイメージだけが存在する、あるいはイメージの生活世界というものに限定されると言っていいくらい限定されています。だから、そこが問題なのです。そこが問題であって、そこがまたエンターテイメントである所以なわけなのです。だから、この問題を本質的に考えられないかぎりはどうすることもできないです。

 筒井さんのもうひとつの努力は何かというと、言葉の努力です。あるいは、語り口の努力です。これが文学作品の努力になっています。これは筒井さんよりももう少し上等な、たとえば、田中小実昌なんて人をみればよくわかるのです。この人の努力も語り口の努力です。語り口を的確に端折ってといいましょうか、削り落として削り落として中身だけみたいな語り口、それで語り口の転換を見事にやれて、そこに文学作品としての努力を集中していることがわかります。

 どうしてそういうふうになるかといいますと、いま言いました、イメージ生活の世界というものを作品世界の全部というふうに、あるいは、物語の枠組みというふうに考えているから、そういうことになってくるわけです。また、そこ以外に努力のし場所がないわけです。


 11.文学の本質的な衝動

 ところが、もしも本質的な文学作品というものを考えようとするならば、もう少し違うことを考えなければならないということがわかります。すこし遠回りをしてその問題を説明します。お話してみたいと思うのですけど。
 つまり、どういうことかといいますと、
 この世界というものをつかまえるために、
(ぼくはかつて青年の時に、)
(いちばん有効なんだと、)
(このことを知らないために、)
(自分はたとえば戦争中ダメだったなっていうように、)
(つまり、ムードとか、情緒だけでいったからダメだったなって思って、)
 世界っていうものを把握するのに便利な方法として、経済学的な方法というのがあるのです。社会経済学的な方法というのがあるのです。
 この社会経済学的な方法というものは、これでもって世界が逆にわかっちゃうというふうに考えると、とんでもない簡略化みたいのが起こるわけですけど、逆に言いまして、そういう欠陥もあるがために、世界というのを把握するのに、それが一番把握しやすいって、いろんな質とか、差異というものを全部そぎ落としまして、非常に把握しやすいということがあるわけなんです。
(ここ、文章がわかりにくくつながってるので、うまく繋がっていないところを()で隔離しています。この辺はわたしが言っている、物語を要素に簡素化して、法学的に捉えるとすごくわかりやすくなると言っていたのと、近似したことを言っています)

 その概念を変えて言うと、なぜイメージの生活の世界というものが、大規模に大きな深さでもって存在するように現在なっているのかと考えますと、基本的な衝動はとても簡単なのです。
 たとえば、物体的な価値、あるいは物質的な価値というものは、先ほどの例でいいますと、どの化粧品会社の化粧品でもたいして変わりはないでしょう。しかし、これを売るとか、与えるとか、そういう場面になっていきますと、化粧品の中身でいくというよりも、中身以外にイメージの価値を付け加えまして、実質的な価値、プラス、イメージの価値でもって競争する以外にないわけです。その熾烈な競争のやりかたのなかで、イメージの生活世界というものが膨大になってきているということが言えるわけです。
 だからもし、みなさんの実質的な生活のなかで、実質的な生活と極めて飛び離れてしまったイメージの世界があったとしても、みなさんはそのイメージの世界に入ることができない。しかし、みなさんの実質的な生活の世界に対して、それよりも若干イメージが加わった世界というものを展開すると、みなさんはそのイメージの世界に入りたいと考え、入ろうとする。だから、絶えず、実質的な生活世界が要求する欲求、願望よりも、絶えず、若干だけ高い欲求、あるいは願望のところにイメージの世界を絶えず付け加えようという衝動というものは、生じてくるわけです。
 その問題は、膨大なイメージ生活の世界を現在大規模に展開させている大きな理由であって、私たちが24時間生活するならば絶えず、実質的な生活世界からそういうイメージの世界へいき、また、そこから降りてきて巡るということをやらなくちゃいけない。どうしても、そこを通過していかなくちゃいけない、必然の通路みたいなものとして、それは存在しています。
 その世界を通路として存在せしめている根本的な衝動は、いま言いましたように、物質的な価値とか、物体的な価値というものに対して、イメージの価値を付け加えたりというような、イメージの価値で競争したいという根本的な衝動というようなものが、そういう世界を膨らましているということは明瞭なわけです。

 もしも文学作品が、このイメージだけの世界というものも通過しながら、なおかつ、これでもって自己主張したいとか、個性をそこでつかまえたいとか、個性を表明したいとか、なお、ありあまる作品の価値をつくりあげたいというふうに考えるならば、文学というものの根本的な衝動というものが、いずれにしても、現在存在しているイメージの世界の厚さと規模というものを、いわば、くぐり抜けて、なおかつ個性的である、そういう世界というものは、なおかつ価値がある、そういう世界というものを実現したいというふうに考えるならば、その必須な条件というもののひとつに、いま言いましたイメージの世界というものを、とにかく、くぐり抜けて、その上に出るといいましょうか、その果てに出るといいましょうか、その端に出るといいましょうか、そういうことがどうしても必須の条件になるわけになります。
 つまり、文学作品にとって、文学作品をもし本質的に問おうとするならば、どうしても現在つくりだされているイメージの世界というものを、とにかく、くぐり抜けて、なおその果てに出るということが、どうしても必須の条件になります。

 もしもそうじゃなければ、そうじゃなくて、つくられている、できあがっているイメージの世界の中で操作するのが文学だというのならば、それは、現在のエンターテイメントの世界がかなりな程度良質な、つまり、優れた作品として、実現しているところがあります。
 だから、その世界でもっとそれを実現すればいいので、もしも、文学にとって本質的な衝動というものが、そうじゃないのであって、現に存在する膨大なイメージの世界、あるいは、イメージ生活の層といいますか、厚みといいますか、それをとにかく、くぐり抜けて、なおかつ、やっぱりひとつの個性ある作品としての自己主張をしたいということが、文学にとって本質的な問題だったとしたらば、どうしてもここをくぐり抜けて、なおかつ個性的でありうる、つまり、良識的に現実性をもちうるというような、そういう世界をどうしても実現する必要があると思われるのです。


 12.経済学的な方法から得られる世界像

 では、どうやってそれが実現可能なのだろうかっていうことが、最後に出てくる問題です。批評にとっても、想像にとっても、最後に出てくる問題のように思われるのです。これはもしここでどういう作品がそういう作品としての条件を備えているのかというようなことになっていくし、また、どういうふうにしてそれは可能なのかということが問題になってくると思うのです。
 つまり、どうしてそのような作品の実現が可能なのかということは、いわば問うこと自体が無意味なのであって、あるいは、可能にする人が可能にするだろうということにすぎないのかもしれないのです。ただ、それをまだ実現されていない作品とか、実現されていない物語とかいう意味で、その条件といいますか、いくつかの性格というものを言おうとすれば、何を考えればいいかということがあると思うのです。
 これは、経済学的な方法というものをもう1回、構造的に考えてみますと、現在、たとえば、実質的な、あるいは物質的な、生活世界にまつわる、つまり、生活世界のある部分を何時間か、8時間なら8時間のものを占めているものをつくっている世界とかは、いわば働きにいって、労働して、働いて、そして賃金を得て、帰ってきて生活してどうするというような、こういう片っぽじゃそういう世界の人であるし、片っぽじゃ賃労働からあり余ったものがあると、あり余ったものをどういうふうにこれを分けようかということを、現在でいえば、国家なら国家というものが単位をもってそれをやっている、そういう全体を持つ世界です。
 こういうふうに構造化しまいますと、こういう世界に対して、どういうふうに国家が、ある制御装置がどういうふうにそれをコントロールするかという形で平面化して考えて、図面化してしまいますと、そういう世界のひとつの姿が得られます。
 つまり、賃労働している人達の世界がある。そして、その賃労働から得られた余剰分というものをある装置が管理していて、その装置が管理した装置が、それを自分たちが適当に足りないところに補うとか、余ったところから取るとか、そういう形で管理している場合もあるし、また部分的にだけ管理している場合もありますけど、そういう管理している装置がある。

 そしてあとは賃労働しては一日を暮らしている人達の世界が増えているというような、グラフ化された世界像が得られるわけですけど、その世界像のなかで、たとえば、管理装置である国家が100%そういう賃労働者の世界を管理している、そういう世界から、またそうじゃなくて、日本のように十何パーセントだけ管理していると、そういう世界と、それから、ヨーロッパのように30%なら30%管理されている世界とか、それから100%管理されている世界とかというふうに、管理の度合いが違っていても、そういうふうに管理されている世界像の中に、賃金労働者みたいなものが、現在の非常に高度な資本主義国では、たとえば、90%ぐらいが賃労働者になっています。これはいまに100%みんな賃労働者になります。しかも、賃労働者になっておいて、賃労働者自体は自分を中産階級だと思っています。しかし、だいたい100%そういうふうになっていくと思います。
 つまり、もっとその度合いを、もっと極端に持っていきますと、100%が賃労働者であって、全部が自分たちは中産階級だっていうふうに思っていると、そういう世界に対して、たとえば、管理装置が30%の管理装置の、西欧のようにそういう世界もありますし、社会主義圏のように100%の管理世界であるところもあります。それでいまに西欧だったら30%がだんだん40%、50%というふうになっていくだろうというふうに思われます。
 いずれにせよ、そういうふうになっていって、管理世界では100%じゃちょっと無理なんじゃないかっていうので80%にしようじゃないかみたいな、ポーランドみたいな、そういうふうな世界に、多少修正が起こるみたいに、だいたいそういうイメージで図面化することができます。あとはぜんぶ賃労働者というふうにだんだんなっていくみたいな、そういう極端なイメージを浮かべますとだいたい世界像の平面図というものが得られるわけです。

(たぶん、ここ原文を読むとびっくりすると思うのですが、わたしが「図面化」とか「グラフ化」と意訳している部分は一様に「のしイカのようにのされる」と比喩されています。ここは生命であるイカが、スルメのようになって1枚2枚と物のように流通している、というようなニュアンスだと思うのですが、現代人にはかえって分かりにくいので、「グラフ化」「図面化」と意訳しています。わたしとしてもその言葉には「人を数字にしてしまって全体像が分かるとでも思っているんだろうか」というニュアンスを込めているところはありますので、わたしの中ではだいたい同じ用語なんですが、分かりにくいですかね・・・(^_^; )


 13.拡大する管理装置をどう考えるか

 ここでもって、たとえば、先ほどいま言いましたイメージの世界に文学作品、つまり、言語表現の手段というものをその世界に限定していく人達のそういう作品が一様にパターン化していく、あるいは、パターンの新しさを問題にする以外にないというふうになりつつあるし、純文学の作品というようなものは、そういう問題意識に耐えられないで、そこのイメージの世界を突き抜けていこうとするのだけど、突き抜ける力がなくて、失墜してしまうというものが、たぶん現在の純文学の作品の大部分だと思うのですけど、つまり、そこのところで、もし問題の意識を、そこのイメージの世界を突き抜けて、なおかつ存在しうる、存在感をもちうる作品というものが、文学にとって望ましいものであるとするならば、それはたぶん、ぼくの考えでは、いずれにせよ、管理装置というものをどういうふうに考えるかということが問題なような気がします。
 つまり、管理装置というものをどういうふうに考えるかという場合に、管理装置は少なくなり、そして、なくなってしまうということが、たぶん、イメージとして、範型としてといいましょうか、理想形として描きうる世界だっていうふうに考えられます。ぼくは考えます。
 しかし、現在のところではそうでないのであって、文学作品に基本的な無意識を規定している一種のシステムというものは、だんだん管理50%以上に近づこうとしているし、すでに100%だというところは、たぶん、管理80%以下60%にしようじゃないかというふうな、そういうふうなところの衝動に向かいつつあると思います。
 いずれにせよ、だいたい僕らの考えられるかぎりでの、現在の文学をたぶん無意識のうちで司っているシステムの世界というものは管理を拡大するというところにたぶん行きつつある、日本はもちろんそうですけど、つまり、管理を拡大するというところに行きつつあるように思われます。
 だけれども、ほんとうに描かれる範型というものは、世界イメージというものはそうじゃなくて、管理を減少させる方向というものが描かれる世界だというふうに考えます。つまり、この管理を減少させられるというような世界地図といいましょうか、世界地図というものを範型として描いたところで、いかにして作品が成り立つのかということが、たぶん、現在における文学の本質的な問題として残るんじゃないか、つまり、あるんじゃないかという気がします。
 しかし、現に行われつつある、移行しつつある場面はそうではありません。この場面は変わることはちょっと考えられないのですけど、ちょっと短い期間では考えられないのですけど、たぶん、そうじゃなくて、管理装置というものの拡大の方向に、とくに日本の文学というものを無意識のところで規定しているシステムというものは、たぶんそれを拡大する方向にいくだろうというふうに考えられます。だから、当分の間、管理イメージというのは拡大する方向に、そして、アトム化する方向に、そして、個性もパターンが問題なんだっていうような、そういう方向にたぶん当分の間は、文学というものは必然的にいってしまうんじゃないか、それに耐えようとする形の作品というものがどこまで耐えるかという場合に、その方向性といいましょうか、指向性といいましょうか、そういうことはたぶん、もう少し先のところに管理というものが減少されたときに何が起こるのかというような、そういう問題のところに、たぶん問題の本質的な部分があるんじゃないかというふうに考えられるということなのです。
 こんなことはいくら考えたってどうしようもないことで、具体的に作品をつくる人は具体的につくるのであり、また具体的に突破してしまう人は突破した優れた作品を書いてしまう人は書いてしまうのですけど、意識的であれ、無意識的であれ、書いてしまうのですけど、ただ、批評というものが、やはり批評固有の問題というものを抱えながら、しかしその固有の問題というものがどこを目指したらいいのか、あるいは、どこにひとつの究極的なといいましょうか、どこにイメージを、原型を描いたらいいのかということを考えた場合には、若干そういう点でいえるような、つまり、はっきりさせられるようなところがあるように思われるのです。
 つまり、そこの問題はたぶん現在における、どうやって物語がつくられるのか、あるいは、つくれないのか、どうしてそれが壊れてしまうのかというような、そういう問題にまつわる、非常に現在の根本的な問題のあり所だっていうふうに、ぼくには考えられます。いちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)

(ここは一切手を入れていません。大変わかりやすい)


 14.司会

 たいへん長時間にわたりましてお話しいただいたのですが、質問を少し受けてくださるそうでございますから、一人か二人ございましたら出してください。


 15.質疑応答

(質問者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)

 以下原文は質疑応答ですが、質問が聞き取れてなかったり、途中で切れていたりするので、省略します。


 さいごに

 以上、吉本隆明の講演録音『物語の現象論』から、意訳気味にお送りしましたがいかがだったでしょうか。わたしとしては、入院中に漁っていたポッドキャストから、吉本隆明氏の講演録音集を発見し、その中から面白そうに思えた『物語の現象論』を聞いてみたら、あまりにも話しが奔放に飛びすぎていて意味の理解が追いつかない、から、これは意訳して書き出してみるか、というところから始まったのですが、以外なところに着地しました。
 わたしとしては語り手の話と、語り手を通した物語の構造の話で十分面白かったのですが、タイトルである『物語の現象論』の話が出てくると、それは現代的マーケティング手法の影響を受けたエンターティナーが小説を書き始めたとという話になり、その手法で古典的文学作品に比類するものは書けるとしたら、どういうものになるのだろう、と話が進んでけっこうスリリングです。
 わたしの観測範囲では、実はそれは吉本隆明の娘である、よしもとばななが達成してしまっていて(この辺ドラマチックですねw)、女性作家に多いのですが、江國香織、角田光代と言ったあたりがわたしの観測範囲内です。男性作家では村上龍がまず上がって、あとは何人かのSF作家(山本弘、小川一水、野尻抱介、大原まり子、あたりでしょうか)がなんとなく達してるかな、という気がします(北村薫も忘れてはいけませんね)。
 まあ、こう言った雑談は別建てでわたしの感想回を設けることにしますとして、来週あたりにお送りしたいと思いますが、とりあえずのところは、これで終了です。

 長々とお疲れ様でした。


| 雑記 | 02:30 | comments(0) | trackbacks(0) | 昨年の記事
吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 3/4?

 えっと、続きです。

 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196006


 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 2/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196007


 ■原文はこちら ■吉本隆明の183講演 - 物語の現象論
 http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a063.html




 先週の進行が異様に速かったせいか、今週は土日だらだらと何もせず(あー、いや通院したり、部屋の整理で雑用したのですが)、平日に入って、あれ、なんにも進んでない、とぎくりとしたのですが、よく考えてみれば今日火曜日じゃね? 金曜日まで4日あるじゃんと、我に返ったりしてましたが(ちなみに金曜深夜にほぼほぼの完成稿がしあがっている)、いかがお過ごしでしょうか。
 この解読連載は、要はあり物の講演内容をわたしなりの理解でまとめ直すという、一種の学生のようなことをしているのですが、ほんとにこれでいいのだろうかとびくびくしつつも、こんなのをありがたがるのはわたし自身しかいないな、という自嘲に似た感慨を感じます。
 ただまあ、秘密の手帳はわたしだけが読めればそれでいいので、ほんとにこれはコクヨのノートだね、と思いながら書いています。そうでない人をほとんど考慮していないのは、ほんとすみません・・・。
 この講演自体に関するわたしの感想は、本編とは分離して、別立てでまとめたいと思います。


 7. 山川健一『さよならの挨拶を』における陰影

 主人公は僕というかたちで出てくるわけですけど、僕という主人公がトルエン中毒で、トルエンを吸って酩酊したときの状態の描写なのです。

 夏だというのに体は冷え切っていた、手のひらは凍えてしまいそうだ、何もかもがまだ始まったばかりだというのに凍えてしまう。ぼくの怒りや道を照らすカンテラの明りや、ささやかな希望が凍りつく肉体の中心に一点の、たとえば氷の破片のようなものがあるのだと思う。そいつが少しずつ大きくなる、少しずつ、しかし確実に肉体は熱を失っていく、すべてが凍えてしまわないうちに、もう一度やるのだ、たとえば、腐った林檎みたいな匂いのこもった家に火を放ったように、もう一度やるのだ。時間がない。時は信じられないほどの速さで過ぎていきつつある。一度立ち止まれば、もう二度と再び歩き始めることはできないだろう。やり直すことができないのだ。ぼくは台所へ立った。ヒロシの背中に、ヒロシっていうのは友達です、密かに呼びかける、ヒロシ、ぼくらは短い人生のほんの数秒しか訪れない輝かしいときを精一杯光り輝かすために毎日息を殺して生きているので、その瞬間がなければ、誰も長い砂漠を超えていくことはできないのだ。ミルクを飲む。ヒロシが用意してくれた熱いミルクを飲む、砂漠の中に火が見える、輝く太陽の下で炎が揺らめいていた。ぼくの家が、過去の時間がびっしりつまった家が燃えている。そして、炎のむこうにアラブの軍馬が見えた。その上に乗っている男が火を放った犯人だ。そう、この僕だ。最後まで始末することができずに手元に残ってしまったカード、ジョーカーだ。こうあります。
(これはどこまで正確に再現できているのかは不明です)

 ここでやはり、ぼくというかたちで作品を語っているように見える存在なんですけど、その語っているような存在と、それから作者と、登場人物としての僕と、それから、それを地の部分で語っている語り手と、その語り手がまったくそもそも分離していることがわかります。いつも別々なことを考え、別々なことを言っているという複雑なかたちというものが、いま読みました合計20行ぐらいだと思いますけど、20行ぐらいの中に、たいへんはっきりと、ある意味でたいへん見事に表現されています。
(おっと、朗読のようです)

 そうすると、ここでこの場合に何を読んだらいいのか、それはたとえばこうなんです。このなかに物語の筋の展開を読もうとしても、この20行で何も展開されていないと言っていいくらい展開がされていません。この割合はこの作品全体にいえるわけで、この作品全体で何百行か何千行あるか知りませんけど、何千行のなかで物語の展開として筋の展開として考えたらば、そんなにたくさんの展開はありません。だから、あきらかにこの作品は、筋の展開を面白おかしい物語が書かれているからそれを読んでくれと言っているのではないことがわかります。つまり、そういうものが作品のモチーフでないことがわかります。
(この辺の質が恐ろしく高いので、ママで続けます)

 何がモチーフなのだろうか、それはまず全体を読む以外にないのですけど、しかし、文芸批評的な根性から言わせてもらいますと、これは登場人物と語り手と、それから作者とのかかわり合いの陰影というものを読んでほしいのだっていうふうに思われます。
 モチーフというのもあるのです。倫理的なモチーフもあります。それはトルエン吸引者である、心弱くて、やさしくて、世間的に非難されているといいますか、そういうような、どうしようもないような、素面ではとてもこの社会に生きていけないようなふうになっている、そういう精神状態に存在する、ぼくというトルエン吸引者の一種のやさしい自己主張なんですけど、つまり、やさしくて弱々しい自己主張の倫理があるわけなのです。それは、それを知ってほしいというかたちでしか、それをわかってほしいんだと、しかし、誰もこれをわかってくれないならば、じぶんはそれをできるだけ説明しようじゃないかと、しかし、じぶんはそれを説明したとしても、トルエン吸引者の内面というものを誰も理解してくれないかもしれないし、それを評価もしてくれないかもしれない、しかし、もしこれをわからせることに意味があるとすれば、それはたとえばひとつの倫理でありうるというような、そういうふうに言ってしまうといけないのですけど、いってみれば、そういうモチーフというものは、微かに立ち上ってくるのですけど、本来的にいえば、ようするに、語り手というものと作者という者と、それから、登場人物という者とが、あるときに出会ってみたり、あるときに別れて、語り手が地の部分として説明しているかと思えば、ぼくはこれこれというふるまいをして、これこれのことを感じていると、作者のほうは、これこれという感じをしている僕というものを描きながら、こういう人物を描いているおれというのは、つまり、作者というのはいったい何なのだろうかっていうことを、自らじぶんで問いかけているというような、そういうある時には、そういうふうに作者も登場人物も語り手も全部分離してしまうと、それで、あるときには、ある場面ではそれら3つが一緒になってしまって、あることを消極的にですけど言おうとしていると、あるときにはまたそれが別れてきてしまう、そういう複雑な一種の起伏があるわけですけど、そのことをたぶん、この作者は、この作品で語りたいわけなのです。
 この作品は先ほど言いました、頂点と底辺といいましたけど、たぶん中間に挿入される作品というふうに言うことができると思います。ただ、作品としていえば、たぶん、この作品はいちばんいい作品だと思います。つまり、いちばんいい作品で、たぶん、昨年度に書かれた作品のなかで、いくつかのなかに入る優れた作品だと思いますけど、だけれども、いま言いました意味合いでいえば、つまり、物語というものの一種の構造みたいなものからいえば、その中間に属すると思います。中間に属するひとつの作品のあり方だっていうふうに思います。
(序文しか削ってないですが、理路整然として素晴らしい文章です)


 8.イメージの価値の深化と表現形式の変化

 さきほど頂点と底辺と言いましたけど、頂点と底辺の間にさまざまなバリュエーションで語り手と、それから登場人物と、そして作者との、さまざまなバリュエーションで、さまざまな形っていうものが、形態というものがとられるというのが、現在の文学作品を非常に本質的なところで捉えようとした場合に出てくる問題なわけです。
 これまでで、いちおう現在の物語のありうべき様々なかたちのある典型というものを抜き出せたことになるのですけど、たぶん、みなさんのほうでは若干、不満があるんじゃないかと思うんです。ぼくもちょっとこれだけだと不満があります。
 だから、もうひとつ問題を出していきたいわけですけど、それは言葉の表現の様式、様式の問題なのです。この様式の問題というものが無視することのできない現在の文学の大きな問題であるように思われるのです。
 先ほども触れましたけど、現在、テレビなんか見ますとよくわかるのですけど、実質的な、あるいは、物質的な、あるいは、物体的なといいますか、物体的な存在感というものに対して、イメージの存在感というものが大規模な意味あいをもってきているというのが、現在の文学の中で抜かしてはならない問題のように思われるのです。
 だから、非常に典型的にわかるのは、テレビの化粧品なら化粧品というもののCMをみればすぐにわかるのですけど、物質としての化粧品というのは、たぶん、それほど変わりがないように思うのです。つまり、どんなものをもってきてもたいして変わりはないと、あるいは、どこの社のどこの製品をもってきても、それほどの変わりはない。それに対して、イメージの価値といいますか、つまり、物体、物質性をもたない価値をこれに付け加えようということがあります。この付け加え方が容器の形になったり、容器の質になったり、あるいは、色彩になったり、あるいは、それを宣伝している女性の顔になったり、あるいは、人気度になったり、そういうふうなかたちで様々なイメージとしての価値が付加されるというようなことが、その規模が非常に大きく、かつ深い層をなして存在するようになっているということが非常に大きな問題、つまり、その問題が文学作品に対してどういう影響を与えるかってことが非常に大きな問題のように思われるのです。

 人々はそのように付加されるイメージというものを、イメージと同じように瞬間的に、たとえばスイッチをひねれば、瞬間的に感覚の中に、あるいは、視覚の中に入ってきて、瞬間的にわかっちゃう、次の瞬間にはもうそれは消えてしまう、そういうようなかたちで存在するイメージ、あるいは、映像のあり方に大規模に晒されていますから、文学作品といえども、やはりそのようなかたちでつくろうというモチーフというのが当然あらわれてきている。
 だから、その場合には言葉を映像と同じように使おうとするわけです。
 映像と同じように使おうという場合に、いちばん根本的なことは何かっていいますと、瞬間的にある中心に入っていって、そして、瞬間的に中心から出てきちゃうっていうような、そういう作品形成の仕方をやはり文学作品自体もやろうとするっていうことが、必然的に起こってくるだろう、あるいは、起こってきつつあるということです。これは、若い年代の作家のなかに非常に多くあらわれてきます。
 これは意識してそうされている場合もありますし、無意識のうちに、映像がいきなり中心にパッとあらわれ、そしてまた、パッと消えるっていうような、あるいは、次々移っていっちゃうっていうような、そういう映像のイメージに慣れているために、言葉もやはりそのように使いたい、あるいは、小説もそのように構成したいっていうような意識的な意図の場合と、それから無意識のうちにそうなってしまうという、両方の場合があり、それは若い年代の作家のなかに多くあらわれてきています。この問題は、ぼくは現在の文学作品を考える場合に無視することができない問題のように思われるわけです。
(語尾、重複表現を中心にスリム化している)


 9. 田中康夫『なんとなく、クリスタル』−イメージだけの生活概念

 たとえば、例をあげればいいでしょう。きっとみなさんが読んでおられる田中康夫って人の『なんとなくクリスタル』っていう作品があります。『なんとなくクリスタル』という作品は、いいと思う人もいるし、こんなものはダメだという人もいると思うのです。だけれども、そんなことは問題ではないのです。つまり、いいと思おうが、悪いと思おうが自由であるし、また、たいした問題じゃないのです。
 この作品の基本的な性格は何かっていいますと、これは意識して作者が書いているわけですけど、意識された一種の風俗的な道行小説です。この道行小説という概念は、やっぱり古典時代からある概念なのです。つまり、東海道五十三次をこういうふうに渡って、浜松では何があって、それと同じ意味合いで、現在存在する風俗を導くふうに、辿っていくということがこの作品を書く場合の作者の根本的なモチーフです。これはかなり意図的な、つまり、意識されたモチーフです。そういうものを描きたいわけです。
 これだけの作品かっていうと、そうじゃないのです。これは、みなさんがそのことは気がついておられると思うのですけど、この中にも微弱でありますけど、自己主張と自己限定があります。
 それは何かっていいますと、ひとつは先ほど言いました、実質的、あるいは物質的、あるいは物体的な価値概念、あるいは生活概念でもいいのですけど、そういう概念がまったく存在しない、つまり、イメージだけの生活概念というものに登場人物たちを限定しようとしているということです。
 つまり、登場人物たちは学生さんだったり、モデルをアルバイトにしている学生さんであったり、あるいはデザイナーであったりするわけですけど、それらはいずれの職種も実質的な、あるいは実体的な生活を営んでいるというよりも、ほぼイメージの生活を営んでいる、あるいは、イメージをつくりあげることを職業とする生活を営んでいるっていうようなところに登場人物たちを限定していることがわかります。つまり、この限定はなぜそうされるかというと、作者が登場人物たちをイメージの価値、つまり、イメージだけの価値のところで、登場人物たちを動かしたいということがこの作品の自己限定だと思います。
 これは作者が意識していたかどうか、半分ぐらいしか、たぶん意識していないと思うのです。半分は無意識のうちに、じぶんにとって最も描きやすい世界だったからそうしたということかもしれないのですけど、あきらかにそれは重要なことだと思います。
 つまり、実質的な生活とか、物体的な、あるいは物質的な生活を営んでいるというような次元で起こる様々な問題ではなくて、イメージの世界、あるいはイメージがつくられたイメージの中の世界で生活している、そういう人間が当面する様々な問題というようなところに、登場人物たちを限定しているということが、重要なことだと思います。この限定の仕方というものが非常に現代的なわけです。
 たとえば、みなさんがこの作品をある意味で非常に現代的だと思われるとおもうのです。その現代的だと思われることの理由は何かといいますと、現在の風俗が描かれているから現代的だとも言えるでしょうけど、それはたぶん、表面的なことにすぎない。
 この作品をほんとうに現代的だと思わせている根本的な理由のひとつは、登場人物たちをイメージの生活、あるいはイメージをつくることに加担するといいますか、つくることにたずさわっている、そういう職業の人物たちの当面する様々な問題というものを描いているというところを、そこが現代性を感じさせるところの大きな問題のように思えるのです。
 そのなかで、たとえば、作者のもうひとつ、その奥にひとつの自己主張があります。その自己主張は取りだしてしまえば身も蓋もないのですけど、自分たちはこうだと思います。自分たちというのは、作者の生の主張じゃなくて、登場人物に言わせる主張ですが、自分たちは拘束されて生きるのは嫌だと、だけれども、まったく自由に生きるっていうことも嫌なんだ、あるいは、できないんだと言ってもいい。
 つまり、自分たちは拘束されて、拘束されてという意味あいは様々ありますけど、ごく単純に親父さんからお前は誰それと見合いをして、結婚して、会社に就職してどうしろと、こういうふうに親から言われていると、それを嫌だと言えば、親との衝突が起こるという場合に、親のそういう意向を拘束と感ずるという、自分たちは拘束されないという次元で、自分たちは生きたいということ、生活していきたいということがあると、そうすると、今度は逆にまったく非拘束であったらば、自分たちは困るのだ。
 たとえば、主人公はバンドをつくっている男の子と同棲しているわけですけど、そうすると、まったく自由に男の子と同棲はしているけど、男の子は男の子で勝手自由に振るまえば、たちまちのうちに同棲生活というのは壊れてしまいます。主人公はあきらかにそういうふうに壊れてしまうのは嫌なのだと言わせています。そういうふうには壊れたくないのだと、しかし、さればといって、恋愛して同棲しているのだから、生活の隅から隅まで相手に拘束されるというのは、自分は嫌なのだと、そういう意味では、自分がほかの男の子と遊びにいって、また同棲している男の子のほうは、ほかの女の子と遊びに行ったりということはありうるのだと、それから、あるときにはお互いに背中合わせで別々のベッドで寝るということもありうるのだというふうに、そういう意味合いでは拘束されたくないのだと、恋愛し、結婚し、こうしたんだからというふうに、だから拘束されるとか、愛しているなら拘束するという意味あいで、きつく拘束されるのも嫌だと、だから、そういう意味では拘束されたくないのだけど、それじゃあ非拘束という原則にすれば、同棲なんてものは3日と続くわけはないので、これは普遍的な真理であって、時代にかかわりのないことなのです。つまり、そういうふうに振るまった場合には、かならず、それはすぐに壊れてしまう、主人公はやはり、そういうふうに壊れたくはないのだ。また、この生活は壊したくないのだっていうふうに、そういうふうに主人公に言わせています。
 その主人公に言わせていることのなかに、ある意味で作者の倫理的な主張というのは、あるいは、もしかすると世代的な主張なのですけど、そういうようなものは、そこに間接的ですけど、こめられていることがわかります。つまり、拘束と非拘束というものの間に自分たちが存在したいんだと、しかも、その間に存在したいということと、しかし、自分たちの生活はだいたいにおいて、イメージの中の生活といいましょうか、イメージ自体を生活と考える、あるいは、イメージ自体をひとつの価値と考える、そういうなかで自分たちは生活したいんだということが、この作品の、要約してしまいますと、大きな自己主張になるだろう、あるいはモチーフになるだろうというふうに思います。
 みなさんたちはこの作品を読んで反撥されようと、肯定されようと、それはたいしたことはないのですけど、しかし、いずれにせよ、反発されるところも、肯定されるところも、いま僕が申し上げました作者の自己主張、ないしはモチーフのところに、反撥ないしは肯定されるってことは、ぼくは相当はっきりしているんじゃないかっていうふうに、僕には思われます。
 だから、そういう意味あいでこの作品を読みますと、この作品がなぜ新しい意味合いをもつのかということと、なぜ新しい意味合いをもつにもかかわらず、ほんとはかなり特殊なものなんだっていうようなことの意味あいというものも、ある程度はっきりするんじゃないかっていうふうに思われます。
 しかし、この問題は無視することができないというふうに僕には思われます。つまり、様々な意味で、現在、文学というものは、このイメージ増出力といいましょうか、あるいは、イメージ価値といいましょうか、そういうものの規模の大きさというのが大規模になってしまった。また、だいたいすべての人が24時間を過ごせば、必ずその中の半分ぐらいはイメージの価値が猛烈に大規模に、それからある程度の深さをもって存在するそういう世界といいましょうか、地帯といいましょうか、そういう帯をくぐらなければ、やっぱり24時間のうち何時間かは、そこをくぐらなければ一日は終わらないというような、そういう場面にみなさんが当面しているとすれば、そのことは無視することはできないし、たとえば、現在の文学が、若い人ですけど、微弱な主張で、かつ風俗的な主張ですけれど、その問題を無意識のうちに、あるいは非常に受け身なかたちで、その問題を表現しつつあらわれてきているということの問題は、かなり大きな問題として考えなければいけないんじゃないかというふうに思われます。
 それは、たとえば、現在、言葉によって描かれる世界というもの、あるいは言葉によってつくられる物語、あるいは文学作品の世界を考える場合に、非常に大きな問題になるだろうというふうに思われます。
(えっと、がりがりスリム化したら、冗長さが消えましたねえ・・・)


 10.イメージの世界を枠組みにするエンターテイメント作品

 次回でおそらくラストです。



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