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『三顧の礼』(3/4?)


 つづきです。


■『三顧の礼』(1/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196002


■『三顧の礼』(2/4?)
http://blog.story-fact.com/?eid=1196003




 ■3.孔明を訪う(一顧目)

 前節が悲惨な状況になっているのを尻目に、全開ぎみでくるのがこの「孔明を訪う(一顧目)」。
 ちょっと情報量が多すぎてパンクしているんじゃないか疑惑はあるのですが、交通整理が忙しすぎてギクシャクしている印象を受けます。
 まずこの節は司馬徽(水鏡先生)が新野を訪れて玄徳と話すのですが、ここがまず情報過多・・・。なので一切のニュアンスをバッサリ切って羅列しますが、たぶん原文を読むとこれしか要約しよう無いよね、と思うと思うのですが、読み直すとひどいでですね。
 ・徐庶の老母は死ぬ。
 ・紹介は孔明にとって迷惑。
 ・道友としても彼がサロンから抜けるのはさびしい。
 ▼玄徳の質問ターン
 ・なぜ襄陽のサロンは発展したのか? → 魏呉蜀の境界だから
 ・孔明の素質はどれぐらいか? → 太公望クラス
 このあたり、別文献を当たって調べてみると散々に複雑な情報が出てくるのですが(特に襄陽サロンの成立過程とかは、まあ分厚い学術論文集クラスの量はあるよね、と言うレベル)、それを書き始めるとまったく収拾がつかなくなるので、ざっくりと無視します(自分で調べてね)。

 玄徳は期待を抱いて孔明を尋ねようと出かける。
 孔明の住居として聞いていたのは、「襄陽の西へ20里、隆中という一村落」ということだけで、その村落へ歩いていくのですが、付近まで行くと百姓の男女が不思議な歌(どう評したらいいのだろうか、世の中を外から見ているような歌? ちくま文庫版の三国志演義に対訳付きで載っている)を謡っている。だれの謡かと聞くと孔明だという。
 玄徳は農夫に孔明の住む臥龍の岡の場所を聞き、そこへ向かうが、その臥龍の岡の周辺は農夫に至るまで変わっていると感じる。
 臥龍の岡の柴門までやってくるとひとりの童子と猿が遊んでいる(これは演義がそうなっている)。
 童子に聞くと、先生は今朝でかけた、どこに行ったかは知らない、帰りは三、五日、あるいは十数日後かもしれないと言われる。
 玄徳はせっかく孔明の住居までやってきて名残惜しくたたずんでいるが、その美しい周囲の風景にもうしろ髪を引かれながら、岡の道を降りていく。

 その帰り道、玄徳は一人の若者(孔明の遊び友達なので、同年代ぐらい? と推定している)に出会う。
 玄徳は孔明かと勘違いするが(以後、孔明の友人で名士ばかり出てくるので、何度も同じ間違いを繰り返す)、崔州平であって孔明の友人だと告げる(これは2/4で挙げた崔)。
 崔は目の前にいるのが玄徳だと知って驚き、どんな用があってきたのかと聞く。玄徳が、
「国を治め民を安んずる道を問わんがため」
 と答えると、崔は大いに笑って、
「あなたは治乱の道理を知らないとみえる」
 とよく読んでみると耳を疑うような失礼な受けごたえをする。崔は曰く、
「世界は流転している。人の一生からすれば20年の乱は長いが、悠久の歴史からみればほんの一瞬。些細なことでしかないのです」
 玄徳は反論するが、
「──万生万殺──一殺多生──いずれも天理の常であり、平凡事だ」
(ものすごくざっくりと解釈を書くと、宇宙が生まれてから数え切れないほどの生命が死んだけれど、それって当たり前でしょ? という感じだろうか)
 と答える。
 これがどれほど非常識な答えであることはわかると思う。完全に劉備と向かい合おうとしていない。

 玄徳はそれを始終つつしんで聞いていて、一応崔を新野の幕僚として誘う。崔は自分は山野の一儒生、世上に名利を求める気はない、と言って断る。
 崔がさると、関羽が玄徳に、何であんなやつの話を聞いた? と問うので、
「彼らの言うことは彼らの中の真理であって、万民俗衆の真理ではない。彼らのような隠士高士は一握りしかおらず、そこでしかつうじない少数の真理だ」
 玄徳は関羽に対し、
「孔明に自分が求めてやまないものは、世を救い万民の苦悩に通じることばだ、その声だ、その真理だ」
 そして、数日後に始まる二顧目に続くのですが、いやー、濃いwww ここに詰め込みすぎなんですよねえ(ため息)。
 まだまだあと2節続きます。

 ■雪千丈(二顧目)

 隆中にやってくると真っ白になっていた。途方もない寒さだが、やがて村内に入る。
 ここで歌が聞こえてくるのだが、演義ではどのような演出になっているのか確認しないと、説明し難いのだが、歌の内容として玄徳の姿を描いた歌になっている。
(ちなみに演義ではなんの演出もなくぶっきらぼうに抜き身の包丁をぼんぼんぼんと並べるような、無骨な内容になっている)
 その歌を、玄徳はどこから、だれが歌っているのかと気になる。
 吉川英治の演出に翻弄されるというか巧み過ぎて、演義ってほんとに二顧目で吹雪だったのかと、もうそこからかよというぐらい、原典読まないとどうしようもないですね・・・。
(原典も雪の場面です。ただ吉川英治のつなぎ方がめちゃくちゃ上手いんですね)
 えっと、簡単に言うと、
「玄徳の寒村の窮民を想う信念」 → 
「どこかから聞こえてくる、<それ>をうたう歌」 →
「どこから聞こえてくるのだろう、周囲は吹雪でみえない」 →
「吹雪の中に暖かな居酒屋を見つけた。そこで玄徳はぼうぜんと聴き続ける」
 と言う流れなのですが、居酒屋に入ると2人の酔っ払いが「玄徳を肴に」(玄徳からそう見える)囃し立てているようにみえる。
 この二人は襄陽サロンの名士、石広元と孟公威で、見た目は親子ほどの年齢差がある(なんでここで飲んでたのかは不明)。
 玄徳は司馬徽(水鏡先生)に名前は聞いているし友人だというので、一緒に孔明の住居を尋ねようじゃないですかと誘うが、玄徳が孔明を尋ねる理由として、「乱世の現状を治め、済民の道を問わんため」と言っているので、あわてて、
 いやいや、われらは山林に高臥し、懶惰に隠者だから、治国安民の経策などには関われないし、その資格もない、孔明にお尋ねするのがよいでしょうと辞退する。
 玄徳は、おそらく崔州平で慣れたので、あっさりとあきらめ、臥龍の岡へと向かう。

 孔明の家にたどり着くといつもの童子が、なんだか書堂にいるようだと告げる。
 書斎にゆくと炉に寄りかかっている若者がみえる。
 独り言のように詩吟していて、古典の詩歌のようで孔明を歌っているように聞こえる(あくまで(以下略))。玄徳はしばらくしずかにそれを聞いていたが、やがて聞こえなくなる。
 みると若者は、炉に寄りかかったまま膝を抱いて眠っていて、邪心のない赤子にみえた。
 玄徳が声をかけると、若者は目を覚まして、あわてて身をただし、
「将軍は劉皇叔(劉備の尊称)でしょう。きょうもまた、私の兄を訪ねて下すったのですか」
 ときく。劉備はまたも勘違いであわてるのだが、その若者が孔明の弟の諸葛均であることを知る。均はいつもいつもすいませんと謝るが、またどこへ行ったか、いつ帰るか分からないと告げられる。
 均は茶でもてなすが、玄徳は雑談にかこつけて、孔明は兵書を読んでいるかとか、兵馬の修練はしているかとか、門人はいるかなどと、よく考えてみるとかなり失礼な事を聞いている。均は、如才なくさらっとながすが、この辺は玄徳が焦れている様子を書いているのだと思う(かなりひどく、やり過ぎ感はあるけど)。
 玄徳は帰り際に均へ向かって、置き手紙をしたいから紙筆を貸してくれと言う。
 書いている内容は、自分の簡単な自己紹介と、現在の状況を嘆く訴え、(ここで玄徳はしばし考える)
 「私は心から国家を救い民衆を救済したいと願っておりますが、天下を治め整える方策が欠けております。先生には慈愛と忠義の心をもって、太公望のような大いなる才能を発揮し、張良のような大いなる戦略を展開されたなら、天下の幸いであり、国家の幸いであります」(ちくま文庫、井波律子氏の訳をそのまま引用したもの)
 手紙を均に托し、帰ろうとすると童子が、
「老先生! 老先生!」
 と騒ぐ。
 現れた老翁は、梁父の詩を吟じ(終始この調子です(^_^; 書き下した漢詩をベタ貼りされる気分が・・・)、玄徳はいくら何でも年齢的には無理だろと思いつつも、しれっと孔明かと聞く。この辺は孔明が、梁父の詩を好んで読むからで、劉備が知っていたかは知れないのだけど、梁父の詩を読めば、それは孔明というぐらいの、ちょっと演出過剰なドラマの作り方はあるかもしれないけど、一種のネタとして成立しているのは、なんでなんだろうか。
 その老先生は岳父(しゅうと)の黄承彦で、黄は孔明に会うのを諦めて、娘に会いにいく。
 玄徳たちも帰路につくと、行きに立ち寄った居酒屋にはさすがに石広元と孟公威はもうおらず、他の客たちが集まって、孔明が不美人を嫁にしたことを笑い囃し立てている。
 黄承彦(襄陽サロンの常連)をして、不美人ではあるが、才は君に配するに堪えたり、といって孔明の嫁にしたがったほどですから、まあ、相当な自慢の娘なのでしょうねえ。

 長い(笑)! もう抗議文でも送ってやりたいぐらい長いのですが(笑)、もうなんというか、うまいなあと思うところが多すぎて困ります。ただ、まあわたしがどこがよく思ったなんてことは大したことではないので、ざっくりと省略します。

 ■立春大吉(三顧目)

 三顧目はキンドルの位置NOのリストをみていると結構短くみえるのですが、これ罠ですから(笑)。この手法って昔からあったのだろうかと思いながら説明するのですが、実はこの節、
「孔明先生、どうか胸を開いて、本心を語ってくれ!!!」
 ババーン(効果音)

 次巻 赤壁の巻

 と、ここで展開的にぶっちぎってしまうんですね(^_^;
 赤壁の戦いは言うまでもなく三国志最大の一大決戦であり、諸葛孔明の天下三分の計をぶちかましてから始まりますので、次の巻の次の節である「出廬」の123も足して、この節は247としなければならず、あれ、気づかぬうちにこの節が一番長いことに・・・、となるのです。
 まあ冗談のような構成になっているのですが、この話はこの辺にしましょう。

 節の表題は立春とされているので中華圏の旧正月明けと考えるのがよいでしょうか。
 新暦と旧暦はしばしば問題になるのですが、本文中に、
「春は浅く、残んの雪に、まだ風は冷たかったが、清朗の空の下、道は快くはかどった」
 という記載があるので、これに当てはまるぐらいの季節だったとしてしまいましょう。

 玄徳と関羽と張飛は、玄徳が三顧目にいこう、と言い出すともめる。
 関羽などは「孔明はいたずらに虚名を売り、実は内容のない似非学徒に違いない」などといいはじめるが、玄徳は「春秋は読んでいるだろう? 斉の景公は、東郭の野人に会うため、5度も尋ねているではないか」と答える。
 このあたりでエスカレートする気配を感じ取った関羽は、「あなたの姿は、ちょうど太公望のところへ通った文王のようです」と呆れるが、張飛は口ははさんで、「たった一人の農夫に対して、三顧の礼を尽くすなど、愚の至り。孔明を連れてくるには麻縄が一本あれば足りる」
 玄徳は(おそらく司馬徽に孔明は太公望クラスだと言われたのを思い出して)かなり気持ちが大きくなって周の文王が太公望を尋ねたときの故事をとうとうと語る。この辺はかなり酔っている感はある。

 臥龍の岡について柴門より聞くと、奥から均が駆けてきて、門を開く。
(均は出生も死没も不詳なのですが、吉川英治三国志では少年(せいぜい中学生ぐらい)として書かれるんですよね。作中で思春期の孔明と戦火の中から脱出したとの記述があるので、せいぜいそのころ小学生とすると、この三顧の礼のとき孔明は27才なので、やっぱり大学生ぐらいじゃないと計算が合わないんだよなあ・・・、などと悶々と考えてしまいます)
 均によれば兄は在宅だという。
 柴門を入って、園を少しすすむと、また、かたわらに風雅な内門が見える。
 その内からいつもの童子が顔をだす。
 童子によると孔明は在宅で、草堂で昼寝をしているという。玄徳は呼びにいかずにそのままにしておいてくれといい、ひとりで静かに早春の光なごやかな草堂の周りへ入っていく。ふと堂上をみると几席(一畳ほど広さの低い椅子。画像検索してね。三国志演義は単に寝床になっている)のうえにのびのびと身体を横たえている一人がいる。
 玄徳はこの人こそ孔明であろうと、階下に立ち、孔明が目覚めるのを待っていた。
 それを覗いた張飛は激怒するが、関羽が必死に抑え込む。
 このあたりの孔明の描写はほんとうにうつくしい。昼のやわらかい光が見えるような、午後のゆるやかな時間が描かれる。せっかくなので、起きるシーンは省略するので、自分で読んでみてください。

 孔明はめざめて童子を呼び、だれかきたのかときくと、童子は劉皇叔がもう久しく待っていると告げる。
「なんで早く告げなかったか」
 孔明は後堂へ入って、さっと身を整え、挨拶をし終えたところに、童子が茶を持ってくる。
「旧冬、雪の日に、お遺しあったご書簡を見て、恐縮しました。──そして将軍が民を憂い国を思う情の切なるものは、充分に拝見できましたが、如何せん、私はまだ若年、しかも非才、ご期待にこたえる力がないことを、ただただ遺憾に思うばかりです」
 玄徳はその口ぶりの清々しさに気づいた。
「いやいや、司馬徽や徐庶のことばに誤りがありましょうか。先生、玄徳のためにお教えを示してくください」
「司馬徽や徐庶は世の高士ですが、自分はまったくありのままの、一農夫でありません。将軍は玉を捨てて石を採るようなお間違いをなされている」
「玉を石と仰せられても、信じる者はありません。いま、先生は経世の奇才、救民の天質を備えながら、若年におわしながら山林に隠操をお求めになるなどとは──失礼ながら、忠孝の道に背きましょう」
「それは、どういうわけですか」

 だいぶはしょっていますが、べた引用に近いのでこの辺で止めておきます。
 この後、玄徳の一大説得があり、
「孔明先生、どうか胸を開いて、本心を語ってくれ!!!」
 ババーン(効果音)
 となるのですが、とりあえず節ごとのざっとしたあらすじはこの辺でよいでしょうか。
 前に少し書いてますが、ここで貫かれる、孔明の思い・玄徳の思いの部分が便宜上、ざっくりと省略されており最後にとっておいてあるのです。
 ながかった・・・(笑)。
 次回、その話をしましょう。

| 雑記 | 04:18 | comments(0) | trackbacks(0) |
『三顧の礼』(2/4?)

 続きです。

 ■『三顧の礼』(1/4?)  http://blog.story-fact.com/?eid=1196002


 ■「三顧の礼」に至るまでの経緯

 これを書き始めようとするとキリがないのであるが、書かない訳にもいかないので最小限の「ひどすぎるだろ」と省略した内容ではしょって書く。

 ・襄陽の名士たちのネットワーク

 事は黄河域の中原の曹操から逃れて長江域の荊州の劉表を頼って劉備が逃れてきたことに始まる。劉表の領地は荊州8州と長江中流域の豊かな土地であり、その都である襄陽には上流から下流から有能な人物たちが集まってきていて一種のサロンを形成している。
 その名士の一人が水鏡先生(司馬徽)であり、孔明、そして後に出てくる徐庶はその弟子に当たる。劉表の客分となった劉備は厚遇を受けるが、あまりの厚遇ぶりに臣下たちから煙たがられる。というのは劉表は後継者を決めておらず、正妻の子である長男劉と、側室の子である次男劉のいずれとするか、臣下の間に争いがあった。
 悪いことに劉を産んだ蔡夫人の親族であり有力な家臣である蔡瑁は、劉備にこの後継者争いの邪魔をされるんじゃないかと気が気でなくなり、執拗に命を狙う策略を講じ始める。大規模になり荊州中の重要人物を巻き込んだ「襄陽の会」の策略に失敗したあたりから、襄陽の名士たちもきな臭さに気づきはじめ劉備に肩入れを始める。
(新野は当時の劉備の領地)
襄陽の位置
■地図は、無料での商用・非商用利用を認めて配布されている、「中国まるごと百科事典」さまより


 ・単福(徐庶)が劉備の麾下に 〜 曹操からの偽の手紙

 いったん劉表に仕えようとした徐庶(単福)は見る目のない劉表に愛想を尽かす。その後、偶然劉備と出会い、劉備が噂通りの仁君であるかを試し、互いに意気投合、劉備は水鏡先生に軍師が必要だと煽られていたので、あっさり単福を軍師に据えてしまう。
 徐庶(単福)は劉備の領地である新野に攻め込んできた曹操軍をあざやかな手並みで打ち破る。それを知った曹操は部下に単福の正体を聞くが、程┐それは徐庶だと告げ、曹操はその実力を知り欲しがる。程┐禄庶が劉備に仕えるようになったのは最近で、身寄りは老母しかないから、身内を引き入れればなびくと助言する。
 曹操は老母を呼ぶが、老母は劉備こそ真の英雄だ、曹操は天下の逆臣でとても仕えろなどと口が割けても言えない、とズタボロにけなす。
 曹操は程┐慮ズにより(ただし事後承諾)偽書により徐庶を呼び寄せることにし、徐庶はそれをまともに真に受けて、劉備に母を慰めたいから暇が欲しいと言い、名残惜しい劉備たちと宴を開きつづけるが、一度別れたのち突然に戻ってきて、孔明を紹介し、徐庶の置き土産だと告げて老母の元へ向かう。

 ■1.諸葛氏一家

 このセクションは、諸葛孔明の家柄、これまでの経歴を簡単に紹介し、わたしは読み落としていたのだが、かなりの名家であることを説明している。わたしは、この「三顧の礼」を終えたのちの記述(孔明を迎えてからの新野の劉備軍は、ほとんど孔明の大借金でまかなわれていたという下り)を読んでから気付く。
 その家族と主に諸葛瑾、諸葛孔明(吉川英治版では一貫して諸葛亮とは書かない)、諸葛均の三兄弟(長男:瑾 次男:孔明 三男:均)とともに、叔父(劉表のお友達らしい)の元に身を寄せる。この付近の吉川英治の筆は光彩豊かで楽しく、三国志が地誌書でないことぐらいは知っているのであるが、大陸中を流浪する人たちの流れや生業さえ目に浮かぶよう。
 その後、叔父は土民の反乱に破れ、焼き出された孔明は石韜という師に、徐庶、孟建に混じって師事するとあるのだが(この孔明、徐庶、孟建が仲良し3人)、この石韜が水鏡先生(司馬徽)の別名なのかは不明。17才で師事し、20才で学友の輪から離れて襄陽の西郊に隠棲してしまうので、情況証拠的には司馬徽なのだが、言明が全くない。
 わたしがこの辺りを読んでいて驚いたのは、三国志の名軍師たちの日常というか世に出る前の姿が描かれているところだ。孟建が孔明のもとを訪れ、故郷に帰ろうと思う、などと相談し、慌てた孔明が、君の故郷の北支(袁紹の勢力圏。先の図では冀州)は門閥がうようよしている社会だから新人が登用される余地なんてないぞ、むしろ南方は新天地でチャンスがある、などといって引き止めていたりする。まさにこれは、都会に出てきた若者の青春模様。
 そして、孔明の襄陽の名士たちの間に一目置かれていたのだが、ここで挙げられる襄陽の名士は崔州平、司馬徽、ほう(まだれ(广)に龍)徳公(孔明と甥のほう統を「臥龍」「鳳雛」と名付けた張本人)、そして黄承彦(孔明を気に入って娘を嫁がせる)で、黄の娘は教養は申し分ないが不美人だったようで、のちに揶揄されるのだが、おそらく孔明は女性を容姿で見ていないので、とても仲の良い夫婦になったとされる。
 だいたいにこのようにこの節は進むのであるが、じつは孔明と学友たちのやりとりや、孔明が隠棲した理由は省略している。これはまとめるうちに分離して別途取り扱ったほうがよいと思ったからで、別途1章を設けてそちらで取り上げる。

(いや、しかし、ここの登場人物数多すぎですね(^_^; 整理しててこんなの分かるのか? と不安に思ってしまいました・・・。いちおうまとめると、

 仲良し三人弟子:孔明、徐庶、孟建
 師匠:司馬徽
 遊び友達(1顧目にでてくる):崔州平
 ほう統の叔父:ほう徳公
 舅:黄承彦

 となる)


 ■2.臥龍の岡

 この節は孔明のもとを訪れる徐庶、そして偽書に欺かれて曹操のもとへ向かった徐庶の末路を描いている。とてもざっくりと言うと、劉備に孔明を紹介したものの孔明がへそ曲がりなので不安になって自分で孔明に劉備を紹介に行った徐庶、ということになる。
 あまり書くことがなくて困るとかくと素っ気ないが、この徐庶のおざなりな描かれ方は、少し可哀想である。中身を端的に書けば孔明に会って、
「徐兄。──ご辺はこの孔明を、祭の犠牲に供えようというおつもりか」
 と、かなり痛烈な調子で軽薄さをとがめられる。
(徐兄というのは兄弟子という意味で、祭の犠牲は『莊子』のエピソードとのこと)
 その後、曹操のもとへ(というか老母のもとへ)向かうが、対面して母に激怒され、玄徳がいかに理想的な主君であるかを説かれ、自害して死なれてしまう。

 おそらくこの節は吉川英治もどう書いていいか、困ったのではないだろうか。
 キンドルの独自仕様の位置NO(キンドルはフォントサイズなどによりページが可変するので、これがページ代わりになる。だいたいNO1分が30字ぐらい)を並べてみると、
 1.諸葛氏一家 21563 (227)
 2.臥龍の岡 21790 (115)
 3.孔明を訪う(一顧目) 21905 (197)
 4.雪千丈(二顧目) 22102 (209)
 5.立春大吉(三顧目) 22311 (124)
 次の巻 22435
 と、なにか見てはいけないものを見ている気になって大変に気まずい。
(ちなみに5.は三国志演義の構成の中途で、豪快にぶった切っているので、これは次の節と足し合わせて考慮するべき部分)
 なので、この中で見るべきところといわれると困ってしまうわけで、挙げるべきは孔明の住居である臥龍の岡の初出がここであることぐらいだろうか。
 ただ、その後の劉備の一行の訪問のシークエンスの初出でもあるので、訪問のたびにどう変わっていくのかを見るならばここからまず見ていくとよい。
(頭を抱えるぐらい薄い感想だ・・・)


| 雑記 | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) |
 『三顧の礼』(1/4?)

 最近入院をしていて、積読本の解消をしていた。
 無限の書庫であるキンドルに居座っていたのは吉川英治の『宮本武蔵』で、著作権の存続期間を経過した(吉川英治の死後50年)ので買った。読むと、あっという間に消化してしまう。
 それで吉川英治作『三国志』を買う。
 実は小説として三国志を通しで読むのは人生初めてで、おおまかな歴史の流れや、個別のエピソードの断片ぐらいは知ってるけど、三顧の礼のシーンを読んで感じ入ってしまったのだから、その程度にしか三国志を知らなかった。ゲームでしか向き合ったことがなかったのだ。
 ぶっちゃけて言うと、わたしは西洋史はともかく東洋史は入試試験で使うかどうかぐらいのレベルしか知らず、周瑜が死ぬシーンを読んで、あれ、ここで死ぬの? なんかの間違いじゃない? と、吉村英二の勘違いか、などと思ってしまったほどである(それぐらい、はい? と思ってしまうぐらい唐突すぎる死にかたをする)。

 その代わりに西洋史の読み込みは、人物伝を中心に偏りながら、多いと言えば多い。
 例えて言うならば、ローマの共和制から帝政への移り変わりの時代は、カエサルの物語として小説が書けるぐらいには理解していて、クラックスは入れてもいいけどどうでもよくて、ポンペイウスは見どころが多いので小説が書ける(略)、アントニスは(略)、アウグストゥスは(略)、クレオパトラは(略)という感じで全部ばらばらで細かいエピソードまで覚えているわけである(あと、まあスッラも入れたいなあとか)。
 簡単に言うと、ギリシャ・ローマの人物伝は全部使っていいから、三国志風にその時代の物語を書いてみて、と言われたら、
 あ、まあ、締切と報酬はどんな感じになりますか?
 と、あんまり無茶な依頼でなければ受けてしまいそうになる。

 西洋史で三国志のような形式を取っているのはイーリアスぐらいで、そもそも歴史物語といえるような著作がほとんどない。「歴史」というタイトルのヘロドトスの著作はどう見ても「地誌」だし、「戦史」というタイトルのトゥキディティスの著作は「戦史論」とでも名付けたい学術書だし、「ガリア戦記」というカエサルの著作は自身の率いる華々しいガリア方面軍の戦いの報告書だ。
 こう言った著作を除くと残っているのは(と言っても、こっちがメインだと思われているのだが)、その時代時代に生きた偉人の伝記になる。その中でももっとも著名で頂点にあるのが「ブルタコス英雄伝」で、それにおまけのようにスヴェトニウスの「皇帝伝」のような作品が出てくる。
 三国志がこれと異質なのは、それが群像劇のかたちをした一種の叙事詩として高度に完成しているところであり、日本の物語に例えなければならないのが変な話なのだが、平家物語や忠臣蔵と同じような形式であると言うことができる気がする。
 何かふしぎな書き方だなと思ったのが、三国志に触れた初っ端の感想で、おそらく西洋史ではイーリアスぐらいしかこの書き方はしてない気がするからだ。
 多くの方は、そうかな? と思う気がするのだけど、ああ、この書き方って面白い書き方なんだと思ってほしいなと思いながら、そのへんは放置する。

                   ※

 吉川英治版三国志の描き方はとても新鮮で、非常に楽しく心踊るものだった(まだ読了前なのだが)。地誌として読んでも、歴史として読んでも、とても表情豊かに描かれており、さっぱりとした人物の浅い書き方と対照的な印象だった。
(皮肉なことに、吉川英治は従軍記者として中国の地誌と歴史に触れ、その体験を存分に本作に反映している。広大な中国の豊かな歴史と文化を理解していたのが、侵略者であった日本人だったというのが皮肉なところで、その刻印は永久に消すことのできない(著作権フリーになったので、誰も管理できない)情報になったのは、暗黒の未来しかやって来なそうな現状の大陸には良いことなのかもしれない)

 また漢文の小説形式は読んだことはなくそれが標準の記載方法なのかは分からないのだが、物語るときに前例(詩など)を引用しながら話を進める。とくに当時の文官の大半は四書五経を諳んじているような知的エリートばかりなので(それしかいないとも言う)、古典や古い故事の引用がばんばん飛んでくる。これは文化圏の違いからくるカルチャーショックで、ああ、大変ものを読み出してしまったな、あちこちつつき始めようとするときりないぞ、などとヒヤヒヤしながら読んだ。
(要するにいくらでも語るべき部分を発見し得るのである・・・)

 しかし、これほど贅沢で恰好の中国古代史のショーケースである三国志演義が、世界的な知名度を持っているであろう事を考えると、その物語が世界各国でどのように翻訳され、どのような著者によりどのように解釈されているのかを考えること、天の川銀河のことを調査しようとするぐらいには広大な話題であるはずだ、と気付く。
 ことに「三顧の礼」は三国志演義の大きな転換点で、その内容はあまりにも有名だ。
 概要を書けば、ほんの数行に収まるようなエピソードを、果たして世界はどう書いているのか。
 何とも楽しげではないか。
 はたして、吉川英治はどのような「三顧の礼」を描いたのであろうか?
 まずは、そこから読み進めてみるのも悪いことではない。


 ■吉川英治版「三顧の礼」概略

 「三顧の礼」は言うまでもなく、三国志演義の主人公である劉備玄徳の宰相となる諸葛孔明が、劉備の配下になるいきさつを描いた名シーンである。
(というか物語的には共同創業者ちっくな話になっている。孔明は流浪してきた劉備に、魏、呉に並ぶ、蜀を建国する天下三分の計を献策するので、まあ創業って言うのは間違っていない)
 吉川英治版は諸葛氏の家柄、孔明のこれまでの生き様、学んできた師のことなどに触れて、孔明の人となりが描かれる。キンドルで読んでいるのでページ数は分からないのだが、計算してみたところ、5節構成(本作は20〜30枚毎に「節」とでも呼ぶべき単位で区切られている)の100〜150枚程度の長さになっている。
 節には表題がついていて、それは順に並べると、
 1.諸葛氏一家
 2.臥龍の岡
 3.孔明を訪う(一顧目)
 4.雪千丈(二顧目)
 5.立春大吉(三顧目)
 となる。
 細かな内容は後に譲るが、孔明を尋ねる(3.)まで60枚近く費やしていることになる。
 わたしのような門外漢は、
「え? 三顧の礼って三回お願いして三回目で配下にしたって話でしょ(わざとかなり乱暴に書いている)? なんで150枚も必要なの?」
 と考えがちなのだが、この吉川英治版は、ああ、このエピソード全部必要だわ、というか他の三国志は「三顧の礼」をどう書いてるんだ? と、うっかり国会図書館に5年ぐらい閉じこもって研究し始めそうになるから困る。

 ■「三顧の礼」に至るまでの経緯

 えーと、4分割ぐらいになる気がするので、この辺で出してしまう。
 早めに出してしまうのは、てめー、続きちゃんと書けよ、と脅しを掛けるためで(^_^; 後続が整うまで待たないのは、待つと数ヶ月とか平気で過ぎてしまうから、です。
 原稿は500行ぐらいはあります(このエントリーが100行ぐらい)。

 続きをお楽しみに!
| 雑記 | 23:53 | comments(0) | trackbacks(0) |
『僕だけがいない街』を見た/読んだ(ネタバレなのは、アニメが原作の何巻までを描いているかだけ)

 正直、映画評カテゴリーに混ぜるのはどうかとは思った。
 これはアニメ版に対する評であって、ややこしいことにこの原作は映画化もされている。わたしはこの原作が2時間の映画に収まるとは到底思えないし、正直1クールで終わったアニメ版でさえ話数が足りていたとは、到底思えなかった。
 アニメ版では原作を省略しすぎていて、意味がわからなくなっている。
 その話をしようと思って、これを書いている。
 正直ミステリー物の作品ということで、wikipediaがネタバレの編集合戦になっていたりなど、非常に正確な(そしてまったくネタバレしてない)情報にたどり着くのは、この作品に限っては恐ろしいほどに困難だ。それでいて、ネタバレとはまったく関係のない部分にこの作品のキラ星の

ても不幸だ。
 そこで、たった一つだけネタバレをする、ということにして、書いてみたいと思うのだ。
 この『僕だけがいない街』は一体何なのか、ということを。

 冒頭から、アニメ版が原作の何巻までを描いているのかに触れるのは、これがとても重要だから、だったりする。
 わたしはアニメ版から入って、いろいろと腑に落ちなくて、原作を読んだ人だ。
 腑に落ちなかったのは、なぜこの犯人はこんなことをしたのだろう、ということだった。これは原作を読んで腑に落ちたし、アニメ版がそれをカットした理由も痛いほどわかった。
 アニメ版は原作の6巻か7巻の冒頭までしか描いていない。
 原作は全8巻なので、ほぼ丸々2巻が抜けていることになる。
 コミックスのアニメ化の場合、だいたい5巻から6巻で1クールとなる(経験則上)。
 8巻となると2クールに足りないし、おそらく2クールもやる資金がなかったのだろう。
 あとは原作を読んでくれというのが、製作委員会に入っている出版社的にも都合が良いだろうし、アニメ製作会社も余計なリスクを背負いたくない。ならば、微妙に中途半端だけれども、ここまでにしましょうというはとても分かる。
 だが、これで残念ながら抜け落ちてしまったのは、わたしが疑問に思った、なぜこの人はこんなことをしたのだろう、ということだった。

 この『僕だけがいない街』は、小学生の連続誘拐殺人事件が起こり、28才の悟(主人公)が過去の惨劇を防ぐために小学生としてリバイバル(この作品の専門用語、タイムスリップだと思うと分かりやすい)して、過去に起こってしまった惨劇を回避する物語だ。
 犯人として主人公と親しかったユウキさんが有罪になるのだが、当然に真犯人がいる。
 とてもスリリングな本格サスペンスなんだけれども、ただひとつ腑に落ちないのは、これまでも書いたとおり、動機は? というところだったりする(アニメ版の印象をベースに話している)。
 原作では執拗なほどにその動機を書き連ねており、原作をご存じの方には信じられないかもしれないが、アニメ版にはハムスターとカンダタのエピソードぐらいしか動機らしい動機が出てこない。犯人の家族関係も出てこないし、犯人が結局30人以上殺しているエピソードも出てこない。
 たぶんと予測で書くのであるが、これはここに踏み込むと、7巻・8巻の内容を描くしかなくなるからじゃないだろうか。
 そうなると2クールだ。
 無理だ。うん、それは痛いほど分かる。
(映画がどうしたかは知らない。まあ無理だろうなとしか)

 一方で、アニメ版はこの『僕だけがいない街』の光の部分に、たぶんにスポットライトを当てている。このアニメ版を企画した人は、原作のショッキングな事件の全容に心酔したのではなく、その過酷さの中に散りばめられる、宝石のような輝きたちを愛おしいと思ったのではないか、と思ってしまうほどだ。
 一番好きなのは、ケンヤ(主人公の盟友になる弁護士の息子)が、悟と雛月を守ろうということで協力し、ああ、決定的なセリフを言ってしまうとネタバレすぎて、いやそれダメだろになるんですが、結構友情が感動的で、虐待を受けてきた雛月(ヒロイン)が普通の女の子として家庭に迎え入れられて泣くシーンとか、これも象徴的なシーンがあって、それから、どんどんと仲間が集ってアジトで雛月を匿うシーンとか、妖怪めと悟に思われるお母さんの頼もしさだったり、「したっけ!」(なんだっけ、じゃあね、だったっけ?)という方言の暖かさだったり、ああ、書き忘れていたけど、この『僕だけがいない街』は現代編が千葉、過去編が北海道(わたしは旭川あたりだと思ったのだけど、いろいろ矛盾があるなあとか思っている最中)で、しかし2月の北海道で氷点下ではないとはどうかとか思ったり(これは重要なシーンではっきりと気温が示されるので、それに対する疑問)。
 まあ、言及しようと思えばどこまでも言及できる物語です。
 正直、原作を繰る手が止まりませんでした。
 犯人はこんなことを考えていたのかと、本当に理解できるのは7巻・8巻です。

 うん、まあ、入り口はどこからでも良いですので、ぜひぜひ騙されたと思って触れてみてください。おそらく、損した、という気にはならないですよ!

| 映画評 | 18:45 | comments(0) | trackbacks(0) |
 『消える月』


 メモ魔だと言われるようになったのは心外で、最近つとめてそうなったつもりは、さらさらない。
 ただただ突如に発生した長期プロジェクトにあわてて、まっさらなプロジェクトノートを下ろしてを前の方からスケジュール、後ろの方からメモ書き、または走り書きをはじめると、びっしりと埋まった「メモ」に両親や、看護士さんから、
 メモ魔だ。
 といわれるようになった。
 新品の、ダイソーで買ってストックしていた100円のモレスキン・クローン(通称ダイスキン)ノートは、たしかに記録帳というよりは、単なるメモ帳だ。

 40.5度の高熱で自転車を運転中、意識を失って救急車搬送された。
 何らかの理由で血中に細菌が入り、手術で言うところの「感染」に近い症状になったことで、わたしは高熱を発した。原因は不明の高熱。以前同じような症状に経験豊かな開業医は為す術もなく、わたしは数日の高熱の後に大学病院に救急搬送された。搬送されたのは、高熱の末に細菌がわたしの心臓弁を食い破ったからで、その血栓が脳に飛び火して、誰にでも明らかに救急車送りと理解できる、脳梗塞で意識を失ったからだ。
 今回も症状はほぼ同じで、まだ発熱しただけで悪化はしてないので、手術の必要なしと判断できるまでは集中治療室預かり、その危険がないと判断されてからは病室で延々と抗生剤の点滴をうつだけという閑散とした日々が続く。
 その当時は入院中の自分には出きることなどない、選択肢はおそろしく少ないと思っていたのだが、振り返ってみると、あれができたじゃないかと気づくことが多すぎて、ぼうぜんとする。
 入院がお盆前で、退院が10月中旬であるから8週間は、わたしの40歳から消えた。
 9月という月はわたしの今年にはなかったのか?
 プロジェクトノートをひらくと、空白を必死に埋めようとする文字が、お前にこれをまとめられるのか? という顔をして何十ページにもわたって連なっている。
 きっと、それをあきらめたら、わたしの9月は消える。

 モレスキンノートというのは、為替にもよるのだが1800円ぐらいの変形A6サイズ(90×140ミリ)のノートで、とてもハンディーな黒皮(モレスキンはもぐらの皮膚の意味)の大容量(196ページ)であることで有名である(綴じ方が特殊とされる)。おおきく無地と罫線の2種があるが、わたしが使うのは罫入りの方。
 わたしは日々の大切な事柄は、母艦である本家モレスキンノートに書くのだが、今回のように突破的な事態では、半ば使い捨ての100円ノートを用意して、メモ書きとしてそのノートを利用する。
 おおよそ19世紀、20世紀の文化人たちが愛用していたとのふれこみなのだが、なるほど忙しくヨーロッパ中を駆け回りながらふと気づいたことを記すのに適したノートで、もちろん入院先でも思いのほか重宝するのだが、いかんせん片手サイズのノートなので記載がいちいち細かくなる。
 わたしは目の前で開いて書いているので、ちょうどいいサイズなのだが、脇から見ると、信じられないぐらい細かい文字でぎっしり書かれているようにみえるらしい。わたしとモレスキンの付き合いも長く、小さいスペースにびっしりと書くことに慣れてしまっている。
「○○(わたしの名前)って、こんなに細かい性格だったんだね?」
 いまさら言われて心外なのだが、デザインの仕事とか、プログラムの仕事とか、法律の仕事とか、細かいことができない人にはできないから、などといっても分かってくれそうにない。

 産業革命に起こった「だれもが旅しながら創造した時代」をモレスキンは象徴するのだろうけど、情報革命に起こった「だれもが日常的に創造し続ける時代」、つまりいま現在にも、似たような象徴がある。スマートフォンがそれで、モレスキンのキャッチコピーである、パスポートよりも失ってはならないもの、はまさにスマートフォンにもあてはまる。

 創造し続けるなどというと、何を大げさなと思うかも知れないが、著作権法上の視点からみると、現在ほどホイホイと著作権が発生している時代はない。「だれかがつぶやくたびに」、「写真をアップするたびに」、そこに新たな著作権が発生し、その扱いを不法にすると裁判沙汰になる恐れがある。
 現状をみてしまうと、その光景があまりにもカジュアルすぎてピンとこないのだけど、一昔前にはこれを実感できる環境が広がっていた。
 つまり発信することがカジュアルじゃなかった時代。
 そして、アンダーグラウンドぽい界隈に。

 ■モバイラーたちの時代

 iPhoneをみて、
「あれって、ソニークリエのパクリだよね?」(国内厨)
「パームの方が近くねえ?」(王道派)
「おれはハンドスプリング持ってたよ」(おしゃれ派)
 と言い出す、古のガジェットヲタたちが騒ぎ出す界隈がある。これはパームトップ(パームOSと呼ばれるOSを積んだスマホ(ただし電話機能はない))だけだが、これとは別にクラムシェル(ミニワープロ)という界隈があり、それらを総称してハンドヘルド、または単にガジェットと呼んでいた。
 これらのガジェットを使いこなす人たちはモバイラーと呼ばれ、NTTドコモのピーイン・コンパクトと言う商品名のPHS回線にどこからでもつなげる契約をして(当時64kbpsだったなあ・・・)、パソコン通信をしたり、メールを受けたりしていた。
 何を隠そう、わたしはかなり最古参に近いモバイラーで、現在でもこの文章はシャープのnetwalkerというガチガチのモバイラー仕様のクラムシェルで書かれている。
 netwalkerをみると分かるのだが、この機種は両手で持ち上げるように持って、右の親指がオプティカル・ポイントがマウスポインター、左の親指が右クリック・左クリックを押すようになっていて、立って操作することが前提になっている。満員電車の中というのはスマホがでるまでは非生産的なだけな空間でモバイラーがガジェットを持つ理由の真っ先が、この満員電車だった。
 わたし中古でnetwalkerを買ったのはこのサイズのハンドヘルドが必要だったからで、別に立って操作できないと困るなどと思ったことはないし、そもそもわたしはそんな設計がされていない歴代シグマリオンを満員電車で何の問題もなく使っていた。
 それでもおそらく当時の設計思想にやられてしまった人が設計したのだろう。
 当然のようにnetwalkerは、満員電車仕様になっている。
 それでそのモバイラーたちが何をやっていたのかというと、時代によって違うので一概にはいえないのだが、わたしが書いていたメールマガジン『物語解析』は2週間に1回ぐらいのペースで原稿用紙30枚分書いていたけれど、それはすべて行き帰りの通勤電車で書いていた。
 
 ■完成稿に至るまでに必要な工程

 『物語解析』を書いていたときは、平気で素のテキストを何の構成も考えずに、いきなり本番原稿を生で書いていたりしたのですが(いや・・・、若いって怖い・・・)、さすがに最近はメモをとってからまとめたりするようになってきた。
 ここのところ小説ぐらいしか長い文章を書いていないので、補助的に書いていたのはプロットぐらいしかなかったのですが、今回プロジェクトノートを書いてみて、ああ、こういうやりかたもけっこう面白いかも、と思ったりしました。ただまあ、複数人数で関わっていないと複雑なメモ書きをするメリットがないので、今回の入院はともかく、一人でコツコツ作っている以上は、あんまり必要ないかもしれないと思いはします。

 ハンドヘルド(HH)で作業ができないケースとしては、
 1.広い画面が必要
 2.複数アプリケーションを立ち上げる必要がある
 3.入力が主となるので、キーボードの選択ができないHHは向かない
 4.特殊な環境を導入できないとできない
 5.単数もしくは複数の書籍をみながらでないとできない
 といったものがある。
 これらの具体例を細かく説明すると蛇足になるので避けるのだが、わたしの皮膚感覚として自分が作業工程として作る流れのだいたい半分ぐらいは、これらに該当する。アバウトな感覚なのだがわたしにとってはこれらは「重い仕事」という分類になる。
(まあいまになって思えば、物語解析の一回分を書く創造的な作業が「軽い仕事」で、ゲームブック解析の機械的なゲームブックの項番入力作業が「重い仕事」なわけがないのだが)

 これは得てして、作業工程を重い塊のまま放置しているから、起こってしまうボトルネックで、作業を見直して軽い環境でもこの工程をこなせるように、この塊を小さく砕いていく努力をしてこなければならなかった。
 入院中にもできる、電車移動中にもできる、映画の上映を待っているほんの10分ぐらいの間でもできる。
 追求していくとキリはないし、わたしも人間なので疲れるのだが、どっさと積み残っている「やれていないこと」の山をみるたびに、作業工程をもっと軽くしないとなあ、などと思うのだ。ただこれらの作業を重くしているのの一番は気持ちの問題で、気づかないうちに避けて通っていたり、見て見ぬふりをしていることがしばしばある。
 実は今回、のちのちになって振り返った時に、とても重いはずだった重要な仕事を、
「すごい軽い環境で出きるようになるまで、細かく砕いていた」
 ことに気づいたのだ。
 あれ? これって、この手順踏めば問題なくできたんじゃね? 
 もうねw これは気持ちの問題ですw
 せっかく努力してたのにねえwww あー、そんなにやりたくなかったんだwww

 ■カレンダーの違い

 退院が近づいたころ、わたしはいつもつけているスケジュール帳、というか備忘録をぺらぺらとめくって愕然とした。
 正直、5月から8月のわたしは褒められたものではなく、本業方面は堅実にやっているが、とくにいそがしいわけでもないにそれ以外はまるでダメ、という状態だった。まあ、ちゃんとやっているからとは言い訳はつくのだけど、あまりにも何もしていなくて、じりじりとした焦りを感じてはいたのは事実。
 しかしぽつりぽつりとしか書いてないその「何もしていなかった月日」は、びっしりと書き込まれた入院中のプロジェクトノートのスケジュールより多くのことをしているのである。
 つまりわたしは入院中は、退院に向けて必要なことはしているが、そこから出るともう関係なくなることに一生懸命になっているのである。適切な例を挙げるのが難しいので、悩んだ末に、とても抽象化して一般化した例を挙げるのだが、
 ある組織の特殊な儀式を一つずつ丹念に行っているだけ
 なのである。
 わたしは技術職だったのでよくあったのだが、派遣で現場に放り込まれて、デスマーチぎみになって職場をとりあえず派遣期間終了まで生き残る、経験にだいぶ近い。死なない程度に頑張るのがとりあえずの任務で、実際にはそうではないのだけど、文章で見える範囲を汲んでいる限りは、派遣期間終了ですっぱり手を切るので、次の派遣先の業務と一切関わることはない。なので、お金だけもらってさようなら、なのだけど、こういう期間を実のあるものにするのは、けっこうたいへんだ。
 一方、自分の自由になる部分は、全部自分の次の日以降に向かって積み上げることができるので、やっていることの意味も明確だし、じゃっかんひどかった過去数ヶ月をうらめしく反省する。
 
 さてさて、積み上がっていることたちはリストアップしたので、作業を細かく砕く作業に勤しみましょうかねえ・・・、などと思う。
 いや、そのまえに「消えなかった月」にしなければ。




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