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吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 2/?

 えっと、続きです。

 ■吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/?
 http://blog.story-fact.com/?eid=1196006


 ■原文はこちら ■吉本隆明の183講演 - 物語の現象論
 http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a063.html



 つい最近、調べ物をしていて大学の哲学科の生徒と思わしき人の、哲学書の詳細な解読エントリーを読んでしまい、あれ、これってやっていること、わたしとまったく同じじゃないか? などと思ってしまいました。
 わたしの方から見ると、
 「わたし → 吉村隆明」
 あれ、吉本隆明ってわたしと同じことやってないか? から、
 「吉本隆明 → ハイデガー(たまたまそのエントリーがハイデガーだった)」
 あれ、ハイデガーって吉本隆明と同じことやってないか? であり、
 わたしは吉本隆明の読み解きに、法律の条文解釈の手法を用いているのですが、そのやりかたと哲学科のゼミの様子なんだろうか? がそっくりという事にびっくりしていたりします。
 わたしが使っている法学の解釈手法(法律系資格の論文試験用の勉強方法)というのが、おそらく法学部の条文解釈をそのまま持ってきたものだと思うので、そこが似てしまっているんだろうなあとか思います。
(法学部の手法というのは「逐条解説」という分野を見れば一目瞭然だと思う)

 吉本隆明のどの文章がどこにかかっているのか分かりにくい文章に慣れてしまったわたしからすると、なんてハイデガーって論理的で読みやすいんだろうと、最高裁判決文の捻くれた論旨に比べて哲学書ってなんて整理されているんだろう(これは判決文が法律に沿って現実を無理やり解釈しているので、本人の土壌で自由に整理して論旨展開している哲学書とは、まったく条件がちがうので、当然といえば当然なんですが)などと思ってしまうのですが(^_^;
 ただ、とてもきれいな論旨展開の哲学科の様子を見ていたら、あー、わたしもこれぐらい整理して物事を理解しなければ、などと思いました・・・。
 というわけで、吉本隆明の「物語の現象論」の解読ですが、続けます。


 4. 文学の本質から見た私小説−島村利正『佃島薄暮』

 私小説というのはいろいろな定義があるわけですけど、私小説というのは「作者」と「語り手」と「登場人物」がイコールということです。もちろん言葉の表現ですからイコールということはありえないのですが、虚構としてそう見せようとしているのが私小説の特徴です。
 例に挙げるのは、島村利正の『佃島薄暮』です。
(原文のここまでの構成が自由すぎて、まったく整理されてない。30行(全角40字詰め)を整理したら、5行になったレベルです。詳細は原文をどうぞ)

 主人公がゴウゾウっていう老人なのですが、姪に病気の世話やなんかをしているうちに関係して2号さんみたいにして同棲しているんですけど、だんだん姪のほうが嫌になっちゃって、どこか出ていっちゃう。それで寂しくなって探し求めているんですけど、東京の茶屋で女中さんをしているとわかって、密かに子どもたちには内緒で出かけようってところでゴウゾウは早かった。翌日10時ごろ朝飯を済ますと、銚子の病院に行くと言って、背広に着替えて出かけた。ひとりで銚子の病院に行く例はいままでにもあって、子どもたちも特別のこととは思わなかった。ゴウゾウはその日ほんとうに病院へ行った。心電図もとったり、いつもより綿密に診てもらった。待ち時間を入れて2時間くらいかかった。特別の異常は認められなかった。病院を出てから銀行へ回り、預金から50万円を下ろし、軽い昼食をやって、次に理髪店に行く、とあります。

 初めのゴウゾウは早かった翌日10時頃といいます。
 これは「語り手」の語っている言葉になります。
(ここ、意味不明なのですが、「ゴウゾウは早かった、翌日10時ごろ朝飯を済ますと、銚子の病院に行くと言って、背広に着替えて出かけた」という文章があるんでしょう)

 しかし、途中でもはやそうではなくなります。すでに「作者」が半分ぐらいはゴウゾウっていう老人のなかに半分ぐらい入っています。言ってみますと、「語り手」のなかに半分ぐらい「作者」が入り込んでいます。乗り出しています。あるいは、全部といってもいいのです。つまり、全部がもう「作者」がゴウゾウになっちゃっている。だから、待ち時間を2時間くらいかかった、特別の異常は認められなかった。病院を出てから銀行へ回り、預金から50万円おろすっていう、こういう直接話法みたいになるわけです。ようするに、ゴウゾウっていう老人が下ろしてっていうふうに受け取れるわけです。つまり、「読者」は受け取れるわけです。
(ここは小説を書く身として、最大限原文を活かして解釈していますが、講演を書き下ろしている時点で限界がありますし、専業小説家でなければここをちゃんと例示するのは至難の業です。これに続く文章は、あーこれ意味ないなと思って略します)

 このことは私小説っていうものの非常に大きな性格なのです。つまり、「作者」=「語り手」=「登場人物」の虚構として見せようとしているのが私小説の特徴です。
(半分ぐらい削ったけど、言っている結論は同じです。詳しくは原文を当たってください)
 これは今年書かれた作品です。


 5. 民話と私小説の違い

 千五百年前の説話あるいは民話っていうものと何が違うのかと考えてみます。
 これは千五百年前の説話も、あるいは民話も、現在書かれている私小説も、まったく僕は同じだっていうふうに理解します。
 ただ、どこが違うかっていうと、時間の経緯っていうものだけが違う、つまり、時間的な落差といいましょうか、そういうものだけが違うっていうことだと思います。
 しかし、現在も、千五百年前も、二千年前も考えられる原型的な共同性みたいなものが現在もありうるのか。
 そして、もうひとつは、それが成り立っているという、虚構性っていいますか、加工性っていいますか、それだけはしようとしているモチーフと言うか、衝動と言うか、そういうものがあるということが私小説の基本的な性格だといえると思います。
(ここは恐ろしくカットしたので、原文を・・・)

 私小説というのはいい作品じゃないかどうかってことはまた別な問題です。別次元の問題です。
 しかしながら、現在もなお私小説のように、つまり、「登場人物」も「作者」も、それから「語り手」も全部いっしょくただっていう虚構がモチーフとして作品を成り立たせている。
 この成り立ち方はいってみれば『源氏物語』以前の問題です。『源氏物語』以前の問題として、現在も依然としてベースとしてある、言い換えればそれは文学の、物語の起源の問題ですから、起源の問題はいつまで経ったってつきまとっているという意味あいで、現在もまたつきまとっているのですけど、作品の構造とかそういうものからみれば、もちろん、『源氏物語』あるいはそれ以前の日記というものがあるわけですけど、『蜻蛉日記』とか、何々日記というのがありますけど、日記類が書かれたときに、すでに私小説以上の問題っていうものは提起されているわけで、だからはるかに千年ばかり、そういう意味でいいますと古いわけで、私小説っていうのは、一種の古い構造をもって現在も成り立っている小説であるわけです。
(ここは原文ママで残している)

 だから、日記文学の一種の集大成ともいえる『源氏物語』っていうものが書かれたときに、もはや「語り手」と「登場人物」と「作者」とは別々にふるまうことがありうるっていうような、そういう問題はすでに提起されてしまっているわけで、現在としても依然としてその問題は存在するというふうに考えますと、いちばんベースにおいてやはり高度なモチーフといいましょうか、あるいは、高度な作品の構造っていうもので、文学作品が現在存在しているのかって考えますと、非常に共感がしやすいわけです。現象論としては非常に共感がしやすいということがあります。
(うーん。一文字も削ってませんが、たぶんここが吉村隆明がいちばんいいたかった部分ですね・・・。そして漠然としている・・・)


 6. 東峰夫『天の大学』の高度な物語構造

 もちろん現在は私小説しか書かれていないわけではないので、そのような作品(これは何を言っているのか意味不明)の例を上げてみましょう。
 東峰夫の『天の大学』の一節です。
 これは「私」が主人公ですけど、私が性的に目覚めて、性欲に駆られて、母親と関係をしようというふうにいこうというところの描写なんです。
(おそらく、この小説では「主人公」=「作者」ではないので、私小説の定義から外れているけど、似たような現象が他の分野の小説にも見える、という意味でしょうか)

 居間では父と友人がお茶を飲みながら雑談をしているようだった。母は居間を通り抜けて寝室に入っていったので私も後を追った。父と友人が後ろ姿を見ているに違いなかったが平気だった。気づかれたらダメと母は言った。すぐに父の友人が寝室に飛び込んできた。それはいかんよ、それはない。でも、わかってほしいよ、おじさん、全身が震えて、声も泣き声になっていた。おじさんはわかってくれるはずだろう、何人も奥さんを取り替えたんだもの(会場笑)、おじさんはいいよ、得をしているよ、まあそのことは言わんでくれ、私は父の友人の腕に取りすがって、壁のところまで引っぱっていった。そこに座って、洗いざらい打ち明けたいと思ったが、しかし、何から話せばいいのかわからなかった。ずっと我慢していたんだ。だから、私は口ごもってしまった。そういっても、それはいいわけだ。それで見境もなくお母さんに欲を覚えたとは言わせんよ。私は呻き、もう何も言うことがなかった。
(完全に原文ママです)

 こういう一節があります。
 この作品は、自分が実際に母親をつかまえて、寝室へいこうとした。で、父親と友人が居間で話しているところを通り抜けようとして見つかっちゃったと読めますが、これはまったくのフィクション、まったくの虚構なんです。
 つまり、架空のことを書いているわけなんです。これは作品をぜんぶ読むと一目瞭然なんですけど、ここだけ読むとそういうふうに読めますけど、リアリティがあるのは何かっていいますと、ここで登場する私というものの欲望だけがこのなかでリアリティなのです。あるいは、この東さんという作者が言おうとしているリアリティはそれだけにあるわけなのです。
 枠組みを見てみますと、これは事実をそのまま、つまり、私という人物が母親をとらえて、父親と友人がいる居間のところを通って寝室のほうへいこうとした。そうしたら見つかっちゃって、父の友人が追っかけてきて、それはよせよせって、いくら欲望を覚えたって、母親にそんなことをしちゃおかしいじゃないかっていうのを、私っていうのは、それは勘弁してくれ、そうは言わんでくれって、こういうふうにとれるわけですけど、ほんとうにリアルなのは、私の欲望っていうことなのです。つまり、欲望が描くひとつの曲線っていうものを描きたいために、こういう場面をまったく架空に設定しているのです。つまり、これはシュールレアリスティックな場面なわけなのです。
 ここの場面はまったく私小説ではないのです。
 つまり、これは物語自体の枠組み、あるいは、少なくとも「主人公」と「登場人物」と「作者」とが、私小説的な関係にあるならば、当然、考えられるような場面というものを、もはやずっと遥かに超えたところに、作品のリアリティというものを求めているわけなのです。だから、「主人公」のエロス的な欲望というものが描く曲線だけがリアリティなのです。あるいは、作品のモチーフなんです。
 だから、「作者」が読んでもらいたいのは、ある人間の性に目覚めたころの、あるいは青春伝記になったあるひとつの私という男の子の抱くエロス的な欲望というものが描く曲線というもの、これは我々の潜在意識のなかに隠されていて、その年齢の私というものの欲望の描く曲線がどういう曲線の描き方をするかっていうこと、それを読んでもらいたいっていうのが、それを読むということがこの作品を読むということに該当するので、この作品の個々の場面というものは、もちろんリアリズムでもないしなんでもないのです。
 全部が一見リアルに存在するように描かれているのですけど、この『天の大学』という、「作者」の象徴によれば、これはようするに人間の抑圧されたといいますか、エロス的な欲望の描く曲線といいますか、その曲線のあり方というのを教える学校というのが『天の大学』という、「作者」はそういうふうに『天の大学』という題名を使っています。
(ちょっと長いので、結論部に入る前に、ひとやすみ)

 この作品は、そういう眼に見えない欲望を描く曲線をなんとかして言語化したいというところでこの作品が成り立っていることがわかります。
 ここでは、もはや「登場人物」と、「主人公」と、それから、「登場人物」と「私」がいさえすれば、また「作者」がいさえていれば、描かれるはずの物語の枠組みというものは、はるかに無視されていることがわかります。いい言葉を使えば、それを超えられていることがわかります。
 こういう作品というのは、いわば先ほどの私小説的な作品というものを底辺におくとすれば、この作品は頂点におかれるべき作品だというふうに考えます。またここで改めてお断りしなければなりませんけど、この頂点・底辺というのは、作品がいいか悪いかってことは別の問題なんだっていう、意味あいで受け取られないと、話が全然違ってきてしまいますから、そういう意味あいではありません。
 ただ、この作品は物語の構造っていうものから考えていきますと、最も高度なところに存在する作品だということが言うことができます。だから、こういう作品を頂点におきますと、その中間のところに様々なかたちの作品というものを想い描くことができるわけです。

 7. 山川健一『さよならの挨拶を』における陰影

 続きます。


| 雑記 | 21:03 | comments(0) | trackbacks(0) |
吉本隆明著 「物語の現象論」 抄訳 1/?


 こんばんわ。hikaliです。
 これからしばらくは、吉本隆明の講演の録音から、「物語の現象論」をお送りしたいと思います。これが出てきた理由は、わたしが入院中に暇なのでポッドキャストを大量にダウンロードしたことを原因にします。
(これがうっかり携帯回線で20GB程度ダウンロードしていたらしく、とんでもない通信費になっているんですが・・・)
 原文を聞く環境も整ってますし、書き下し文もありますので、わたしの紹介など気にせず原文を当たってほしいのですが、正直吉本隆明の語った内容はあちこちに飛びすぎて読みにくい。
 そこでわたしが、自分の理解のために、要約を書いたという内容になっています。
 あくまでわたしの解釈であり、この要約がきっかけになって原文をあたってくれれば、と言う内容です。

 ■原文はこちら ■吉本隆明の183講演 - 物語の現象論
 http://www.1101.com/yoshimoto_voice/speech/sound-a063.html

 単純にここは書き下し文が整備されているので、アクセスしやすい。

 ただ、語られている内容は衝撃です。
 わたしはミーハーな吉本隆明信者なのですが、薬袋を分解して(10袋ぐらいを裁縫キットのはさみで全部裏紙にした。病院内でほかに裏紙を手に入れる方法がなかった)その裏地にメモった要約をベースに書かれています。たぶん要約を読んで原文を読むと、これはカットしすぎだろうと思うところが多々あると思います。
 わたしはだいたい英国の冒険小説をベースにしていますので、いまさら1人称、3人称と悩むことはないですが(だいたい3人称の体裁をとった、擬似1人称をとっている)、考えてみるとだいぶ複雑だなあと思うところをついていると思います。
 まあ、わたしよりはるかに深いところを語っていると思いますので、しかし、要約しすぎなのではと思いつつ、これまで触れたことのなかった吉本隆明に触れていただければ幸いです。

 トロイア遺跡はここにあったんだ!
 
 


 1.「語り手」はどこに位置しているのか

 ある文学作品をどのように読むのか、読まれるのかは読む人のまったくの自由になる。ただ、読むという体験を文字という面倒な方法でするのか、なぜ文字なのかを考えるとひとつだけ共通なことがある気がする。
 それは読むという行為をなにか、一種の生活の場合で様々に当面する問題と同じような体験、それに類似した体験を読むという体験の中でしたいのだと、共通に考えるのではないか。
 問題が2つある。
 ひとつは生活の中での体験の落差、たとえば現実的なお粗末な生活のところから、ひじょうに高度なイメージの世界に連れていかれて、そしてまた夜になると飲み屋に帰ってきてラーメンを食うみたいな落差が、現在、読む人にとってひじょうに大きな問題なのではないかというかと。
 もうひとつは、そのイメージが様々な直接イメージ、つまり映像や絵画的な表現のような直接的にイメージを喚起できて、スイッチを入れるとすぐにそこから抜けられるような、イメージの世界が大規模になっていて、また、かつ、普遍的になっている。そうしたなか、わざわざ文字という一種の概念の中に入っていって、その世界とを行き来するという面倒なことをすることが億劫になってくる。これがもうひとつの共通する問題なのではないかと。
 そういった問題をふまえると、「読む」というところから入ってもよいのですが、文芸批評というか、批評の問題から作品に近づいていて行った場合、どういう問題が、いま問題になるのかというところから入ったほうがいいのではと考えます。これは僕自身が文芸批評をする中で、どのようなことが問題になっているのかから入ったほうがよい気がするのです。
 文芸批評の問題から入っていくと大きな問題になるのは「語り手」をどう待遇したらいいのか」という問題です。
 「語り手」というのはどういうことかといいますと、「語り手」の起源をいいますと、昔の説話とか、神話だとかでの「語り手」、もう少し時代が下がってくれば、『伊勢物語』なら「むかし男ありけり」っていう言葉から始まっていくとか、『今昔物語』なら、「いまはむかし〜がありき」とかっていうような形で物語が始まっていきます。その場合の、「むかし男ありけり」あるいは「いまはむかし」っていう言い方で言っている人が、「語り手」であるわけです。
 ところが、この「語り手」っていうのが、複雑なことになっていきます。
 起源のところでは、「語り手」とは何かってことが言いやすいわけで、それは、あるひとつの原型的な共同性があって、その共同性っていうものの内側にあるか、外側にあるかっていうことだけが、起源でいえば「語り手」の問題になります。
 内側にあれば、説話とか、民話とかっていうものになっていきます。
 つまり、ある原型的な共同体、あるいは共同性に対して、その内側にあって語っているか、外にあって語っているか、外にあるとすればどういう外にあって語っているかってことが、「語り手」っていうものの性格を決める、非常に大きな決め手になるわけです。
(外側の「語り手」の例示は語られていない)


 2. 『源氏物語』における「語り手」

 時代が下がるにつれて「語り手」の問題は複雑になります。
 一番その問題を提示しているのは源氏物語です。
 『源氏物語』の「語り手」がどう処遇されているのか。
 これは、専門家のほうでは、「草紙地」という言い方をしています。「草紙」っていうのは、お伽草紙とかの「草紙」で、「地」は地面の「地」ですけど、つまり、「語り手」の問題のことを「草紙地」っていうふうに専門家は言っています。
 ですが『源氏物語』の「語り手」の問題っていうのは、一応の意味では非常に簡単です。
 たとえば、ある祝宴の場面があると、祝宴の場面で登場してくる人物たちがお互いに歌を詠むと、これこれっていう歌が詠まれたんだけど、こういう祝宴の場面でつくられる歌っていうのは、いいものがないからそれは省くことにするっていうような文章が『源氏物語』のなかにでてくる。
 これを省くことにするって言っているのは、明らかに「語り手」。
 つまり、これは登場人物とも一応は関係なく、「語り手」がそう言っているわけです。
 また、いろんな限定の仕方をしています。『源氏物語』における「語り手」っていうのは、『源氏物語』の構造を説話のようにいちいち語っていったら、キリがない、つまり、いつまでも『源氏物語』を同じ密度で面々と語っていくのを省く。『源氏物語』の「語り手」はすぐに、登場人物の間にこういうことがあったんだけど、じぶんは女性であるので、そういうのは触れないみたいな、限定がやってきて、その問題はそこで切れるというふうに、いつでも自己限定として「語り手」っていうのがあらわれてきて省きます。
 この自己限定として「語り手」があらわれてくるっていうことは、非常に単純な理由によるので、つまり、作者が物語を面々と語るのが馬鹿らしくなったときに、「自己限定の語り手」が登場するわけです。


 3. 『源氏物語』が提起したこと−「語り手」・作者・登場人物の分離

 しかし、重要なのは『源氏物語』が自己限定の「語り手」を登場させたために、「語り手」と「作者」との分離っていうことが明確に起こるっていうことなんです。
 つまり、『源氏物語』において、たとえば日本の物語では初めて非常に明瞭な形で「語り手」の問題が登場し、そして、「語り手」の問題を自己限定として、あるいは、場面限定として登場させたために、作者と、それから作中に出てくる「語り手」とが、必ずしもイコールではないという問題を初めて物語の中で提起しています。この問題がいったん提起されますと、もっと違うことが起こります。
 今度は「登場人物」がひとりでに動き出すことが出てくるっていうことなんです。
 これは、「作者」が「登場人物」を描いているのだから、「作者」が描かなければ、そう描いたからそうなっているんだっていうふうになるんですけど、ほんとはそうじゃなくて、どう読むのは「読者」の自由ですから、「登場人物」はある場面に登場して、ある行いをし、ある事件を差し起こしますと、その人物が「登場人物」として独自に動き出します。あるいは、独自な内面の動き方をします。
 それは必ずしも、「作者」に意識されているとは限りません。つまり、あきらかに具体的にいえば、「作者」が筆を動かしているから確かに書かれているわけですけど、「作者」はその「登場人物」がどういうふうに振るまうかまでは表面的に描いたかもしれないけど、そういうふうに振るまったときに「作者」が、「登場人物」がどう感じたか、どう内面で感じたかまでは、必ずしも意識して描いているとは限らないわけです。
 そこで、いったん「語り手」が自己限定として、作品の中に、あるいは、物語の中に登場しますと、問題が起きていて、そこで「作者」と「語り手」とは、べつであるという問題が出る。そして、今度は「登場人物」と「作者」とはまた別であると、つまり、「作者」がそう描いたから「登場人物」はそう行動したといえる面と、そのときに「登場人物」がその場面で感じたことは、書かれていないんだけど、「読者」にとっては非常に明瞭に、このとき「登場人物」はこういうふうに感じたに違いないなってことは、「読者」には明瞭であるっていうことがありえます。
 そのときに「読者」は、いい作品の場合には、このことを「登場人物」はこういうふうに感じているに違いないことがわかっているのは俺だけじゃないか、つまり、じぶんだけにこれはわかるんじゃないかっていう感じを伴います。これはいい作品、優れた作品に非常に特徴的なことです。つまり、優れた作品にはいつでもそういうことはあり得るってことなんです。
 それは「作者」が意識して描いたからそういうふうに感じられた、あるいは、言葉にそう描かれたからそう感じたかっていうと、そうではないんです。「作者」が無意識のうちに描いたとしても、なおかつ、その場面で「登場人物」がこういうことを感じたなとか、こういうふうに感じたに違いないなっていうことを「読者」には感じさせるものがあります。つまり、そういう問題が提起されてくるはずなんです。
 その問題が「作者」と「語り手」と、つまり、作中の中で物語を語っている「語り手」と、それから、「登場人物」とは、全部違うんだっていうこと、つまり、全部違うんだっていう問題が、文学作品における本格的な問題であるわけです。つまり、本格的な問題っていうのは、少なくとも、そこのところで始まって、それで大体において、現在でも、だいたいその問題で尽きると言っていいと思います。
(ここは大幅にカットしているので、原文を当たってください)


 4. 文学の本質から見た私小説−島村利正『佃島薄暮』


 続きます。


| 雑記 | 01:04 | comments(0) | trackbacks(0) |
『三顧の礼』(4/4)


 つづきです。


■『三顧の礼』(1/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196002


■『三顧の礼』(2/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196003


■『三顧の礼』(3/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196004




 前回までで概略をさらいました。
 その中で分かってきたのは、吉川英治は三国志演義を基本としながらも(すくなくとも演義に反することは書いてない)、そこに補足のようにオリジナルの解釈を付け加えていくというスタイルを取っているということでした。
 今回はその中から、わたしが意図的に除外して紹介してこなかった部分を、まとめて紹介します。これまで紹介をしてこなかったのは、あまりにも三国志の内容から外れすぎている(一言で言うと現代的な人物像すぎる)ため、これは三国志ではなく吉川英治の独自の解釈なのではと思ってしまったからです。
 ただこれは、その分、これが吉川英治が書きたかった部分ではないかと言うこともできます。
 わたし、自身書き手として、自分の書きたいことが物語の中心になるというのは、正直避けたいところだったします。登場人物たちの観測者として、こう言いたいんだよねと解釈するときはありますが、自分の意図として登場人物の気持ちを捻じ曲げることはしません。
 例を挙げるときりがないんですが、書くのに詰まったときに、こいつは何を言うのかなと待っていることがしばしばあります。あるときリニーが何を考えているのかわからなくなったときに、悶々とつまらない日常を送りながら、ふとその凍えきったこころが見えたときがあるのです。
 そこにいたのか・・・、という発見は衝撃だったりします。
 もちろん、そういう書き方以外はうそだとは思いません。
 でも、それを拾ってあげないと、それ以外は殺人になる、と思いました。
 ウタリとの会話を書いていたときも、こいつ何を言うのかな? と思っていたら、突然に、
「造りたい」
 と、はにかんで言い出した。それは一種の幻聴で、状況的には一切の開発がストップしていたシドの首都ラスペの中枢セントラルのことで、わたし自身は愕然としました。
 ウタリが言っているのはセントラルの再開発で、状況的にはザブンテ人たちが、高い高い避難先を探していたので、物語的には無視できない。それでリニーと教授を動かして、セントラル開拓時代なるものをでっち上げなければならなくなった。
 これはさして重要だと思っていなかった、ウタリという子がそう言ったから、なんです。

 そのどの位置に吉川英二と諸葛孔明が位置していたのかはわかりません。
 わからないと言うのが誠実だと思いますし、つまらないことは言いたくないのです。
 それぐらい、吉川英二が書く孔明は魅力的ですし、これを壊したくない。
 わたしは孔明の声が聞きたいですし、もっと正確に言えば、襄陽の軍師たちの気持ちを捻じ曲げたくない。なんて若々しくて、みずみずしい青春なんだろうと書くとたぶん意外に思うと思うのですが、それを紹介していきましょう。

 まずは、孔明に出会った劉備玄徳から。


 ■孔明を説得する玄徳

 先の、立春大吉(三顧目)のラスト、「孔明先生、どうか胸を開いて、本心を語ってくれ!!!」
 ババーン(効果音)
 のシーンです。
 だいぶ前から全引用してみましょう(著作権が切れているので、アマゾンで全文引用できる)。

 玄徳はまず彼の語韻の清々しさに気づいた。低からず、高からず、強からず、弱からず、一語一語に、何か香気のあるような響きがある。余韻がある。
 すがたは、坐していても、身長ことにすぐれて見え、身には水色の鶴?を着、頭には綸巾をいただき、その面は玉瑛のようだった。
 たとえていえば眉に江山の秀をあつめ、胸に天地の機を蔵し、ものいえば、風ゆらぎ、袖を払えば、薫々、花のうごくか、嫋々竹そよぐか、と疑われるばかりだった。
「いやいや。あなたをよく知る司馬徽や徐庶のことばに、豈、過りがありましょうか。先生、愚夫玄徳のため、まげてお教えを示して下さい」
「司馬徽や徐庶は、世の高士ですが、自分はまったく、ありのままな、一農夫でしかありません。何で、天下の政事など、談じられましょう。──将軍はおそらく玉を捨てて石を採るようなお間違いをなされている」
「石を玉と見せようとしてもだめなように、玉を石と仰せられても、信じる者はありません。いま、先生は経世の奇才、救民の天質を備えながら、深く身をかくし、若年におわしながら、早くも山林に隠操をお求めになるなどとは──失礼ながら、忠孝の道に背きましょう。玄徳は惜しまずにいられません」
「それは、どういうわけですか」
「国みだれ、民安からぬ日は、孔子でさえも民衆の中に立ちまじり、諸国を教化して歩いたではありませんか。今日は、孔子の時代よりも、もっと痛切な国患の秋です。ひとり廬にこもって、一身の安きを計っていていいでしょうか。──なるほど、こんな時代に、世の中へ出てゆけば、たちまち、俗衆と同視せられ、毀誉褒貶の口の端にかかって、身も名も汚されることは知れきっていますが──それをしも、忍んでするのが、真に国事に尽すということではありませんか。忠義も孝道も、山林幽谷のものではありますまい。──先生、どうか胸をひらいて、ご本心を語ってください」
 再拝、慇懃、態度は礼をきわめているが、玄徳の眼には、相手へつめ寄るような情熱と、吐いて怯まない信念の語気とをもっていた。
「…………」
 孔明は、細くふさいでいた睫毛を、こころもち開いて、静かな眸で、その人の容子を、ながめていた。

 引用以上ですが、青空文庫でも読めますし、講談社文庫版もそんなに高くはありません。これ以上は、原文をあたってください。


 ■徐庶の孔明評

 これは、三顧の礼に入る前の徐庶のことばです。
 

「隆中に、賢人ありとは、かつてまだ聞いていなかった。それは真実のことか」と、念を押した。
 徐庶は答えて、
「その人は、極めて、名利に超越し、交わる人たちも、限られていますから、彼の賢を知るものは、ごく少数しかないわけです。──それに、君には、新野の地にもまだ日浅く、周囲には荊州の武弁、都県の俗吏しか近づいていませんから、ご存じないのは当然です」
「その人と、ご辺との縁故は」
「年来の道友です」
「経綸済世の才、ご辺みずから、その人と比しては?」
「拙者ごときの類ではありません。──それを今日の人物と比較することは困難で、古人に求めれば、周の太公望、漢の張子房などなら、彼と比肩できるかもしれませぬ」
「ご辺と友人のあいだならば、願うてもないこと、旅途を一日のばして、玄徳のために、その人を新野へ伴うてはくれまいか」
「いけません」
 にべもなく、徐庶は、顔を横に振った。
「どうして、彼が、拙者の迎えぐらいで出て参るものですか。──君ご自身、彼の柴門をたたいて、親しくお召し遊ばさねばだめでしょう」
 聞くとなお、玄徳は喜色をたたえて云った。
「ねがわくば、その人の名を聞こう。──徐庶、もっとつまびらかに語り給え」
「その人の生地は瑯?陽都(山東省・泰山南方)と聞き及んでおります。漢の司隷校尉、諸葛豊が後胤で、父を諸葛珪といい、泰山の郡丞を勤めていたそうですが、早世されたので、叔父の諸葛玄にしたがって、兄弟らみなこの地方に移住し、後、一弟と共に、隆中に草廬をむすび、時に耕し、時に書をひらき、好んで梁父の詩をよく吟じます。家のあるところ、一つの岡をなしているので里人これを臥龍岡とよび、またその人をさして臥龍先生とも称しています。──すなわち、諸葛亮字は孔明。まず当代の大才といっては、拙者の知る限りにおいて、彼をおいては、ほかに人はありません」
「……ああ。いま思い出した」
 玄徳は肚の底から長息を吐いて、さらにこう訊ねた。
「それで思い当ることがある。いつか司馬徽の山荘に一夜を送った時、司馬徽のいうには、いま伏龍鳳雛、二人のうちその一人を得れば、天下を定めるに足らんと。──で、自分が幾度か、その名を訊ねてみたが、ただ好々とばかり答えられて、明かされなかった。──もしや、諸葛孔明とはその人ではあるまいか」
「そうです。伏龍、それがすなわち孔明のことです」

 これは恐ろしく文章がうまいんですが、わたしが文章重ねると、文章が穢れていきます。この問題が常に付きまとうので、補足が恐ろしくしにくい。
 なんて、美しい文章なんでしょうか。
 

 ■孔明の幼少時代

 もう補足なしを許してほしいのですが。

 まだ十三、四歳でしかない孔明の眼にも、このあわれな流離の群れ、飢民の群れの生活が、ふかく少年の清純なたましいに、
(──あわれな人々)として烙きついていたにちがいない。
(どうして、人間の群れは、こんなにみじめなのか。苦しむために生れたのか。……もっと、生を楽しめないのか)
 そんなことも考えたであろう。
 いや、もう十三、四歳といえば、史書、経書も読んでいたであろうから、
(こんなはずではない。この世の中のうえに、ひとりの偉人が出れば、この無数の民は、こんなおどおどした眼や、痩せこけた顔を持たないでもいいのだ。──天に日月があるように、人の中にも日月がなければならないのに、そういう大きな人があらわれないから、小人同士が、人間の悪い性質ばかり出しあって、世の中を混乱させているのだ。──かわいそうなのは、何も知らないで果てなく大陸をうろうろしている何億という百姓だ)
 と、いう程度の考えは、もう少年孔明の胸に、人知れず醗酵していたにちがいない。


 ■学僕になった孔明と、去った理由

 「学僕にして下さい」と、訪れたのは、彼が十七の頃だった。
 石韜は翌年、近国へ遊学にあるいた。その時、師に従って行った弟子のなかに、白面十八の孔明があり、一剣天下を治むの概をもつ徐庶があり、また温厚篤学な孟建がいた。
 だから孟建や徐庶は、孔明より年もずっと上だし、学問の上でも先輩であったが、ふたりとも決して、孔明をあなどらなかった。
「あれは将来、ひとかどになる秀才だ」
 と、早くも属目していたのである。ところがそれは二人の大きな認識不足だった。
 なぜならば、その後の孔明というものは、ひとかどどころではなかった。石韜をめぐる多くの学徒の中にあって、断然群を抜いていたし、その人物も、年とるほど、天質をあらわして、いわゆる世間なみの秀才などとは、まったく型がちがっていた。
 だが彼は、二十歳を出るか出ないうちに、もう学府を去っていた。学問のためにのみ学問する学徒の無能や、論議のために論議のみして日を暮している曲学阿世の仲間から逃げたのである。
 では、それからの彼は、どうしていたかというと、襄陽の西郊にかくれて、弟の均と共に、半農半学者的な生活に入ってしまったのだった。
 晴耕雨読──その文字どおりに。
「いやに、老成ぶったやつではないか」
「いまから隠棲生活を気どるなんて」
「彼は、形式主義者だ」


 ■孟建をさとす孔明

 隆中の彼の住居へ、或る日、友人の孟建が、ぶらりと訪ねてきて云った。
「近日、故郷へ帰ろうと思う。きょうはお別れにやって来た」
 孔明は、そういう先輩の面を、しばらく無言で見まもっていたが、
「なぜ帰るのです?」と、さも不審そうに訊いた。
「なぜということもないが、襄陽はあまりに平和すぎて、名門名族の士が、学問に遊んだり政治批評を楽しんで生活しておるにはいいかも知れんが、われわれ書生には適さない所だ。そのせいか、近頃しきりと故郷の汝南が恋しくなった。退屈病を癒しに帰ろうと思うのさ」
 聞くと、孔明は、静かに顔を横に振って、
「こんな短い人生を、まだ半途も歩まないうちに、君はもう退屈しているのか。襄陽は平和すぎるといわれるが、いったいこの無事が百年も続くと思っているのかしら? ──ことに、君の郷里たる中国(北支)こそ、旧来の門閥は多いし、官吏士大夫の候補者はうようよしているから、何の背景もない新人を容れる余地は少ない。むしろ南方の新天地に悠々時を待つべきではないかな」
 と、いって止めた。
 孟建は孔明よりも年上だし、学問の先輩でもあったが大いに啓蒙されて、
「いや、思い止まろう。なるほど君のいう通りだ。人間はすぐ眼前の状態だけにとらわれるからいかんな。──閑に居て動を観、無事に居て変に備えるのは難かしいね」と、述懐して帰った。
 孟建などが噂するせいか、襄陽の名士のあいだには、いつか、孔明の存在とその人物は、無言のうちに認められていた。


 ■孔明の野望

 彼をめぐる道友たちは、各、時局を談じ、将来の志を語りあっていた。
 孔明は、微笑しながら、黙々とそれを聞いていたが、
「そうだ、君がたが、こぞって官界へ出て行けば、きっと刺史(州の知事)か郡守(郡の長官、即ち太守)ぐらいには登れるだろう」と、いった。
 友の一名が、すぐ反問した。
「じゃあ、君は。──君はどんなところまでなれるつもりか」
「僕か」
 笑而不答──孔明はにやにやしていたきりであった。
 彼の志は、そんな所にあるのではなかった。官吏、学者、栄達の門、みな彼の志を入れるにはせまかった。
 春秋の宰相管仲、戦国の名将軍楽毅、こうふたりを心に併せ持って、ひそかに、
(わが文武の才幹は、まさにこの二人に比すべし)
 と、独り矜持を高くもっていたのである。
 楽毅は春秋戦国の世に、燕の昭王をたすけて、五国の兵馬を指揮し、斉の七十余城を陥したという武人。──また管仲は、斉の桓公を輔佐して、富国強兵政策をとり、春秋列国のなかに、ついに覇を称えしめて、その主君桓公から、一にも仲父(管仲の称)二にも仲父とたのまれたほどな大政治家である。
 いまは、時あたかも、春秋戦国の頃にも劣らぬ乱世ではないか。
 若い孔明は、そう観ている。
 管仲、楽毅、いま何処にありや! と。
 また彼は想う。
「自分をおいてはない。不敏といえども、それに比すものは自分以外の誰がいよう」
 不断の修養を怠らなかった。 世を愛するために、身を愛した。世を思うために、自分を励ました。
 口にこそ出さないが、膝を抱えて、黙然、うそぶいている若い孔明の眸にはそういう気概が、ひそんでいた。
 時にまた、彼は、家の裏の楽山へ登って行って、渺々際涯なき大陸を終日ながめていた。
 すでに、兄の瑾は呉に仕え、その呉主孫権の勢いは、南方に赫々たるものがある。
 北雲の天は、相かわらず晦い。袁紹は死し、曹操の威は震雷している。──が、果たして、旧土の亡民は、心からその威に服しているかどうか。
 益州──巴蜀の奥地は、なおまだ颱風の圏外にあるかのごとく、茫々の密雲にとざされているが、長江の水は、そこから流れてくるものである。
 水源、いつまで、無事でいよう。かならずや、群魚の銀鱗が、そこへさかのぼる日の近いことは、分りきっている。
「ああ、こう観ていると、自分のいる位置は、まさに呉、蜀、魏の三つに分れた地線の交叉している真ん中にいる。荊州はまさに大陸の中央である……が、ここにいま誰が時代の中枢をつかんでいるか。劉表はすでに、次代の人物ではないし、学林官海、ともに大器と見ゆるひともない。……突としてここに宇宙からおり立つ神人はないか。忽として、地から湧いて立つ英傑はないか」
 やがて、日が暮れると、若い孔明は、梁父の歌を微吟しながら、わが家の灯を見ながら山をおりて行く──。
 歳月のながれは早い。いつか建安十二年、孔明は二十七歳となっていた。
 劉備玄徳が、徐庶から彼のうわさを聞いて、その草廬を訪う日を心がけていたのは、実に、この年の秋もはや暮れなんとしている頃であったのである。


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『三顧の礼』(3/4?)


 つづきです。


■『三顧の礼』(1/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196002


■『三顧の礼』(2/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196003




 ■3.孔明を訪う(一顧目)

 前節が悲惨な状況になっているのを尻目に、全開ぎみでくるのがこの「孔明を訪う(一顧目)」。
 ちょっと情報量が多すぎてパンクしているんじゃないか疑惑はあるのですが、交通整理が忙しすぎてギクシャクしている印象を受けます。
 まずこの節は司馬徽(水鏡先生)が新野を訪れて玄徳と話すのですが、ここがまず情報過多・・・。なので一切のニュアンスをバッサリ切って羅列しますが、たぶん原文を読むとこれしか要約しよう無いよね、と思うと思うのですが、読み直すとひどいでですね。
 ・徐庶の老母は死ぬ。
 ・紹介は孔明にとって迷惑。
 ・道友としても彼がサロンから抜けるのはさびしい。
 ▼玄徳の質問ターン
 ・なぜ襄陽のサロンは発展したのか? → 魏呉蜀の境界だから
 ・孔明の素質はどれぐらいか? → 太公望クラス
 このあたり、別文献を当たって調べてみると散々に複雑な情報が出てくるのですが(特に襄陽サロンの成立過程とかは、まあ分厚い学術論文集クラスの量はあるよね、と言うレベル)、それを書き始めるとまったく収拾がつかなくなるので、ざっくりと無視します(自分で調べてね)。

 玄徳は期待を抱いて孔明を尋ねようと出かける。
 孔明の住居として聞いていたのは、「襄陽の西へ20里、隆中という一村落」ということだけで、その村落へ歩いていくのですが、付近まで行くと百姓の男女が不思議な歌(どう評したらいいのだろうか、世の中を外から見ているような歌? ちくま文庫版の三国志演義に対訳付きで載っている)を謡っている。だれの謡かと聞くと孔明だという。
 玄徳は農夫に孔明の住む臥龍の岡の場所を聞き、そこへ向かうが、その臥龍の岡の周辺は農夫に至るまで変わっていると感じる。
 臥龍の岡の柴門までやってくるとひとりの童子と猿が遊んでいる(これは演義がそうなっている)。
 童子に聞くと、先生は今朝でかけた、どこに行ったかは知らない、帰りは三、五日、あるいは十数日後かもしれないと言われる。
 玄徳はせっかく孔明の住居までやってきて名残惜しくたたずんでいるが、その美しい周囲の風景にもうしろ髪を引かれながら、岡の道を降りていく。

 その帰り道、玄徳は一人の若者(孔明の遊び友達なので、同年代ぐらい? と推定している)に出会う。
 玄徳は孔明かと勘違いするが(以後、孔明の友人で名士ばかり出てくるので、何度も同じ間違いを繰り返す)、崔州平であって孔明の友人だと告げる(これは2/4で挙げた崔)。
 崔は目の前にいるのが玄徳だと知って驚き、どんな用があってきたのかと聞く。玄徳が、
「国を治め民を安んずる道を問わんがため」
 と答えると、崔は大いに笑って、
「あなたは治乱の道理を知らないとみえる」
 とよく読んでみると耳を疑うような失礼な受けごたえをする。崔は曰く、
「世界は流転している。人の一生からすれば20年の乱は長いが、悠久の歴史からみればほんの一瞬。些細なことでしかないのです」
 玄徳は反論するが、
「──万生万殺──一殺多生──いずれも天理の常であり、平凡事だ」
(ものすごくざっくりと解釈を書くと、宇宙が生まれてから数え切れないほどの生命が死んだけれど、それって当たり前でしょ? という感じだろうか)
 と答える。
 これがどれほど非常識な答えであることはわかると思う。完全に劉備と向かい合おうとしていない。

 玄徳はそれを始終つつしんで聞いていて、一応崔を新野の幕僚として誘う。崔は自分は山野の一儒生、世上に名利を求める気はない、と言って断る。
 崔がさると、関羽が玄徳に、何であんなやつの話を聞いた? と問うので、
「彼らの言うことは彼らの中の真理であって、万民俗衆の真理ではない。彼らのような隠士高士は一握りしかおらず、そこでしかつうじない少数の真理だ」
 玄徳は関羽に対し、
「孔明に自分が求めてやまないものは、世を救い万民の苦悩に通じることばだ、その声だ、その真理だ」
 そして、数日後に始まる二顧目に続くのですが、いやー、濃いwww ここに詰め込みすぎなんですよねえ(ため息)。
 まだまだあと2節続きます。

 ■雪千丈(二顧目)

 隆中にやってくると真っ白になっていた。途方もない寒さだが、やがて村内に入る。
 ここで歌が聞こえてくるのだが、演義ではどのような演出になっているのか確認しないと、説明し難いのだが、歌の内容として玄徳の姿を描いた歌になっている。
(ちなみに演義ではなんの演出もなくぶっきらぼうに抜き身の包丁をぼんぼんぼんと並べるような、無骨な内容になっている)
 その歌を、玄徳はどこから、だれが歌っているのかと気になる。
 吉川英治の演出に翻弄されるというか巧み過ぎて、演義ってほんとに二顧目で吹雪だったのかと、もうそこからかよというぐらい、原典読まないとどうしようもないですね・・・。
(原典も雪の場面です。ただ吉川英治のつなぎ方がめちゃくちゃ上手いんですね)
 えっと、簡単に言うと、
「玄徳の寒村の窮民を想う信念」 → 
「どこかから聞こえてくる、<それ>をうたう歌」 →
「どこから聞こえてくるのだろう、周囲は吹雪でみえない」 →
「吹雪の中に暖かな居酒屋を見つけた。そこで玄徳はぼうぜんと聴き続ける」
 と言う流れなのですが、居酒屋に入ると2人の酔っ払いが「玄徳を肴に」(玄徳からそう見える)囃し立てているようにみえる。
 この二人は襄陽サロンの名士、石広元と孟公威で、見た目は親子ほどの年齢差がある(なんでここで飲んでたのかは不明)。
 玄徳は司馬徽(水鏡先生)に名前は聞いているし友人だというので、一緒に孔明の住居を尋ねようじゃないですかと誘うが、玄徳が孔明を尋ねる理由として、「乱世の現状を治め、済民の道を問わんため」と言っているので、あわてて、
 いやいや、われらは山林に高臥し、懶惰に隠者だから、治国安民の経策などには関われないし、その資格もない、孔明にお尋ねするのがよいでしょうと辞退する。
 玄徳は、おそらく崔州平で慣れたので、あっさりとあきらめ、臥龍の岡へと向かう。

 孔明の家にたどり着くといつもの童子が、なんだか書堂にいるようだと告げる。
 書斎にゆくと炉に寄りかかっている若者がみえる。
 独り言のように詩吟していて、古典の詩歌のようで孔明を歌っているように聞こえる(あくまで(以下略))。玄徳はしばらくしずかにそれを聞いていたが、やがて聞こえなくなる。
 みると若者は、炉に寄りかかったまま膝を抱いて眠っていて、邪心のない赤子にみえた。
 玄徳が声をかけると、若者は目を覚まして、あわてて身をただし、
「将軍は劉皇叔(劉備の尊称)でしょう。きょうもまた、私の兄を訪ねて下すったのですか」
 ときく。劉備はまたも勘違いであわてるのだが、その若者が孔明の弟の諸葛均であることを知る。均はいつもいつもすいませんと謝るが、またどこへ行ったか、いつ帰るか分からないと告げられる。
 均は茶でもてなすが、玄徳は雑談にかこつけて、孔明は兵書を読んでいるかとか、兵馬の修練はしているかとか、門人はいるかなどと、よく考えてみるとかなり失礼な事を聞いている。均は、如才なくさらっとながすが、この辺は玄徳が焦れている様子を書いているのだと思う(かなりひどく、やり過ぎ感はあるけど)。
 玄徳は帰り際に均へ向かって、置き手紙をしたいから紙筆を貸してくれと言う。
 書いている内容は、自分の簡単な自己紹介と、現在の状況を嘆く訴え、(ここで玄徳はしばし考える)
 「私は心から国家を救い民衆を救済したいと願っておりますが、天下を治め整える方策が欠けております。先生には慈愛と忠義の心をもって、太公望のような大いなる才能を発揮し、張良のような大いなる戦略を展開されたなら、天下の幸いであり、国家の幸いであります」(ちくま文庫、井波律子氏の訳をそのまま引用したもの)
 手紙を均に托し、帰ろうとすると童子が、
「老先生! 老先生!」
 と騒ぐ。
 現れた老翁は、梁父の詩を吟じ(終始この調子です(^_^; 書き下した漢詩をベタ貼りされる気分が・・・)、玄徳はいくら何でも年齢的には無理だろと思いつつも、しれっと孔明かと聞く。この辺は孔明が、梁父の詩を好んで読むからで、劉備が知っていたかは知れないのだけど、梁父の詩を読めば、それは孔明というぐらいの、ちょっと演出過剰なドラマの作り方はあるかもしれないけど、一種のネタとして成立しているのは、なんでなんだろうか。
 その老先生は岳父(しゅうと)の黄承彦で、黄は孔明に会うのを諦めて、娘に会いにいく。
 玄徳たちも帰路につくと、行きに立ち寄った居酒屋にはさすがに石広元と孟公威はもうおらず、他の客たちが集まって、孔明が不美人を嫁にしたことを笑い囃し立てている。
 黄承彦(襄陽サロンの常連)をして、不美人ではあるが、才は君に配するに堪えたり、といって孔明の嫁にしたがったほどですから、まあ、相当な自慢の娘なのでしょうねえ。

 長い(笑)! もう抗議文でも送ってやりたいぐらい長いのですが(笑)、もうなんというか、うまいなあと思うところが多すぎて困ります。ただ、まあわたしがどこがよく思ったなんてことは大したことではないので、ざっくりと省略します。

 ■立春大吉(三顧目)

 三顧目はキンドルの位置NOのリストをみていると結構短くみえるのですが、これ罠ですから(笑)。この手法って昔からあったのだろうかと思いながら説明するのですが、実はこの節、
「孔明先生、どうか胸を開いて、本心を語ってくれ!!!」
 ババーン(効果音)

 次巻 赤壁の巻

 と、ここで展開的にぶっちぎってしまうんですね(^_^;
 赤壁の戦いは言うまでもなく三国志最大の一大決戦であり、諸葛孔明の天下三分の計をぶちかましてから始まりますので、次の巻の次の節である「出廬」の123も足して、この節は247としなければならず、あれ、気づかぬうちにこの節が一番長いことに・・・、となるのです。
 まあ冗談のような構成になっているのですが、この話はこの辺にしましょう。

 節の表題は立春とされているので中華圏の旧正月明けと考えるのがよいでしょうか。
 新暦と旧暦はしばしば問題になるのですが、本文中に、
「春は浅く、残んの雪に、まだ風は冷たかったが、清朗の空の下、道は快くはかどった」
 という記載があるので、これに当てはまるぐらいの季節だったとしてしまいましょう。

 玄徳と関羽と張飛は、玄徳が三顧目にいこう、と言い出すともめる。
 関羽などは「孔明はいたずらに虚名を売り、実は内容のない似非学徒に違いない」などといいはじめるが、玄徳は「春秋は読んでいるだろう? 斉の景公は、東郭の野人に会うため、5度も尋ねているではないか」と答える。
 このあたりでエスカレートする気配を感じ取った関羽は、「あなたの姿は、ちょうど太公望のところへ通った文王のようです」と呆れるが、張飛は口ははさんで、「たった一人の農夫に対して、三顧の礼を尽くすなど、愚の至り。孔明を連れてくるには麻縄が一本あれば足りる」
 玄徳は(おそらく司馬徽に孔明は太公望クラスだと言われたのを思い出して)かなり気持ちが大きくなって周の文王が太公望を尋ねたときの故事をとうとうと語る。この辺はかなり酔っている感はある。

 臥龍の岡について柴門より聞くと、奥から均が駆けてきて、門を開く。
(均は出生も死没も不詳なのですが、吉川英治三国志では少年(せいぜい中学生ぐらい)として書かれるんですよね。作中で思春期の孔明と戦火の中から脱出したとの記述があるので、せいぜいそのころ小学生とすると、この三顧の礼のとき孔明は27才なので、やっぱり大学生ぐらいじゃないと計算が合わないんだよなあ・・・、などと悶々と考えてしまいます)
 均によれば兄は在宅だという。
 柴門を入って、園を少しすすむと、また、かたわらに風雅な内門が見える。
 その内からいつもの童子が顔をだす。
 童子によると孔明は在宅で、草堂で昼寝をしているという。玄徳は呼びにいかずにそのままにしておいてくれといい、ひとりで静かに早春の光なごやかな草堂の周りへ入っていく。ふと堂上をみると几席(一畳ほど広さの低い椅子。画像検索してね。三国志演義は単に寝床になっている)のうえにのびのびと身体を横たえている一人がいる。
 玄徳はこの人こそ孔明であろうと、階下に立ち、孔明が目覚めるのを待っていた。
 それを覗いた張飛は激怒するが、関羽が必死に抑え込む。
 このあたりの孔明の描写はほんとうにうつくしい。昼のやわらかい光が見えるような、午後のゆるやかな時間が描かれる。せっかくなので、起きるシーンは省略するので、自分で読んでみてください。

 孔明はめざめて童子を呼び、だれかきたのかときくと、童子は劉皇叔がもう久しく待っていると告げる。
「なんで早く告げなかったか」
 孔明は後堂へ入って、さっと身を整え、挨拶をし終えたところに、童子が茶を持ってくる。
「旧冬、雪の日に、お遺しあったご書簡を見て、恐縮しました。──そして将軍が民を憂い国を思う情の切なるものは、充分に拝見できましたが、如何せん、私はまだ若年、しかも非才、ご期待にこたえる力がないことを、ただただ遺憾に思うばかりです」
 玄徳はその口ぶりの清々しさに気づいた。
「いやいや、司馬徽や徐庶のことばに誤りがありましょうか。先生、玄徳のためにお教えを示してくください」
「司馬徽や徐庶は世の高士ですが、自分はまったくありのままの、一農夫でありません。将軍は玉を捨てて石を採るようなお間違いをなされている」
「玉を石と仰せられても、信じる者はありません。いま、先生は経世の奇才、救民の天質を備えながら、若年におわしながら山林に隠操をお求めになるなどとは──失礼ながら、忠孝の道に背きましょう」
「それは、どういうわけですか」

 だいぶはしょっていますが、べた引用に近いのでこの辺で止めておきます。
 この後、玄徳の一大説得があり、
「孔明先生、どうか胸を開いて、本心を語ってくれ!!!」
 ババーン(効果音)
 となるのですが、とりあえず節ごとのざっとしたあらすじはこの辺でよいでしょうか。
 前に少し書いてますが、ここで貫かれる、孔明の思い・玄徳の思いの部分が便宜上、ざっくりと省略されており最後にとっておいてあるのです。
 ながかった・・・(笑)。
 次回、その話をしましょう。

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『三顧の礼』(2/4?)

 続きです。

 ■『三顧の礼』(1/4?)  http://blog.story-fact.com/?eid=1196002


 ■「三顧の礼」に至るまでの経緯

 これを書き始めようとするとキリがないのであるが、書かない訳にもいかないので最小限の「ひどすぎるだろ」と省略した内容ではしょって書く。

 ・襄陽の名士たちのネットワーク

 事は黄河域の中原の曹操から逃れて長江域の荊州の劉表を頼って劉備が逃れてきたことに始まる。劉表の領地は荊州8州と長江中流域の豊かな土地であり、その都である襄陽には上流から下流から有能な人物たちが集まってきていて一種のサロンを形成している。
 その名士の一人が水鏡先生(司馬徽)であり、孔明、そして後に出てくる徐庶はその弟子に当たる。劉表の客分となった劉備は厚遇を受けるが、あまりの厚遇ぶりに臣下たちから煙たがられる。というのは劉表は後継者を決めておらず、正妻の子である長男劉と、側室の子である次男劉のいずれとするか、臣下の間に争いがあった。
 悪いことに劉を産んだ蔡夫人の親族であり有力な家臣である蔡瑁は、劉備にこの後継者争いの邪魔をされるんじゃないかと気が気でなくなり、執拗に命を狙う策略を講じ始める。大規模になり荊州中の重要人物を巻き込んだ「襄陽の会」の策略に失敗したあたりから、襄陽の名士たちもきな臭さに気づきはじめ劉備に肩入れを始める。
(新野は当時の劉備の領地)
襄陽の位置
■地図は、無料での商用・非商用利用を認めて配布されている、「中国まるごと百科事典」さまより


 ・単福(徐庶)が劉備の麾下に 〜 曹操からの偽の手紙

 いったん劉表に仕えようとした徐庶(単福)は見る目のない劉表に愛想を尽かす。その後、偶然劉備と出会い、劉備が噂通りの仁君であるかを試し、互いに意気投合、劉備は水鏡先生に軍師が必要だと煽られていたので、あっさり単福を軍師に据えてしまう。
 徐庶(単福)は劉備の領地である新野に攻め込んできた曹操軍をあざやかな手並みで打ち破る。それを知った曹操は部下に単福の正体を聞くが、程┐それは徐庶だと告げ、曹操はその実力を知り欲しがる。程┐禄庶が劉備に仕えるようになったのは最近で、身寄りは老母しかないから、身内を引き入れればなびくと助言する。
 曹操は老母を呼ぶが、老母は劉備こそ真の英雄だ、曹操は天下の逆臣でとても仕えろなどと口が割けても言えない、とズタボロにけなす。
 曹操は程┐慮ズにより(ただし事後承諾)偽書により徐庶を呼び寄せることにし、徐庶はそれをまともに真に受けて、劉備に母を慰めたいから暇が欲しいと言い、名残惜しい劉備たちと宴を開きつづけるが、一度別れたのち突然に戻ってきて、孔明を紹介し、徐庶の置き土産だと告げて老母の元へ向かう。

 ■1.諸葛氏一家

 このセクションは、諸葛孔明の家柄、これまでの経歴を簡単に紹介し、わたしは読み落としていたのだが、かなりの名家であることを説明している。わたしは、この「三顧の礼」を終えたのちの記述(孔明を迎えてからの新野の劉備軍は、ほとんど孔明の大借金でまかなわれていたという下り)を読んでから気付く。
 その家族と主に諸葛瑾、諸葛孔明(吉川英治版では一貫して諸葛亮とは書かない)、諸葛均の三兄弟(長男:瑾 次男:孔明 三男:均)とともに、叔父(劉表のお友達らしい)の元に身を寄せる。この付近の吉川英治の筆は光彩豊かで楽しく、三国志が地誌書でないことぐらいは知っているのであるが、大陸中を流浪する人たちの流れや生業さえ目に浮かぶよう。
 その後、叔父は土民の反乱に破れ、焼き出された孔明は石韜という師に、徐庶、孟建に混じって師事するとあるのだが(この孔明、徐庶、孟建が仲良し3人)、この石韜が水鏡先生(司馬徽)の別名なのかは不明。17才で師事し、20才で学友の輪から離れて襄陽の西郊に隠棲してしまうので、情況証拠的には司馬徽なのだが、言明が全くない。
 わたしがこの辺りを読んでいて驚いたのは、三国志の名軍師たちの日常というか世に出る前の姿が描かれているところだ。孟建が孔明のもとを訪れ、故郷に帰ろうと思う、などと相談し、慌てた孔明が、君の故郷の北支(袁紹の勢力圏。先の図では冀州)は門閥がうようよしている社会だから新人が登用される余地なんてないぞ、むしろ南方は新天地でチャンスがある、などといって引き止めていたりする。まさにこれは、都会に出てきた若者の青春模様。
 そして、孔明の襄陽の名士たちの間に一目置かれていたのだが、ここで挙げられる襄陽の名士は崔州平、司馬徽、ほう(まだれ(广)に龍)徳公(孔明と甥のほう統を「臥龍」「鳳雛」と名付けた張本人)、そして黄承彦(孔明を気に入って娘を嫁がせる)で、黄の娘は教養は申し分ないが不美人だったようで、のちに揶揄されるのだが、おそらく孔明は女性を容姿で見ていないので、とても仲の良い夫婦になったとされる。
 だいたいにこのようにこの節は進むのであるが、じつは孔明と学友たちのやりとりや、孔明が隠棲した理由は省略している。これはまとめるうちに分離して別途取り扱ったほうがよいと思ったからで、別途1章を設けてそちらで取り上げる。

(いや、しかし、ここの登場人物数多すぎですね(^_^; 整理しててこんなの分かるのか? と不安に思ってしまいました・・・。いちおうまとめると、

 仲良し三人弟子:孔明、徐庶、孟建
 師匠:司馬徽
 遊び友達(1顧目にでてくる):崔州平
 ほう統の叔父:ほう徳公
 舅:黄承彦

 となる)


 ■2.臥龍の岡

 この節は孔明のもとを訪れる徐庶、そして偽書に欺かれて曹操のもとへ向かった徐庶の末路を描いている。とてもざっくりと言うと、劉備に孔明を紹介したものの孔明がへそ曲がりなので不安になって自分で孔明に劉備を紹介に行った徐庶、ということになる。
 あまり書くことがなくて困るとかくと素っ気ないが、この徐庶のおざなりな描かれ方は、少し可哀想である。中身を端的に書けば孔明に会って、
「徐兄。──ご辺はこの孔明を、祭の犠牲に供えようというおつもりか」
 と、かなり痛烈な調子で軽薄さをとがめられる。
(徐兄というのは兄弟子という意味で、祭の犠牲は『莊子』のエピソードとのこと)
 その後、曹操のもとへ(というか老母のもとへ)向かうが、対面して母に激怒され、玄徳がいかに理想的な主君であるかを説かれ、自害して死なれてしまう。

 おそらくこの節は吉川英治もどう書いていいか、困ったのではないだろうか。
 キンドルの独自仕様の位置NO(キンドルはフォントサイズなどによりページが可変するので、これがページ代わりになる。だいたいNO1分が30字ぐらい)を並べてみると、
 1.諸葛氏一家 21563 (227)
 2.臥龍の岡 21790 (115)
 3.孔明を訪う(一顧目) 21905 (197)
 4.雪千丈(二顧目) 22102 (209)
 5.立春大吉(三顧目) 22311 (124)
 次の巻 22435
 と、なにか見てはいけないものを見ている気になって大変に気まずい。
(ちなみに5.は三国志演義の構成の中途で、豪快にぶった切っているので、これは次の節と足し合わせて考慮するべき部分)
 なので、この中で見るべきところといわれると困ってしまうわけで、挙げるべきは孔明の住居である臥龍の岡の初出がここであることぐらいだろうか。
 ただ、その後の劉備の一行の訪問のシークエンスの初出でもあるので、訪問のたびにどう変わっていくのかを見るならばここからまず見ていくとよい。
(頭を抱えるぐらい薄い感想だ・・・)


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